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涙と膿 12

 北村章夫は薄暗い部屋の中にいた。

 カーテンの隙間から差し込んだ陽光が、フローリングの床に細く線を引いている。

 クーラーがゴウゴウと音を立て、全力で部屋を冷やそうとしている。


 この一週間、ろくに部屋から出ていない。


 我慢できないのは、この不快な匂い。鼻にツンとくる薬品の匂い。日を追うごとに強くなっていく。一週間部屋の中にいても慣れることはなかった。


 食欲はまったくと言っていいほど湧かないから、食料を買いに行くことも少ない。

 おかげでずいぶん痩せただろうと思う。鏡には、まるで幽霊のようにやつれた男が映った。目の下には青いクマができ、頬の肉は落ちた。首も腕もずいぶん細くなったような気がする。それでも下腹だけは、ぽっこりと出たままだった。

 おまけに、ほとんど眠れていないせいで心身ともに疲弊していて、そろそろ幻覚でも見始めそうな気すらした。


 いやむしろ、アレが幻覚であったなら、どんなに良いかと思った。


 消えたままのテレビの前に、うなだれて座り込んだ、黄色いワンピースを着たアレ。


 一週間前には、新田香織であったもの。


 その顔に表情はなく、白く濁った目は虚空を見つめている。ときおりウゥと呻くように声を出す以外には、何も喋らない。

 今朝暴れた拍子に傷口から漏れたのだろう。ワンピースの腹部にはどす黒い血が滲んでいた。


 どうして・・・。どうして、こうなった?




 あの日、そう、金曜の夕方だった。


 北村は香織のマンションを訪れた。


 この日彼女が仕事だということは知っていた。帰って来るまでは、まだ時間がだいぶあることも。


 一カ月前まで派遣会社に勤めていた北村だったが、派遣先が香織の勤める会社から変わったタイミングで辞職していた。

 家は両親と実家暮らし。これといった趣味もなく、友達もいないので金には困らない。

 暇なときは、こうして散歩していた。

 散歩コースはもっぱら香織のマンション周辺。あるいは彼女の職場周辺。


 折れた歯がズキズキと痛んだ。

 その三日前、香織の婚約者を名乗る男に顔を殴られ、歯を折られた。病院には行かず、長い時間、濡れタオルで傷口を抑えていた。タオルは血で真っ赤になった。


 どうして自分がこんな目に合わなくてはならないのか、疑問だった。

 何も悪いことなどしていないではないか。ただ愛する人の姿を見たくて、彼女の下へ何度か足を運んだ。それだけのこと。


 そして彼女もまた、自分の存在に気が付いた。


 受け入れられるとは思っていなかった。

 実は彼女の方もこっちに気が合って、二人恋人同士共に楽しい時間を過ごせるだなんて、夢のようなことが起きるとは思っていなかった。


 だけど少しくらい、少しくらい僕の気持ちを汲んでくれたっていいじゃないか!


 そんな自分に対して、新田香織が行った仕打ちは酷いものだった。

 彼女の婚約者だという男を呼び寄せ(あの茶髪にピアスの、いかにも軽薄で頭の悪そうな男!)、自分を殴らせたのだ。


 北村はこれまでの人生で、殴り合いの喧嘩をしたことなど一度もなかった。

 学校と両親が掲げる『嘘つきと暴力は悪』という教えを忠実に守り、それにそぐわない人間は犯罪者予備軍と見なし、軽蔑して生きてきた。

 もちろん、あの手合いに腕力で勝てるだなんて思っていなかったし、仮に勝っていたとしても、暴力で解決する気はなかった。


 逃げ出したのは奴が怖かったからだが、それだって自衛の手段に過ぎない。僕は悪いことは何一つしていないし、後ろめたいことだって何もないんだ。


 この日香織のマンションを訪れたのは、それについて彼女と一度ゆっくり話し合いたかったからだ。


 選ぶのは彼女本人だ。僕が選ばれなくたって、それは仕方がないことさ。だが少なくとも、馬鹿で軽薄で暴力的なあの男は、香織(北村は裏でそう呼んでいる)には相応しくない。


「あんた、何か用かい?そんなところに突っ立たれちゃあ、邪魔なんだけどねぇ」


 びっくりして視線を向けると、箒を持ったおばさんが眉間にしわを寄せてこっちを見ていた。

 この前を通るとき、何度か見たことがあった。たぶん管理人だ。


「す、すみません。ぼ、ぼ、僕は・・・」。北村は口ごもった。


 おばさんの眉間のしわは、ますます深くなる。「うちの住人じゃないね。何号室に用があるんだい?」

オートロックが必要ないわけだ。この管理人がいる限り、このマンションのセキュリティは万全というわけか。


「二〇三号室に・・・」。言って、しまったと思った。こんなときに本当のことを言う奴があるか!


