涙と膿 11
数日前に会ったときは暗い街灯の下だったが、見間違えるわけがなかった。
不潔そうな後ろで結んだ髪と、根性の悪そうな目つきは相変わらずだった。何よりの証拠に、前歯が一本無かった。
明らかにサイズが小さすぎるTシャツにハーフパンツを履いていて、モジャモジャの脛毛が露になっていた。
驚きと恐怖で半ばパニック状態の進之助だったが、次第に胸の奥から怒りが湧いてきた。
「てめぇ!こんなところで何してやがる!」。進之助は怒鳴った。「香織さんは何処だ!香織さんを出せ!」
こいつ、あんまり香織さんに相手にされないんで、ついに押し込みやがった。
もし・・・。進之助は考えた。もし、こいつが指一本でも香織さんに触れていたら、俺はこいつを殺してしまうだろう。
男は一瞬怯んだように見えたが、飄々として「なんだい。聞いてないのかい?僕たちは一緒に暮らすことになったんだ」
前歯が一本欠けているせいで、滑舌がいまいちだ。口の中もまだ腫れているだろう。
「ふざけんな!そんなわけないだろ。このストーカー野郎!」
「困ったもんだな」。喋りにくそうに、男は言った。「本当に何も知らないんだな。僕はもう、ずいぶん前から香織と付き合ってるんだ。この同棲を機に、君との婚約も解消したいと彼女は言っている」
目の前の男はたぶん自分より十くらいは年上で、何故か香織の部屋にいて、落ち着き払った態度で自分に説教を垂れている。
間違っているのは俺なのか?
一瞬、そんな考えが頭をかすめた。
香織さんが俺を騙していたってことなのか?
違う!断じて違う!
香織さんは俺を騙したりしない!
「信じられないって言ってるだろ!彼女を出せ!香織さんに会わせろ!」
男は困った顔で首を振った。
この馬鹿には何を言っても無駄だな。そう言われているような気がした。
「そうまで言うんなら、仕方がない。待ってろよ」。そう言って、男は奥へ入って行った。
まさか・・・。まさか・・・。
進之助は再びパニックを起こした。
香織さんが・・・、出てくるのか?
「進ちゃんごめんなさい。ずっと言い出せなかったけど、私この人と付き合ってるの。
この間のこと?実は彼と喧嘩しちゃって・・・。
だから私、私に惚れてる便利な年下の男を使って、酷い目に合わせてやろうと思ったの。
あなた、馬鹿で単細胞だから思った通りに動いてくれたわ。
どうも、ありがとう。弾みで歯が折れちゃったけど、いいのよ。治療代なんて請求しないから安心して」
電気もついていない暗い玄関で、進之助は立ち尽くした。
数日前やって来たところと、同じ場所とは思えなかった。
電気が消えているからか、時間帯のせいか。あの男がいるからか。それとも何処かから漂ってくる、この酸っぱい匂いのせいか。
しばらくして、男が香織の手を引いて戻って来た。
裁判官が判決文を携えて戻ってきやがった。
『被告、日野江進之助は、身の程を弁えない恋をした罪と、事情もよく知らないまま、この気持ち悪い男性を殴り、歯をへし折った罪により、死刑!』
香織は細いジーンズに、黒い大きめのシャツを着てた。どちらも見たことのある服だったが、彼女らしくないコーディネートだなと思った。
彼女は進之助と目を合わそうとしなかった。
わざわざ出てくるのも億劫だと言わんばかりに、足取りは重く、まるでインフルエンザで熱が四十度もあるかのようだった。
その様子を見て、進之助は終に信じた。
辛い思いをしたことや酷い経験は何度もあったが、こんな無茶苦茶なのは初めてだと思った。
いつの間にか涙が溢れて頬が濡れていた。
進之助は泣き声で訊ねた。「どういうことだよ、香織さん。こいつと暮らすだなんて、嘘だよね?ねぇ、何とか言ってくれよ、香織さん!」
香織は何も言わなかった。暗い玄関では、表情もほとんど読み取れなかった。
「説明してくれよ、香織さん!」。進之助は香織に近づくと、その手を取ろうした。
そこへ男が割って入った。
「やめろよ。彼女が困っているじゃないか。この際だから言っておくが、僕は何度も彼女から相談を受けていたんだ。しつこい男に付きまとわれて困っているってね。君も彼女のことが好きなら、潔く身を引いたらどうなんだ?」
「嘘だ!香織さんがお前なんかと!なぁ、そんなはずないだろ?嘘なんだろ?こいつに脅されているか、さもなきゃ弱みを握られてんだろ?嘘だと言ってくれよ、香織さん!」
「もうやめろ!」
彼女に近づこうとする進之助を、男は乱暴に突き飛ばした。
進之助は涙と鼻水でグチャグチャになった顔のまま、バランスを崩して尻もちをついた。
こんなに惨めなことってあるだろうかと思った。
これが失恋の惨めさ?
