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涙と膿 15

 何が何だか、わけがわからない。

 罪の意識がそうさせるのか、精神の衰弱のせいか。

 幻聴に続いて幻覚まで見るようになってしまった。


 しかしこの男・・・。


 北村は向かいに立つ男の、眉のない顔を見た。

 無表情だが、見ようによっては笑っているようにも見える。


 この男、はっきりは言わなかったが、あの血まみれの靴が見えていたようではないか。

 他人が見た幻覚を見るなんて、そんなことがあるのか?


「どうやら、私の勘が当たったようですね」。男は言った。「心配なさらないでください。あなたが殺人犯でも、わざわざ警察に突き出したりはしませんよ。私、得にならないことはしない主義でして。

 それよりも、何があったのか詳しく話していただけませんか?私、ちょっとした人助けを生業にしておりましてね」


 いつ取り出したのか、男の黒い手袋をはめた手には一枚の名刺があった。


『有限会社 雅覧堂

 代表 惧堂我磨』


「・・・がらんどう?」


「会社といっても、店舗もないし、社員も私一人ですがね」


「せ、セールスマンの・・・、ようなものですか?」


 北村が言うと、惧堂という男は目を伏せてクックッと笑った。


 自分がどうしてセールスマンなどと言ったのか。理由はすぐに思い当たった。

 昔見たアニメのキャラクターによく似ていると思ったのだ。

 惧堂はあのセールスマンに比べれば遥かに細身だが、黒づくめの服装といい、真っ白な顔といい、何を考えているのか分からないところといい、共通点も多い。


 だがあのセールスマンが実在したとして、今の北村には、残念ながらノーサンキューだ。

 何故なら自分はもう、心の隙間を埋めてもらうくらいでは、どうにもならないところまで来ている。


「あなたは、なかなか察しがいい」。惧堂は言った。「さきほど申し上げたように、この市場は誰でも入って来られるという場所ではないのです。言わば会員制の市場でね。

 私の仕事は、ここで商品を仕入れて、必要とされる人に販売することなんですよ」


 北村は赤い光に染まった、廃墟同然の商店街を見渡した。


 こんなところで、何を買うと言うんだ?


「あなたに何があったにせよ、私は力になれると思いますよ。何しろ、この市場で叶わないことなんて、たった一つしかないんですから」

 立ち話もなんですからと言う惧堂についていくと、店舗(?)と隣の建物との間に積み上げられた木箱の山から二つ取り上げ、それを伏せて椅子にし、二人はそこに腰を下ろした。木箱には何のものか分からない液体が付着していた。何が入っていたのか気になったが、北村は考えないことにした。


 店の間の細い隙間に腰かけ、北村はこれまでにあったことをポツリポツリと話し始めた。話が今夜のことに差し掛かったところで、胸の奥から感情の激流が押し寄せ、涙とともに、まさに堰を切ったように言葉が止まらなくなった。


「ぼ、僕は、本当に、心の底から、彼女のことを愛していたんだ!よ、世の中にごまんとある安物の男女関係なんかじゃない。い、い、命がけで、彼女のことを・・・」


 惧堂は無表情のまま、何度か肯いた。


 何を考えているのか。

 北村の事を、真に哀れと思っているのか。

 あるいは、どうやって金をせしめてやろうと考えているのか。

 こんなクズ野郎は警察に突き出してやれと思っているのかもしれなかった。


「どうぞ。使ってください」。惧堂は真っ白なハンカチを手渡した。

 北村は無言でそれを受け取り、涙と鼻水でグショグショになった顔を拭った。


 十五分か二十分くらいは、そのまま泣き続けていたと思う。


「いいんです」。やがて北村は口を開いた。「もういいんです。僕なんて元々、生きている価値もない。子供の頃から日陰者で、何ができるわけでもない。家族にだって疎まれているんです。

 そして、とうとう犯罪者だ。社会に適応できない落ちこぼれが、社会からつまみ出される悪者になってしまったというだけのことです」


 惧堂は目を閉じ、神妙に肯いた。「なるほど。あなたは心の優しい、真っ直ぐな方のようだ。気をしっかりお持ちになってください。自暴自棄になってはいけません。

 もちろん、あなたが警察に自首したいというのなら、それも良いでしょう。

 仏門に入って、生涯彼女を弔いたいと言っても、反対はいたしません。

 彼女の後を追って、自ら命を絶つ・・・。それだって自由だ。

 しかし、あなたはついてる。偶然この市場に迷い込み、この私に出会ったのですからね。

 さて、北村章夫さん。あなたがいるこの場所はデモンズ・マーケット。あらゆる願いが叶うところです。

 もし、なんでも願いが叶うとしたら、あなたは何を願いますか?」


 北村はゴクリと唾を飲んだ。

 惧堂に対して名乗った覚えはなかったが、そんなことはどうでもよかった。きっとこの男は、何でも知っているのだろう。訳もなく、そんな気がしていた。


 なんでも叶うなら・・・。


 脳裏に香織の顔が浮かんだ。うつろな表情でフローリングの床に倒れている香織ではない。生きて、笑っている彼女の顔だった。


 一度も僕に向けてはくれなかった、あの笑顔。

 たった一度でいい。僕に笑いかけてくれるなら・・・。いや、笑いかけてくれないまでも、そうなるように努力できるなら。その権利を得られるなら。彼女が死んでしまった事実を帳消しにして、もう一度彼女と話し合えるのなら、僕はなんだってするだろう。


「やり直したい」。北村は言った。「彼女を生き返らせて欲しい」


「承知いたしました」。惧堂我磨は木箱から立ち上がると、洗練された動作で北村を招いた。「こちらへどうぞ」


 廃屋同然の建物の隙間から、大通りへ続く短い土の道に、まるでレッドカーペットが敷かれているかのようだった。


 店舗が十数件の小さな商店街だ。目的の場所には、すぐ着いた。

 商店街の中でもひと際目立つ二階建ての建物。白いモルタル張りが血を流しているように見える、あの建物だった。

 遠くからでは分からなかったが、枠組みだけになった庇の上に、不釣り合いなほど大きな看板がかかっている。

『陽気な小人』

 文字の周囲に小人が三人、踊っている絵が描いてある。三人が三人とも、何処か気味の悪い表情で笑っている。踊っているところを表現しているのだろうが、手足の関節が明らかに妙な方向に曲がっていて、まるで複雑骨折しているようだ。


「陽気な小人・・・」。妙な名前だなと思って、北村は呟いた。

 これでは、何を売っているのか、さっぱり分からない。


「ここの店主が、小人に似た見た目をしていましてね」。向こうを向いたまま、惧堂が答えた。

 古い喫茶店にあるような、ガラスが格子状に仕切られたドアだが、ガラスは一枚も嵌っていない。

 惧堂がドアを開けると、ドアベルがカランカランと音を立てたが、油のきれた蝶番の方が大きな音を立てた。

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