涙と膿 14
商店街?
赤い光を別にすれば、そこは商店街のように見えた。正確には、商店街の廃墟のように見えた。
瓦屋根に店名を掲げた商店。入口は薄いガラスの嵌った木の引き戸だ。看板は破れてしまって文字は判読できず、瓦もあちこち剥がれて下の土葺きが露になっている。よく見ると、建物全体が歪んでいる。引き戸が片側しか開いていないのは、もう片方が動かなくなっているせいかもしれない。
モルタル張りの二階建て住宅は、この中では先進的な造りをしている。一階は店になっているが、二階は住居だろうか。屋上に柵、窓には鉄格子(牢獄のそれではない。あくまで転落防止用のものだ)があり、その両方ともがボロボロに腐食している。錆が白い(少なくともかつては白かった)外壁に、まるで流れ出た血のように多くの赤黒い線を引いている。店の入口にはビニール製の庇が設けられているが、経年劣化で朽ちていて、ほとんど骨組みだけになっている。
そんな店舗が、まっすぐ伸びた土道の両側に、ここから見えるだけで十軒くらい並んでいる。
道の突き当りには、三角屋根で石造り風の、他より大きな建物がある。玄関の前に数段の石段とポーチがあり、正面扉は観音開きになっている。役場だろうか?どちらかといえば教会、いや、神殿といってもいい。
この大都市のど真ん中に、こんな廃墟群?
いや、廃墟ではない。
店員の姿さえ見えないが、どの店も店先を開き、商品を並べて、たしかに営業している。
北村は気味が悪くなった。
これ以上進むのは恐ろしかったが、戻るのもまた、同様に恐ろしかった。
まるで波に漂うクラゲのように、北村は自分の意志とは無関係に薄気味悪い商店街を漂った。
見上げると、赤い光の正体は、はるか上空にぶら下げられた、無数の提灯だった。
この区画の周囲に立つ、いくつものビルの壁面から壁面へとワイヤーが張り巡らされており、そこに何百という提灯がぶら下がっている。
ワイヤーが結わえ付けられたビルは古いものばかりだが、奇妙なことに、すべてのビルに窓がない。
窓がいっさいないというのは、いくらなんでも不自然だから、この商店街に面して窓を作っていないということなのだろう。
だとすれば、かなりの数の人間(あるいはかなりの権力を持った少数の者たち)が、この商店街を隠そうとしていることになる。
「おやおや、珍しい顔だ」
いきなり耳元で囁かれたような気がして、北村は驚いて振り返った。
そこには、黒いコートを着て(八月だぞ?)、黒い手袋をし、黒い中折れ帽をかぶった背の低い男が立っていた。
この赤い光の中では分かりにくいが、おそらく顔は病的なほど白く、眉がほとんど(おそらくは、まったく)ない。どこか爬虫類を思わせる風貌だ。
「市場は初めてですかな?」
殺し屋のような、あるいは死神のような男だなというのが、北村の第一印象だった。
少々特殊な風貌をしているとはいえ、この薄気味悪い場所で人に出会えたことに、北村はいくらか安心した。
「市場?」
「ほう。ご存知ない?」。男は興味深そうに帽子に手を添え、下から顔を覗き込んできた。「なるほど。迷い込んだというわけですか。実に興味深い。
いえね。あなたはご存知ないかもしれませんが、何故ならここは、ちょっと地域を探索しようなんてことじゃあ、絶対にやって来られない場所なんですよ。ここに繋がる曲がり角ごとに、ちょっとした魔術が仕込んでありましてね。右か左か真っ直ぐか、迷ったのなら必ず違う道を選ぶようにできている。
だから入って来る者がいるとしたら、私のようにちゃんとこの場所に用のある者か、或いは、自分が何処を歩いているのか分からないほど、心神喪失状態にある者に限られる。
あなた、何をどうして、そんなに焦っておられたんですか?」
男の言うことは半分も理解できなかったが、自分が普通の状態でないことを見抜かれるのは、まずいと思った。
「べ、べつに・・・、僕は何も・・・」
「ひょっとして、人でも殺されましたか?」
「な・・・っ!」。北村は焦った。
どうして、そんなことが分かる?
人の考えが読めるのか?それとも、小説や漫画の名探偵がやるように、服装や仕草といった、わずかな証拠からそれを見抜いたというのか?
いや、わかるはずがない。真に受けるな。当てずっぽうだ。
当てずっぽう?
だとしたら、この男は会う奴会う奴、『人殺しですか?』と声をかけてまわっているということになる。そんなバカな・・・。
「そ、それは・・・」。北村は怒ったふりをした。「いくらなんでも失礼でしょ!初対面の人に対して、ひ、ひ、人殺しだなんて!」
男はきょとんとして、北村の顔を見つめた。「それは、たいへん失礼いたしました。いえいえ、悪気はないのですよ。ただね・・・」。男は北村の足元に視線を下げた。」
つられて北村は、自分の足元を見た。そしてギョッとした。
彼が履いていたのは、あのとき血だらけになったスニーカーだった。
北村の持ち物の中では新しい部類に入るスニーカー。デパートの靴コーナーで1980円(税別)で買ったもの。元は白かった、その大部分が血に染まっている。ほとんどは乾いて赤黒く変色していたが、一部ではまだゼラチン状の血液が付着していた。
「そんな!そんなバカな!」。北村は悲鳴のように叫んだ。
今自分が履いているのは、香織の部屋から拝借したクロックスだと思っていたからだ。
いや、勘違いのはずがない。ここに来るまでも、サイズの合わないクロックスに歩き難い思いをしたではないか。このスニーカーは香織の部屋の、たしか浴室の前に脱ぎ捨ててきたはずだ。
「靴は履き替えたはずだ!この靴は!う、うわぁーっ!」。北村はパニックに陥った。
頭の中が真っ白になり、考えようとしても上手くいかない。言い訳など考えられるはずもなく、目の前の男に見逃してくれと懇願すればいいのか、後ろを向いて逃げ出せばいいのか、それすらもわからない。
状況が緊急を要求するあまり、過負荷に陥った脳が稼働を停止した。
「どうされました?ほら、大丈夫ですか?」
ハッとして顔をあげると、眉のない顔がすぐ近くにあった。
「違うんだ!僕は人なんて・・・。この靴は・・・」
「靴?靴がどうかしたんですか?」
「え?」
再び足元を見ると、北村が履いていたのは香織の白いクロックスだった。




