哀れなもぐらと狼の本分 2
診察用ベッドの傍らに立って覗き込んでみる。ぐったり、という言葉がまさしくな有様で、イライアスがベッドに沈み込んでいた。
狭いベッドに長駆を投げ出し、室内灯が眩しいのか腕で目元を覆っている。髪が湿っているのはおそらく、オーサントが使った薬を洗い流したからだろう。
なるほど、惚れ薬とやらは塗布して使うものだったらしい。嗅覚の優れた狼には耐え難い事態だったはずだ。思わず、すんと鼻を鳴らすと、イライアスが小さく微笑いを零した。
腕を下ろして、イライアスは眩しそうにコーデリアを見つめた。
「丸洗いされて薬は落としたはずだが……まだ、臭うか」
辟易しきった声の呟きに、コーデリアは目を瞬かせた。
「なんだ、起きていたのか」
「眠りが必要になるほどには消耗していないからな。単に目を閉じていただけだ。不調はほとんど消えているのだが、処方された薬の副作用なのか、明かりがやたらと目に眩しくてな」
「それなら我慢しないで、灯りを落として貰えば良かっただろう。ちょっと待ってろ。私が消してきてやる」
言って踵を返そうとしたコーデリアを、イライアスが引き止めた。
「……いや、止めておいたほうが良い」
コーデリアは思わず首を傾げる。なんだか妙な言い回しだ。
まさか薬の影響でも残っているのだろうか。心配してまじまじ顔を覗き込むと、イライアスが微苦笑を浮かべた。
「こちらの話だから気にするな。それよりも座ったらどうだ。おまえのその様子では、ただ顔を見に来ただけではないのだろう?」
「当然だ。聞きたいことも、文句を言ってやりたいことも山ほどあるからな。だが……調子を悪くしている相手に、それをしないだけの分別は持っているつもりだ」
言って折りたたみ椅子に腰掛けると、イライアスが目を細めた。小さく溜め息を吐く。
「ずいぶんと迷惑をかけたようだな。……オドネルから、どこまで聞いた?」
「内務調査室が動いていること、おまえが囮役に担ぎ出されたこと、私に対して余計な気を回したこと。大まかに言えばこの三点だ。どれもこれも気に食わないが、一番腹が立ったのは、おまえが囮役を引き受けたことだ。どれだけの無茶をしたのか解っているのか?」
「厳しいな。文句は言わないでおく、のではなかったか?」
からかう口調で言うイライアスに、コーデリアは鋭い目を向ける。
「これでも十分、手加減している。調子が戻ったら覚えてろよ。おまえ秘蔵の葡萄酒、根こそぎ飲み尽くしてやるからな」
「そうか、では喜んで料理を振る舞おう。予定を立てるのが楽しみだ」
余裕たっぷりに言うのが小憎たらしい。
コーデリアが半眼で睨みつけると、イライアスは素知らぬふうに表情を改めた。コーデリアを見つめて、彼らしい生真面目な口調で言う。
「……そもそもことの起こりは、俺がおまえを巻き込んだことに端を発する。そこから派生したなにがしかがあったとして、その責任を取るべきは俺だろう。おまえが気に病む必要はない」
「だったら訊くが。今回の件でおまえと私の立場が逆だったとして、おまえは平然としていられるって言うのか?」
「それを言われると立つ瀬がないな。だが俺に選べる選択肢の中では、あれが最善だったんだ。おまえを埒外に置いたことは反省している。謝るから、そう拗ねないでくれ」
「……拗ねてるんじゃない。おまえを心配していた、と言ってるんだ」
むっつり返すと、イライアスは意外なことを聞いたとばかりに目を瞬かせた。
「それは、すまない。おまえに怒られることは予想していたが……まさか、俺の身を案じて貰えるとは思わなかった」
「怒っているのは事実だけどな。でも、人を冷血漢みたいに言うなよ」
言って手を差し伸べる。
コーデリアはほんの少しだけ躊躇ってから、イライアスの額にかかる髪をそっと指で払った。露わにした額に、ひたと手のひらを押し当てる。少しひんやりとしているのは、湿った髪のせいだろう。
ちゃんと乾かさないで、風邪を引いたらどうするんだ。そう胸中だけで零して、見た目よりも柔らかな髪を指で梳る。頭のかたちを辿るように撫でながら、コーデリアは小さく息を吐いた。
「おまえからなにも聞いていないのに、いきなり呼び出されて同意書に署名させられたんだぞ。しかもクレアは見るからに焦った顔をしていて、もしものことを思って寿命が縮むかと思った」
「事前に言えば、おまえは反対しただろう。ことがことだけにそう感じるおまえの気持ちは解らなくはないが、それでは意味がない」
きっぱり言い切る口調を鑑みるに、この件についてイライアスに譲る気がないのが分かる。コーデリアは髪を撫で梳かす手はそのまま、少し沈んだ声で言った。
「……私を被害者にしておくために必要だったというのは、クレアから聞いて理解している。だがそれを理解できたからと言って、納得できるかどうかは別の問題だ」
「頑固だな」
ふ、と微笑ったイライアスがごろりと横向きになる。宙に浮いたコーデリアの手を掴んで、そうするのが当然のように指を絡ませた。
繋ぐ手の熱さに思わず息を呑んだ。
「気づいていないのか、コーデリア。おまえがそうやって意地を張るから、こっちも追い詰めてやりたくなるんだ。頑固で融通の利かない律儀なおまえは、貸しを作られることにすこぶる弱い。逃げ場を塞ぐのにこれ以上の手はないだろう」
「……性格悪いぞ、おまえ」
「目的のために利用できるものは利用する。兵法の教本通りだ。なによりおまえの父親の件は、いい加減どうにかすべきと思っていたからな。おまえが妙なことに巻き込まれるのを、指を咥えて見ているなどごめんだ」
吐き捨てるような声の調子に、コーデリアは自分の碌でなしな父親に思考を巡らせた。
クレアもイライアスも肝心なところで言葉を濁しているが、父ジョージが取り返しのつかない不始末を起こしたことは疑うべくもない。切り捨てる潮目であったのも確かだろう。だがどうせなら、自らの手で処断してやりたかった、とも思う。
すっきりしない思いに顔を歪めたコーデリアに、イライアスは慕わしいものを見る目で言った。
「ところで今回の件は、これですべての片がついたわけだが……。おまえとの関係が振り出しに戻ってしまう前に、ひとつ言っておきたいことがある」
「言いたいこと?」
「ああ。言い訳めいた建前が消えたおかげで、これからは大手を振っておまえを口説くことが出来る。このことについては躊躇や遠慮をするつもりはないから、覚悟しておいて欲しい」
今日の天気でも語るような、ごく軽い調子の声だった。注がれる眼差しとは印象がちぐはぐで、反応が遅れてしまったのはたぶん、そのせいなのだろう。
イライアスが捉えた指先に唇を落とすのを、コーデリアはただ呆然と見つめる。動揺すらできないでいるコーデリアに、イライアスは満足そうな笑みを零した。
かかる吐息が肌を撫でて、背筋に怖気に似た熱が這い登ってくる。咄嗟に引っ込めようとした手は、だがそれを予期したイライアスによって捕らわれていた。逃れようともがくと、却って強く引き寄せられた。椅子が傾いでがたんと音を立てる。
「う、わ……っ」
コーデリアは焦った声を上げたが、イライアスはまるで気にする素振りを見せなかった。易々とコーデリアの腰を抱え、ベッドに引きずり込まれてしまう。そうしてベッドに乗り上げた勢いのまま、固い胸板に鼻がぶつかった。