喧嘩では負けなしの、この日野江進之助が、こんな奴に突き飛ばされて、玄関のたたきで泣いてるなんて・・・。
あのストーカー男は、いまだ名前も知らないあの卑怯者は(少なくとも、ついさっきまでそう信じていたこの男は)、そんな進之助を見ながら、さも満足そうに口の端を歪めた。
そして、これみよがしに香織の顎を掴むと、その唇に自分の唇を押し付けた。
進之助は足元の地面が崩れて、その中に全てが落ちていくような錯覚に捕らわれた。
自分の体や持ち物だけでなく、これまで積み重ねてきたものや思い出、そしてこれから歩んでいくであろう未来までもが、まとめて奈落の底へ落ちていくような気がした。
進之助は喚いたかもしれないし、喚かなかったかもしれない。
そこから先の記憶は曖昧だ。
気が付くと進之助は、佐山町の来たこともないような道を歩いていた。
帰るつもりもなかったが、足は自然と部屋へと向き、帰り着いた進之助はその日一日、部屋の隅で死んだように座っていた。
頭に浮かんでくるのは、香織の部屋の玄関であったあの出来事ばかり。それを繰り返し繰り返し思い返しては、また傷ついた。
まるで精神の自傷行為だなと進之助は思った。
このまま俺は、死ぬまで自分を傷つけ続けるのだろうか。
「まぁ、死にゃあしなかったよ。あんなに落ち込んだのは生まれて初めてだったけど、怪我と一緒で時間が経てば、ちゃんと治るものなんだな。
翌日はバイトを無断欠勤したけど、その次の日はちゃんと出た。でも、俺はそうとう酷い顔してたらしくって、ヘッドウェイターの高原さんが俺の顔をみるなり、『上には俺が言っておくから、今日はもう帰って休め』って言ったくらいだ。
あれから一週間経って、落ち込んでる場合じゃないと思えるようになったけど、考えれば考えるほど、あのときの出来事が不自然に思えてきてさ。
そんなとき、アリサがレストランにやって来たんだ」
「それで、うちのことを聞いたわけか」。十塚が言った。
進之助は肯いて、ポケットからこの事務所の住所が書かれたコースターを取り出した。「バイトあがりに、ホテルのラウンジでね。ツレの男には悪いことしたなぁ」
十塚はソファに深く座り直し、膝の上で指を組んだ。「それで?お前は俺に何を探ってほしいんだ?」
明らかに十塚の表情が変わった。
さっきまでの寝ぼけた顔が一転して、俄然仕事モードといった感じだ。
何が奴にそうさせたのか、進之助には分からなかった。
今自分が話したことのなかに、何処か琴線にふれることがあったのだろうか。
進之助はゴクリと唾を飲んで、十塚の顔を見返した。「何度も何度も考えたよ。本当に香織さんが俺を騙してたのかってさ。
いつの間にか、あんなダサい彼氏を作ってて、そいつをストーカーだなんて嘘ついて殴らせて、それでちゃっかりヨリを戻して同棲。しかもそれが発覚したのがデートの日なんて、いくらなんでも残酷すぎる。
香織さんとは長い付き合いだけどさ。そんな俺でも、さすがに彼女の心の中までは分かんねぇよ。
だから『何が真実か』は考えるのをやめて、俺が『何を信じるか』を考えたんだ。
問題はずっと単純になった。あの香織さんに限って俺を、あんな残酷な方法で俺を騙すことなんてあり得ないと思った。だとしたら、あのときいったい何が起きたのかだけど、俺が思うにさ、あれは催眠術にかけられたか、妙な薬でも飲まされた結果だと思うんだ」。進之助は十塚の顔をチラリと見て「馬鹿げた話だと思うかい?」
「思うね」。十塚は即答した。「フラれ野郎の脳みそが煮詰まった結果だな」
