哀れなもぐらと狼の本分 3
痛みに思わず呻くと、イライアスが低く笑う。重なった身体に笑い声が響いて、そのことに凄まじく居たたまれない思いがする。指が優しく髪を梳るのに呆然としていると、イライアスが耳元に頬を擦り寄せてくる。
すん、と鼻を鳴らすのを確かに耳が捉えた。
「どうしてだろうな。鼻が利かなくなっているはずなのに、とても、良い匂いがする」
陶然とした声の呟きに堪えきれず、コーデリアは腕を突っ張らせて上体を起こした。
これはさすがに様子がおかしい。コーデリアは出来る限りの距離を取って、ほとんど叫ぶように言った。
「イライアス、おまえ、どうかしているぞ……! こんな、こんな妙な真似をして、一体なにを考えている!」
「なにを? もちろん、おまえのことばかり考えている」
冗談にしか聞こえないことを真剣な声で言って、イライアスはコーデリアの手を取り上げた。
片手で易々と拘束してから、器用に身体の位置を入れ替えて、伸し掛かられ組み敷かれてしまう。狭い診察用ベッドがふたり分の重みに耐えかねて、ぎしりと軋みを立てた。
「おまえを全力で口説く、と言っただろう? ――ああ、そうだ。これは忠告だが、俺のように厄介な恋情を抱えている相手に、そうやって隙を見せるのはやめておいた方が良い。噛みつかれる羽目になる」
その言葉が比喩でもなんでもないと気づいたのは、イライアスが首元に鼻先を埋めてからだった。温い呼気がかかり、すぐに固い感触が肌を滑る。
噛まれている。
加減されて痛みはないが、しっかりと噛まれている。獣が戯れるのに似たそれに艶っぽい雰囲気は欠片もなかったが、とは言えとても看過できるものではなかった。
「ちょ、ちょっと待て! なんで噛むんだ! いやそれよりもおまえ、自分のやっていることと状況を理解しているのか。断言してやる。おまえ、後で気まずい思いをすることになるぞ!」
「だとしても後悔はない。むしろここで俺のものだとはっきり主張しておかなければ、もっと後悔することになるだろう」
「誰がおまえのものだ、というより人を物扱いするんじゃない……!」
ほとんどがなり立てるように言って、比較的自由に動く脚を翻す。急所狙いの一撃は、だが伸し掛かる重みで容易くいなされてしまう。それでも怯まず身体を捻り、どうにか抜け出した手でイライアスの頭を思い切り鷲掴みにした。
加減なく力を込めて押しやると、イライアスが不機嫌を滲ませた声で言った。
「そこまで嫌がるか。……ならば仕方がない。あまり強引な手は取りたくはなかったのだが」
なにを、と聞き返そうとしたコーデリアの身体に、ばさりと柔らかなものが掛かった。思わず下げた視線の先、あるのは見覚えのある布地だった。
イライアスが着ていたガウンだ。それがなぜか胸元に落ちている。
呆然と口を開けたコーデリアが視線を戻すと、そこにいたのはイライアスではなく、一匹の大きな狼だった。
二形を持つ獣人のほとんどがそうであるように、獣の狼よりもその体躯は倍ほどに大きい。ぴんと立った耳に金色の瞳、長いマズル。わずかに開いた口からは鋭い牙が覗いている。灰色に黒斑混じりの体毛と、状況から見てこれがイライアスであるのは疑うべくもない。だがコーデリアには彼が獣化した意味が、さっぱり分からなかった。
コーデリアは眉間に思い切り皺を寄せて問いかけた。
「……いきなり、なにをしている」
「見て分からないのか? 獣姿の利点など、あまりないと思うのだが」
普段よりもくぐもった声がそう答える。彼はその言葉に反して、前脚を器用に使ってガウンをベッドの外に落とした。細く優美に長いその前脚は、次にコーデリアの肩をやんわりと押さえつけた。
肉球の柔らかく固い感触に気を取られているうちに、身体をころりと転がされる。ぐしゃぐしゃになったシーツの上にうつ伏せにさせられて、コーデリアは目を瞬かせる。呆気にとられている間に再び肩を押さえつけられ、濡れた鼻先がうなじに触れた。
イライアスは煩わしげに後ろ髪を掻き分けると、露わにした首筋に齧りついた。感触を確かめるように歯が滑り、咬んだ痕を生ぬるく濡れたものが肌を這う。
瞬間、恐怖でコーデリアの全身が粟立った。背後にいるのはただの獣ではなく、イライアスであることは解っている。それでも鋭い牙を持ち、骨を咬み砕く顎に首を咥えられているという事実に、身体が震えるのを止められなかった。
伸し掛かるイライアスにもそれは伝わったのだろう。そろりと口を放してから、宥める声で言った。
「大丈夫だ、コーデリア。すぐに済む」
「なにを……」
振り返ろうとしたのを、肩にある前脚が強く抑えつける。再びうなじに咬みつかれ、立てられた牙に力が篭められたのが分かった。
抵抗する間もなく鋭い痛みが走る。
「い、っ……!」
思わず声を上げると、すぐさま牙が離れていく。だが身体は抑えつけられたままだ。
イライアスは咬んだ痕を丹念に舐めてから、ひどく満足げに息を吐いた。
「……よし、これで良いだろう」
ちっとも良くない。
イライアスの行動はさっぱり理解出来ないし、咬まれた痕はじくじくと痛むし、うつ伏せで伸し掛かられているのも屈辱的だ。背後でイライアスが暢気な様子でいるのも腹立たしい。
さきほどまで感じていた恐怖が凄まじかっただけに、その反動で強い苛立ちが頂点まで突き抜けていった。
コーデリアは思い切り身を捩ると、イライアスの鼻面めがけて手加減なしに掌底を打ち付けた。獣めいた呻きを上げたイライアスが、怯んだふうに飛び退き身を屈ませる。コーデリアはすかさず脚をひらめかせて、横っ面に蹴りの一撃を入れた。
ベッドから叩き出すと同時にコーデリアも跳ね起き、イライアスを追って床に飛び降りた。間髪を挟まずに拳を振り上げる。そのまま容赦なく振り抜こうとしたところで、ノックもなしに扉が開いた。
現れたクレアが、緊張感の欠片もない声で言った。
「あー、参ったね。なんとなくそんな気はしてたけど、やっぱり効いちゃったか」
クレアはのんびり歩いて近くまでやって来ると、手にしていた注射器を躊躇いもせずにイライアスに突き立てた。
微かに呻いたイライアスの身体が、ぐらりと傾ぐ。
どうと倒れた巨躯の傍らに膝を突いて、クレアはイライアスの胸の辺りに手を置いた。少ししてから手を離し、コーデリアを見て困ったような笑みを浮かべた。
「ただの鎮静剤だから心配しなくて良いよ。すぐに目が覚める。だからその前に場所を変えようか。……そうだな、さっきまできみが居た控え室で良いだろう。その首の治療もしなきゃだし」
クレアに言われて、コーデリアは思わず首に手を当てる。濡れた感触に見てみれば、手のひらにべったりと赤いものが付いている。
道理でずきずきと痛むわけだ。
コーデリアが苦い顔をしたところで、開いたままの扉から数人の従者が顔を覗かせた。クレアがよく通る声で告げる。
「患者をベッドに戻して。拘束はやっても無駄だからしなくて良い。意識が戻ったらすぐに呼んで。わたしたちは隣にいるから。ああ、それと縫合用の一式も準備をお願い」
はい、と頷いた年若い従者の少女が、足早に部屋を出て行く。
クレアがさっさと歩き出したのを追って、コーデリアは隣室に足を踏み入れた。




