新年の祝 4
焦った声で言った侍女は身を翻し、足早に歩き出す。
侍女が向かったのは貴賓用の控え室がある一角だった。
控え室は申請をして空きがあれば誰でも使えるが、王宮の一部であることは変わりない。火遊びに利用するなど、まともな神経の持ち主であれば考えもしないだろうが、なにごとにも例外というものは存在する。
内心うんざりしながら歩を進めていると、少し先を行く侍女が扉の前で足を止めた。
「こ、ここです。間違いありません」
「なるほど。では下がっていてください。確認します」
言って扉をノックする。室内に人の気配は感じるが、声を上げて呼びかけてみても応えはない。すこぶるにつけ厄介だ。
警護隊としてこの場にいるイライアスは、治安維持の名目があれば中に踏み込む権利を有している。とは言え貴賓が利用している以上、室内で変事があると確信を持てるまでは勝手な真似は出来ない。
さて、どうするべきか、と思案したところで室内で小さく悲鳴が上がった。次いでなにか大きな物が倒れる音がする。見計らったようなタイミングだが、だからと言ってこの状況で見過ごす訳にはいかないだろう。再度の警告を発して、イライアスは腰に佩いた長剣を鞘から抜いた。
振り下ろす一閃で扉の蝶番を断ち、抜いた剣はそのまま扉を足蹴にする。どうと扉が倒れ、辺りに木屑と埃が、ぶわりと舞った。
扉を踏み越して貴賓室に足を踏み入れる。見回すと室内に荒れた様子はない。ただ火の入った暖炉の側に、暗紅色のお仕着せに身を包んだ女性の姿があった。
オーサント人の侍女だ。ここにいる筈のないその姿に、イライアスの眉間に深い皺が寄る。なにをしている、と詰問する声に侍女が反応するより先に、隣室との続き扉が音を立てて開いた。
現れたのはアリシア・ハイドで、派手に着飾った彼女はイライアスを見て笑みに表情を輝かせた。
「ああ、イライアスさま! ほんとうに、ほんとうに来てくださったのですね! わたくし、あなたに会えるのを一日千秋の思いでお待ち申し上げておりました。わたくしの愛しき伴侶、天に定められし運命の番、イライアスさまがいればなにを捨てても構いません。どうかわたくしをあなたの愛で包み込んでくださいませ……!」
ひどい妄言を吐いて、アリシアがふらふらと近づいてくる。まるで酒に酔っているかのような足取りだった。イライアスに向ける眼差しは虚ろで、ここではないどこかを見つめている。
様子がおかしいのは明らかだったが、オーサント人の侍女は主人であるアリシアを止めもせず、静かに微笑んでソファの横に佇んでいる。舌打ちしたい気分で背後を見やると、ここまで案内してきた侍女が、真っ青な顔で首を横に振った。
「あ、あの、申し訳ありません……! わた、わたし……命じられて、逆らえなくて……っ」
「申し開きは後で聞かせてもらう。逃げよう、などと考えぬことだ。無駄に重ねた罪のぶん、己の首が絞まる羽目になる」
王の剣である近衛騎士に対する虚偽の通報に、事件の捏造と公務の執行妨害だ。なにを理由に強制されたかは知らないが、軽くない処罰が下るだろうことは間違いない。
廊下にへたり込んでしまった侍女は放置して、イライアスは室内に視線を戻した。ソファの背もたれに手を突いたアリシアが、夢見るような顔で滔々と語った。
「ああ、イライアスさま。どうか不安そうな顔をなさらないで。愛し合うわたくしたちを邪魔するものは、もうなにもないのですから。わたくしたちが真に結ばれることは、お互いの国にとって大きな利となります。ですから褒められこそすれ、決して咎められることはないでしょう。愛の前にこんなことを言うなんて無粋ですけれど、貴族である以上は政治のことも考えなければなりませんものね。そう、それに――あの生意気な女」
言って苦々しく顔を歪める。
「イライアスさまを運命の番などと言って、わたくしの居るべき場所を奪ったあの女。厚かましい身の程知らずでしたけれど、お父上はずいぶんと真っ当な方のようですね。わたくしたちの迷惑にならないよう、しかるべきところへ嫁がせるのですって。本当におめでたい話だわ。ねえ、イライアスさま。あの邪魔者がいなくなって、イライアスさまも嬉しいでしょう?」
「……おぞましいな。なにをどうすればその思考に至るのか、まったく理解しかねる」
吐き捨てるように言って、イライアスはオーサント人の侍女に視線を当てた。
「主が主なら、使える者も同様か。愚行を諌めるのも、おまえたちの役目だろう」
「御説ごもっともですが、なにを指して愚かと言うかは、立つ位置によって変わるものですよ」
涼しい顔で言って、侍女はアリシアに視線を当てる。
「アリシアさま。どうやらあなたの番は、ずいぶんと照れていらっしゃるようです。素直になれるよう、手助けしてさしあげたらいかがですか?」
「……え? あ――ええ。そうね。わたくしたちは番なのだから、お互いに遠慮や気詰まりがあっては良くないわ。素直に……ええ、本当にその通りね。イライアスさまは、わたくしの番だもの。わたくしの、わたくしだけの……」
自分に言い聞かせるような呟きだった。思考に沈むように目を伏せて、ソファに縋っていない方の手を胸元にやる。その手に握られているものがあることに、イライアスはこの段に至って初めて気が付いた。
思わず後退る。イライアスの警戒をなにと取ったのか、アリシアが弾かれたように面を上げる。追い詰められ焦りの滲む顔をした彼女は、腕を大きく振りかぶった。握り締めていたなにかが、放物線を描いて飛んでくるのが判る。