「二〇三?香織ちゃんの部屋じゃないか。あんた、もしかして・・・」


「婚約者です!」。嘘が、咄嗟に口をついて出た。

 あわよくば、あの憎い男のせいにしてやろうと、そんな考えが働いたのは否定できない。


 あの男のせいに?

 何を奴のせいにする?僕はいったい何をしようとしている?


 効果はあった。おばさんの表情がいっぺんに緩んだ。それどころか、にんまりと笑って北村の肩をバンバン叩いた。「あんたが、そうかい!香織ちゃんから話は聞いてるよ!やるじゃないか!」


 北村はだらしない笑みを浮かべて話を合わそうとしたが、何が『やる』のか、さっぱり分からなかった。


「今日は金曜だから、香織ちゃんはまだ会社だと思うけど?」


「ええ。知ってます。実は、今日は彼女の誕生日でして・・・。僕が来ていることは言ってないんですけど、その・・・、彼女の部屋に上がらせてもらえないでしょうか?驚かせたいので。つまり、その・・・、サプライズってやつをやりたいわけです。もちろん、セキュリティの問題なんかがあるでしょうから、差支えなければ・・・、ですけど?」


 おばさんは嬉しそうに笑って「そういうことなら」と、部屋の前まで一緒に行き、鍵を開けてくれた。

「頑張ってね!」。サプライズの片棒を担げたのが嬉しかったのだろう。おばさんはウキウキとした足取りで去っていった。「まったく、若いっていいわねぇ」


 思っていたより、いや、思っていた数百倍も上手くいってしまった。


 不法侵入・・・。


 そんな言葉が頭を過って、冷や汗がどっと噴出した。

 これで正式に犯罪者になってしまったかもしれない。しかもあの管理人に、ばっちり顔を見られている。


 玄関を入った左手は台所になっており、水切りラックにいくつかの食器と万能包丁が干してあった。

 反対側にはトイレとバスルーム。

 廊下の突き当りにはガラスの嵌ったドアが半開きになっている。あそこはリビング兼寝室だろう。


 行ってみたいのは山々だったが、そうすると自分が完全に不法侵入の変態になってしまう気がした。


 香織が帰って来るまで、あと四時間以上もある。

 北村は玄関を上がったところに腰を下ろして膝を抱え、一人ブツブツと言い訳の練習を始めた。


 靴を脱がなかったのは、最悪の場合、逃げ出せるようにするためだった。

 香織は玄関から帰って来るだろうから、そこで靴を履きなおして逃げるのは、現実的ではない。裸足で逃げれば、残った靴はいわゆる遺留品になってしまう。証拠物件Aというやつだ。


 もし、入って来るのが香織一人じゃなかったら、どうしよう。


 あの憎たらしい婚約者や会社の同僚が一緒かもしれないのだ(これまで後をつけている間に、そんなことは一度もなかったが)。香織一人なら押しのけるなり、突き飛ばすなりして逃げることも可能だろうが、複数いた場合には、そうはいかない。


 そうだ。香織が僕を許して、受け入れてくれさえすれば万事上手くいくんだ。というか、もう、それしか術がないんだ。大丈夫さ。さっきの管理人だって、僕を応援してくれていたじゃないか。


 北村は一人暗闇で自分の正当性を主張し、都合の良い妄想にすがった。


 だが当然、そうはならなかった。


 北村がそこにいるとは夢にも思わないであろう香織は、当たり前のように帰って来て、玄関の電気をつけた。

 そして北村を見つけ、悲鳴を上げようとした。

 一度目は過呼吸を起こして失敗したが、香織は助けを呼ぶため、もう一度息を吸い込んだ。


 北村は絶望した。


 この展開は予測できていた。できないはずがなかった。

 土壇場になって、ようやく自分の希望的観測というやつに気が付いた。

 そう。香織は僕のことなどこれっぽっちも気にかけてはいない。それどころか、危険人物として恐れられていることだろう。


 絶望、混乱、そして猛烈な怒り。

 全身全霊の愛を拒絶されたことに対する怒り。

 北村章夫の分不相応な自尊心が、そのまま怒りへと姿を変え、彼を突き動かした。


 北村は水切りラックに干してあった万能包丁を握ると、ほとんど躊躇することもなく、目の前の女性の腹部に突き刺した。

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