涙と膿 13
最初、香織はなにが起きたのか分からなかったようだ。
驚いたように北村の顔を見る見開かれた目には、無数のクエスチョンマークが浮かんでいた。
やってしまった。
後悔(というには、あまりに突発的な感情)がやって来て、すぐに消えた。
もう後戻りできないことは分かっていた。
後戻りができないのなら、早く終わらせるしかない。
僕のためにも、愛する彼女のためにも、一刻も早く終わらせなければならない。
北村は包丁を引き抜くと、もう一度突き刺した。さらにもう一度、さらにもう一度、さらに・・・。
許されない残虐な行為。
一刺しごとに、これまでの人生で培ってきた倫理観を、自ら土足で踏みにじっていく気がした。
もし後でこのときの事を訊かれたら、警察で事情聴取に問い詰められたら、僕は何と答えるだろう。
『あのときは夢中だったので、ほとんど何も覚えていません』
そんなの嘘っぱちだ。
夢中だったかもしれないが、こんなの忘れられっこない。鋭利な金属が血の詰まった皮を破る感触。回数を重ねるごとに、どんどん柔らかくなっていく肉の感触。
動かなくなった(そしてもう、二度と動かないであろう)人間の体に、繰り返し繰り返し、念入りにトドメをさす。
倒れた女に馬乗りになり、包丁を逆手に持ち替えて、さらに突き刺す。おびただしい量の返り血を浴びながら。
そんな経験、どうやったら忘れられる?
彼女が確実に死んだと悟るまでに、北村は十七回も刺していた。
香織は焦点の定まらない目を虚空に向け、流れ出た血は短い廊下全体に広がった。どす黒い血の池には、電灯の姿が映っていた。
それから北村章夫は死体の横に胡坐をかき、長い間血にまみれて座っていた。
頭にあったのは、自分の境遇に対する絶望と、香織に対する憐憫。
そしてもう一つ。人を殺すということが、こんなに疲れるものだとは・・・。
自首すべきだろうか。そうすれば極刑は免れるだろうか。
それでも人殺しのレッテルは、生涯ついて回るだろう。
警察、裁判、刑務所・・・。長く、長く続く償いの時間。
それだけじゃない。家族は?家族はどうなる?
来年定年退職を迎える父は?リウマチの酷い母は?もう二年近くもろくに口をきいてくれない、年の離れた妹。彼女の将来は?
殺人犯の肉親として、肩身の狭い思いをさせることだろう。今の家には住んでいられず、引っ越しを余儀なくされるかもしれない。
そうして二時間も頭を悩ませた後、北村はようやく立ち上がって後片付けを始めた。
今も傷口から血が溢れだす死体を引きずって風呂場に運び、苦労してバスタブの中に横たえた。
床の血を拭うのに、洗濯機の横に干してあった雑巾だけでは、まったく足りず、香織のクローゼットから使えそうな服を何枚か拝借してきて使った。
北村のシャツもズボンも、靴も靴下も、下着までぐっしょり血で濡れていた。そんな状態で拭き掃除をしても、新たな血を塗り付けることになる。それらは全部ゴミ袋に放り込んで、全裸で掃除することになった。
最後に北村は、念入りに自分の体を洗った。全身にこびりついた血はなかなか落ちず、排水溝へ向かう水は、いつまでも錆の色をしていた。
グレーのスーツを着たままバスタブに横たわる香織の顔は、北村が体を洗っている間、ずっと壁の方を向いていた。もちろん北村がそうなるように横たえたのだが、目の端に映る彼女が、いつの間にか振り向いている気がして、何度もそちらを確認して胸を撫でおろした。
体を洗い終えた北村は香織のクローゼットを開いて、衣装ケースの中から自分が着られそうなものを選び出した。
彼は男としては小柄な方だが、香織の服の中で着られるのは、せいぜいTシャツとハーフパンツくらいのものだった。履物は、下駄箱にあった香織の白いクロックスを借りることにした。
香織は下駄箱の前に部屋のキーを落としていた。それを使って鍵をかけ、北村はマンションの部屋を出た。
特に何か目的があったわけではない。
ただ、これ以上死体と同じ部屋にいたら気がおかしくなってしまいそうな気がしたのだ。
マンションの外は静まり返っていた。
時間の感覚がまったくなかった。今何時だろうとポケットにスマホを探したが、どうやら香織の部屋に忘れてきたらしい。
たぶん調理台の上だ。服を脱いだ時、そこに置いたのを思い出した。
取りに帰るか?いや、どの道部屋をあのままにしておくことはできない。
スマホだけじゃない。服もあそこに置いてあるし、部屋中僕の指紋だらけだ。
とはいえ、推理小説の殺人犯のように、徹底的に証拠を隠滅する気にはなれなかった。
もう何もかもが面倒くさかった。
もともとたいした目的もなく生きてきた人生だったが、この失恋(そう呼んでもよいだろうか?)によって、さらにつまらないものになった。
だったら、たいへんな苦労をして証拠を消し、罪を逃れるよりも、もっと簡単な方法がある。
北村はあてもなく、とぼとぼと町を歩いた。
まったくと言っていいほど人通りのない佐山町の坂を下り、新堂の繁華街へと差し掛かった。
夜も更け、人通りの少なくなった繁華街。仕事を終えたキャバクラやホストクラブの呼び込みが、円陣を組んで煙草を吸っている。バス停のベンチや閉じられたシャッターの前で酔っ払いが鼾をかいている。ろれつの回らない言葉で、何やら叫んでいる奴がいる。狂ったように笑う奴、泣く奴、怒る奴。
杓子定規に組み立てられた社会の、そのツケを払うためにあるような町。
昼間ならば、正常と呼ばれる人が誰一人いないような町。
北村は速足で通り過ぎようとした。
「あいつだよ、あいつ」。向かいから歩いてきた、サラリーマン風の二人組。その眼鏡をかけた方が言った。「女相手に、めった刺しだぜ。酷いことしやがる」
「え?」。思わず顔を見た。
北村と目が合った男は、気に食わなかったのだろう。因縁でもつけかねない勢いで睨み返してきた。
北村は目を逸らした。
こんな奴が知っているはずがない。ただの偶然だ。
二人組は、尚もしつこく顔を覗き込んできたが、北村は目を伏せて通り過ぎた。
どちらの男がしたのか。あからさまな舌打ちの音が聞こえてきた。
「殺人犯のくせに、堂々と町を歩きやがってよ。刺された彼女は、かわいそうに、今もバスタブの中で待ってるんだろ?」
北村は息がとまるほど驚いた。しかし、たまたますれ違っただけの通行人が、そんなことを言うはずもない。妄想だ。幻聴だ。でも、もしかして、もしかして・・・、
ボクワオカシクナリカケテイル?
何処をどう歩いたなんて覚えていないし、何処をどう歩こうが構わなかった。
分かれ道があれば曲がってみたり、曲がらなかったりした。
さっきは右に曲がったんだから、今度は左に。角に自販機の明かりがあるから、そっちの方向に。電柱の下に犬のクソがあるから、その反対側に・・・。
まるで入口も出口もない迷路の中を彷徨うようだった。
暗闇から明かりの中へ。明かりの中から、また暗闇へ。
だから、何処をどう歩いてそこへとやって来たのか、少しも覚えていない。
景色を染める、毒々しい赤い光に気付いて、北村はようやく足を止めた。




