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涙と膿 10

「それが二週間前の話・・・って、おい。聞いてんのか?」


 十塚は欠伸をしながら「当たり前だろ。仕事だぞ」


「だったら、もう少し真剣にやってくれねぇかなぁ」


「俺は真剣そのものだぜ?いいから、続けな」。言いながら十塚は、欠伸で出た涙を親指で拭った。


「そうは見えねぇけどな。

 ・・・とにかく、その一件以来、俺と香織さんの仲は急接近・・・って言っちゃうと、すごく響きがいいけど、スタートがまるで恋愛対象外のところにいたもんだから、ようやく男として見てもらえるようになったってところかな。

 あるいは俺の単なる勘違いだったのかもしれないけど、彼女の電話での言葉遣いやメールに以前とは違う響きや表現を見つけるたび、俺はあのストーカー野郎に感謝せずにはいられなかった。

 なんなら、もう一度くらい街灯のところに立ってくれないかなと思ったくらいだ。歯医者の費用は俺が出すから、もう何本か歯をへし折らせてもらって、俺は怪我して、香織さんが手当してくれたら、今度こそ俺は彼女を抱きしめようなんて妄想してた」


 今が二人の距離を詰める好機とみた進之助は、その週末には必ずデートに誘おうと考えた。今までのような、何かのついでに飯を食いに行くようなやつじゃない。他の誰が見ても二人をカップルだと思うような、デートらしいデートだ。


 だが、さすがにストーカーを撃退した翌日では、恩着せがましいだろうと思った進之助は、金曜まで待つことにした。

 とかく、香織のこととなると進之助は臆病だった。


 昼も夜も、バイト中も、寝ているときでさえ、デートのプランを立てることで頭はいっぱいだった。


 すると木曜日、なんと香織の方から誘いがきた。

『この間のお礼がしたいから、いっしょにご飯食べに行かない?おごるからさ』

 メールアプリのチャット機能だった。


 レストランのロッカールームでそれを見た進之助は、その場で二度飛び跳ねると、客席まで聞こえる声で雄叫びをあげた。


 慌てたヘッドウェイターの高原が飛び込んできて、舞い上がっている進之助の頭をステンレスの盆で殴った。

 盆はゴワンと音を立ててひん曲がったが、進之助は笑っていた。


 二人は土曜に会うことになった。


 金曜の夜、進之助は『明日楽しみだね』とメッセージを送ったが、返ってこなかった。

 香織はもう帰っている時間だったが、疲れて眠ってしまったのだろうと思った。

 これまでも、何度かそういうことがあったから、別段不思議にも思わなかった。


 香織は能力的にも人格的にも、およそ完璧と言ってよい人物だったが(そう評価を下すのは、何も進之助だけではないだろう)、この眠り癖だけは、いただけなかった。それが電車の中だろうが、風呂場だろうが、スーツを着ていようが素っ裸だろうが、疲れていると、まるでスイッチを切るように突然寝に入ってしまうのだ。


 その夜進之助は、まったくと言っていいほど眠れなかった。


 これまで何度か二人で出かけたことはあったが、今度はまるで違うと思った。


 結局、窓ガラスの角に朝日が射すまで一睡もできず、一晩中布団の中でスマホ相手に何度も練り直したデート計画をいじくり回していた。


 寝不足だなんて、ほんの少しも思わなかった。

 進之助は待ちわびたように煎餅布団から抜け出すと、ジーンズに足を突っ込んだ。いつもの倍量のワックスで茶色の髪の毛を一本残らず逆立て、取って置きのTシャツに袖を通し、ベッドの柱にぶら下げてあったペンダントを首にかけた。


 約束の時間は九時だったが、進之助は八時には部屋を出た。いても立ってもいられなかったのだ。


 わざわざ遠回りして徒歩で香織のマンションに向かったが、それでも三十分も早くついてしまった。


 マンションの前で、管理人のおばさんが箒を使っていた。

 きついパーマをあてた、小太りのおばさんだ。

 香織から何度か話を聞かされたことがあった。すごく気さくなおばさんで、地方から出てきた香織のことを、まるで実の娘のように気にかけてくれているとのことだった。


 おばさんは、マンションの前を行ったり来たりしている進之助を、まるで不審者でも見るような目で見た。頭の先から足の先まで値踏みするように眺め、不合格とでも言わんばかりに鼻からフンと息を吐いた。


 『気さく』には、とても見えなかった。


 約束の十分前まで待とうかと思ったが、二十分前には早くも痺れを切らし、進之助は二階まで階段を駆け上がった。


 香織の部屋の前まで来ると、カメラ付きインターホンの映りを気にして距離を測り、髪型を簡単に整えると、一度深呼吸し、ようやくボタンを押した。


 ピンポーン。


 しばらく待ったが返事はなかった。

 やはり早く来過ぎたか?


 女の準備には時間がかかると言うが、香織がそういうタイプでないことはよく知っていた。

十分も待っただろうか。あんまり応答がないんで、もう一度鳴らそうかとボタンに指をかけたところで、ドアの向こうをこっちに近づいてくる気配があった。


 進之助は早く着き過ぎた言い訳をどうしようかと考えた。

『君の顔が見たくて、早く来ちゃったよ』

 嘘じゃないけど、キザだよな。

『思ったより道が空いててさ』

 徒歩だろ。

『時間間違えちゃった』

 アホじゃねぇか・・・。


 ドアが開いた。


 進之助は最高の笑顔を心掛けた。今日を最高の一日にするためにも、朝一番に最高の印象を与えておこうと思ったからだ。


 だがドアを開けて出てきた顔を見た途端、進之助は顔面の筋肉が突っ張って、いったい自分がどんな顔をしているのか分からなくなった。


 それは愛しい香織ではなかった。


 それどころか女性ですらなく、それどころか・・・。


 それどころか、そこに現れたのは、この世の中で最もそこにいてはいけない人間だった。

「また君か。・・・今度はいったい何の用だい?」


 あのストーカー男だったのだ。

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