進之助は顔をしかめたが、悪い気はしなかった。この男は嫌な奴だが、少なくとも正直ではある。
「だが、調べてみるべきところはある」と、十塚は続けた。
「そうさ。だから、あんたにはその証拠を探ってもらいたいんだ。怪しい薬の瓶でも、糸を結んだ五円玉でも、なんだっていい。証拠さえあれば、あとは俺が落とし前をつけさせるからさ」
十塚は目を細めた。進之助を値踏みするような表情だった。「それで?その女がとんでもない嘘つきで、お前は単にフラれたんだと分かったときにはどうするんだ?」
「そのときは・・・」。一瞬、進之助は言葉を詰まらせた。「そのときは、大人しく身を引くよ。
実際のところ、今はもうフラれた気でいるんだ。あとは気持ちの整理をつけるために、納得のいかないところを潰しておきたいだけなのさ」
「なるほど」と十塚は二本目の煙草に火をつけた。「ずいぶんつまらないことに金を使うんだな。当然だが、俺を雇うには金がかかるんだぜ?」
進之助は待ってましたとばかりに、尻ポケットから茶封筒を取り出してテーブルに置いた。「田舎を出るとき、母さんから渡された金の残りと、今月分の生活費だ。二十万と少しある。これ以上は鼻血も出ねぇ」
十塚は煙を吐きながら、つまらなそうに封筒を一瞥して「それっぽっちじゃ、三日しかもたねぇよ」
「てめぇ。一日に六、七万も取る気かよ?」
「半分は手付だよ」。十塚は手を伸ばすと、灰皿に煙草の灰を落とした。「安心しろ。三日で型をつけてやるさ」
十塚は、予定が決まったら連絡すると言って名刺を出してきた。
スマホの番号を交換し、手付の十万円を払って、進之助は事務所を出た。
進之助にとって十万円は大金だが、どういうわけか、金をだまし取られるとか、そういう疑いは持たなかった。
風貌も、言葉遣いも、立ち居振る舞いも、およそ全てのことにおいて信用とは無縁の人物であるのに、奴を信用している自分に進之助は驚いていた。
事務所のドアを閉めたとき、最初ここに来たとき、中から女の声がしたことを思い出した。
声だけの女。十塚の妻か恋人か、愛人の可能性もある。
十塚は胡散臭い男だが、女にはもてそうだ。そして間違いなく女癖が悪いだろう。
そういえば、あの女は何処に行ったんだろう。意外とまだこの事務所の中にいて、自分と十塚の会話を最初から最後まで聞いていたんじゃないだろうか。
狐につままれたような気分とは、こういうことを言うのだろう。
ドアの横には、相変わらず積み上げられた家具と開けっ放しのスーツケースがあった。
家具の向こうには長い廊下が伸びていた。
あのボロエレベーターは四階に停まったままだったので、長く待つ必要はなかった。
乗り込んでボタンを押すと、酷く揺れたあとでゆっくりと動き出した。
一階に着いてビルを出た。まだ三時前だが、ビルの底の細い谷間に太陽は当たらない。
何気なく進之助は振り返って、十塚探偵事務所の入った雑居ビル、下口ビルを見上げた。
狭い敷地に無理矢理建てられたような、細長いビル・・・。
その瞬間、進之助は背中にゾクリとしたものを感じた。
慌てて走り出すとビルの側面に回り込んだ。
下口ビルの隣には、別の雑居ビルが並んで立っている。『○○生命』という保険会社の看板が出ていた。
進之助はさらに走って、下口ビルの反対側にやって来た。
そこは細い路地になっていた。四階から見下ろしたとき、ホームレスがリヤカーを引いて行ったあの路地だ。
「そんな・・・、バカな・・・」。進之助は呟いて立ち尽くした。
そうだペンシルビルだ。
こんな細いビルに、長い廊下なんてあるわけないじゃないか。