小さな瓶だった。咄嗟に身体が動いて、抜き身の剣でそれを打ち弾く。澄んだ高い音が響いたのと、イライアスが舌打ちしたのは殆ど同時だった。
あっけないほど簡単に割れた小瓶から、零れたものが降りかかる。庇うように上げた腕はさほどの役に立たず、小瓶の中身がイライアスの髪と服とを濡らした。
その途端に、眉間を突き刺すような痛みが走る。視界がぐらりと歪み、イライアスは崩れ落ちるように膝を突いた。
「ぐっ、う……!」
猛烈な吐き気に堪える事も出来ず、その場で胃の中のものをぶち撒けた。
だが吐いても不快感は僅かも楽にはならない。激しい頭痛にめまい、鼓動が早鐘を打っているのが分かる。息が上がって呼吸もままならない。
再び嘔吐いたところで、アリシアが歌うような声音で言った。
「これでイライアスさまは、わたくしだけのものになったのね……! わたくしの運命の番、わたくしの唯一。あなたはわたくしだけを見て、わたくしだけを愛してくださるのでしょう? ああ、なんて素晴らしいの。わたくしは役立たずなんかじゃなかったのよ。だってイライアスさまに愛されているもの。さあ、こちらにいらして。わたくしと愛し合いましょう」
苦しみ悶えているイライアスの姿が見えていないのか、アリシアは覚束ない足取りで近付いてくる。吐瀉物でドレスが汚れるのを気にもせず、絨毯に膝を突いてイライアスに手を差し伸べた。
抱き締めようと絡みついてくる腕が心底不愉快だ。振り払ってしまいたいのに、酷い吐き気のせいで腕に少しも力が入らない。無様に倒れ込まないようにするので精一杯だった。
くそ、とイライアスが内心で口汚く罵った時だった。廊下で座り込んでいた侍女が、小さく悲鳴を上げた。間をおかず複数の足音がして、室内にどっと人がなだれ込んで来る。
「王室警護隊だ! 王宮内での薬物使用による壊乱、及び近衛騎士に対する傷害の罪でおまえたちを拘束する。なおオーサントの権利放棄により、アリシア・ハイド及びカーラ・フリン両名の外交特権は既に剥奪されている。――捉えよ!」
空気を震わすような覇気のある女性の声だった。
イライアスから引き剥がされたアリシアが意味の判らないなにごとかを喚いている。カーラ・フリン、と呼ばれたオーサント人の侍女が、悲鳴のような声を上げた。
「権利放棄ですって!? そんな、有り得ません! 私たちはオーサントの命を受けて、それに従っただけです! こんなことをして許されると思って――いやっ、この手を放しなさい! なんて乱暴な、あなたたち無礼ですよ!」
重い物を引き摺るような音がして、甲高い耳障りな声が遠ざかっていく。それと入れ替わるように部屋に入って来た誰かが、落ち着いた声で言った。
「担架を急いで。――ああ、上着はそのままでいい。洗い流すのが先だ。湯が足りなければ水でも構わないから、とにかく付着物を徹底的に洗い落として」
聞き慣れたクレアの声に緊張が緩み、同時に全身から力が抜ける。縋っていた剣を掴むことも出来なくなって、イライアスの身体がぐらりと傾いた。
それを支えたクレアが気遣わしげに言った。
「ディグラント、すぐに治療を開始するから、もうしばらくだけ堪えてくれ。頼むから暴れないでくれよ」
頷くと肩を押され、担架に乗せられる。身を横たえると視界が回って、こみ上げてくる吐き気にイライアスは人目も憚らず獣のように唸った。
何度も嘔吐くうちにどこかへと運ばれて、頭から容赦なく湯を浴びせかけられる。荒っぽい手付きで髪を洗われながら、近衛騎士のお仕着せを剥ぎ取られた。
アリシアにかけられた液体が洗い流されたことで、不快感が幾らか薄れた気がする。鼻はすっかり利かなくなっているが、吐き気が収まったのはかなり有り難い。これ以上の無様を晒さずに済みそうだ。
クレアの従者がシャツを脱がそうとするのを断って、イライアスはふらつきに耐えながら裸になった。タオルで濡れた身体を拭い、差し出された下着を身に着けガウンに袖を通す。クレア配下の女性に促されて、診察用のベッドに半ば倒れるようにして転がった。
ほどなくして現れたクレアが、手早く治療前の診察を行っていく。ふと視線をやると、イライアスの腕を取るクレアの手に注射器が握られていた。
昨今になって使用されるようになった医療器具だが、針を身体に入れるのは正直ぞっとしない。イライアスが顔を顰めたのが分かったのか、クレアは微苦笑を浮かべた。
「気持ちは分かるけど、ちょっとだけ我慢して。服薬よりも、こっちの方が効率が良いんだよ」
言って容赦なく針を刺したクレアは、イライアスにいたずらっぽい眼差しを向けた。
「――ああ、そうだ。コーディが治療が済んだらで良いから、きみの顔を見たいって言ってるんだよね。同意書に署名を貰ってるから、きみが良いと言うならここに通せるんだけど……どうする?」
「……おまえが医師として問題ないと言うなら、俺に異存はない」
「そっか。それじゃあ薬が完全に効くまでしばらく安静にしてて。きみが落ち着いた頃合いを見て、コーディを呼んできてあげるからさ」
イライアスが頷くとクレアはにっこり微笑む。
医療器具を手早く片付けながら、室内で忙しそうにしている従者の少女に声をかけた。
「ユール、あとはよろしく。もしなにかあればすぐに呼んで。隣で待機してるから」
言ってクレアは身を翻し、足早に部屋を出て行ってしまう。
イライアスは残るめまいと吐き気を振り切るように、深く静かに息を吐いた。




