哀れなもぐらと狼の本分 4
クレアはテーブルに置かれていたトレイを引き寄せてから、白衣のポケットから革紐を取り出した。
コーデリアに差し出して言う。
「これしかなくて悪いけど、髪を括っておいてくれるかな。済んだら上着を脱いで、こっちに背を向けて」
そう言われた通りに支度を済ませて、コーデリアはクレアに背を向ける。
沁みるよ、と軽い声の調子で言われてすぐに、咬み痕に冷たいものが触れる。ぴりぴりとした痛みに眉を寄せると、背後でクレアが深い溜め息を吐いた。
「……ディグラントは、相当強く咬んだみたいだね。縫うほど傷は深くないけど、しばらくは小まめな消毒と包帯が必要だ。痛みが酷いなら鎮痛剤も出してあげるけど、どうする?」
「いや、必要ない。縫うほどでないと言うなら、すぐに塞がるだろう」
二形を持つ獣人は、そうでない者に比べて身体が頑丈に出来ている。ただの人と比べて傷の治りも早い。傷に触れた感じの程度なら、年明けの休暇が終わる前には包帯も不要になるだろう。
薬を塗り終えたクレアが、綺麗に包帯を巻いてくれる。終わったよ、と言われてコーデリアはクレアを振り返った。
「それで、さっきのあれはなんだったんだ?」
「あー、うん。そうだよね、やっぱり気になっちゃうよねぇ……」
少し遠い目になって言ったクレアは、コーデリアを見てへらりと微笑った。
「きみなら言わなくても解ってるだろうけど、さっきのことはここだけの話にしておいて欲しいんだ。万が一にでも漏れたらことだからね」
口止めにしては軽い調子の言い回しに、コーデリアは眉間に皺を寄せずにはいられなかった。
人を手のひらの上で転がすのは、クレアの得意とするところではある。それについて思うところは多々あるが、今更文句を口にするつもりはない。ただ気になるのは彼女の描いた絵図がどこまで想定していたか、だった。
先ほどの乱心もクレアの予想の範疇だったとすれば、すなわち薬を盛られたイライアスは、囮ではなく鼠だったことになる。そして檻に放り込まれたのは、イライアスだけではなかった、というわけだ。
なかなかに鬼畜の所業である。
もっともこれについてはクレアが完全に悪い、とは言えないのが辛いところである。
もしコーデリアたちが仮初めの関係であると知っていれば、クレアも今回のような手段は取らなかっただろう。そもそも彼女はオーサントが使用した薬物に対して、懐疑的だった節がある。おそらくは効果があるか知りたかったのではなく、ないということを確かめたかったのだろう。
あの場で踏み込むのが遅れたのも、判断に迷いがあったからと思えばそれで説明がつく。
クレアにしては珍しい失態だが、さすがに彼女を責める気にはなれなかった。今回の件に関しては色々と間が悪かった、その一言に尽きる気がする。
「おまえのその態度と口振りで、あれが想定外の事態だったことは理解した。だが口止めをするより前に、まず言うべきことがあるんじゃないのか?」
「あ、うん、それはもちろん。黙ってきみたちを利用したのは、悪かったと思っている。ごめん、謝るよ。ことがことだけに確証が欲しかった――というのはただの言い訳だね。対応が後手に回ったことも事実だ。きみに怪我をさせることになったし、ディグラントにも後で謝っておく」
珍しくしょんぼりと言うクレアに、コーデリアは思わず苦笑する。
「口外を禁じるということは、つまりイライアスのあれがオーサントの望んでいた結果だった、ということか」
「きみにしか反応しなかったことを考えると、オーサントが目論んだ通りなのかは微妙なところだけどね。それに彼らはもっと……なんて言うのかな。劇的な反応を望んでいた、って気がするんだ。どうやら既成事実を作るつもりだったみたいだし。要するに薬を使って恋情を抱かせたり、理性を失わせたりしたかったらしいんだよね」
「……恋情はともかく、理性はだいぶ怪しかったと思うが」
話は通じているようでまるで通じていなかったし、あの状況で獣の二形を取る意味の分からなさだ。挙げ句に思い切り咬みつくなど、普段のイライアスからしたら異常事態だろう。
「そう、だからこそ詳しく調べる必要があるんだ。あれがディグラントだけの反応なのか、例えば他の種族だったらどうなのか、獣人とそうでない者に差異はあるのか。性別や年齢、体格、使用する薬量や成分を変えたら、もしかしたらオーサントの望み通りのものが作れるかもしれない。それが実現すれば、ベルサリウスにとって重大な脅威になる」
「色仕掛けし放題だな。なるほど使いようによっては国を乗っ取ることも可能、ということか」
「そういうことだね。だからこそ、ことは慎重に運ばなければならないんだ。今回の件に、内務調査室が一枚噛んでくれてて本当に助かったよ。物事を秘匿するのに長けた者は他にもいるけど、どうしたって歪みが生まれてしまう。その点、彼らは後始末が素晴らしく綺麗だからね」
「それだけ容赦がないってことだろ。始末される側にならないと良いけどな」
母に対する処遇を思えば、追い詰められた国が、手段を選ばないだろうことは分かりきっている。オーサントの一件は、巻き込まれた切っ掛けはともかく、根っこにあるのは国の失態だ。
これで尻尾切りの対象になったら笑い話にもならない。
辟易しきった態度を隠しもしないコーデリアに、クレアは宥める口調で言った。
「内務調査室も馬鹿じゃない。手を出して良い相手かどうかは理解しているさ。それに、いざとなればわたしたちも力になる。今回の件に関して、きみたちふたりは功労者だからね」
にっこり微笑って言ったクレアは、ああ、そうだ、と思い出したふうに付け加えた。
「ディグラントの薬が完全に抜けるまで、きみはしばらく接近禁止でよろしく。また咬まれたくはないだろう?」
「……咬むのが当然、みたいな言い方はしないでやってくれ。さすがにあいつが気の毒だ」
「ああ、いや……うん、そうだね。きみたちの仲が良いのは結構だけど、出来れば適切な距離感と関係性を築くことをおすすめするよ。とにかくディグラントと会うのは、わたしが許可を出してからだ。それだけは承知しておいてくれ」
うん、と頷いたコーデリアに、クレアがほっと安堵したふうの息を吐いた。席を立ち、治療道具の載ったトレイを取り上げて言う。
「ああ、そうだ。その怪我だから今日はくれぐれも安静にね。それと今回の件で、コーディには事情聴取と報告を兼ねて呼び出しがかかることになっている。きみの上司に話は通しておくから、それまでは寮で待機だ。今日は色々あったし、英気を養っておくといい」
この状況で気が休まるかはともかく、盛りだくさんの一日であったことは事実だ。
イライアスの様子が気にならないではなかったが、さりとてここに残っていてもなんの役にも立たないだろう。せめて邪魔にはならないように、とコーデリアは大人しくヴェネルホールを後にした。




