第五話 貧民街の母子
「お父様、お願いがあります」
朝食の席で、セレスティーヌは父シャティヨン伯爵に頭を下げた。
「ティナ、改まって何だ」
「領地内の視察をご許可いただきたいのです」
「視察、というと」
「王都の貧民街を」
カトラリーが伯爵の手からわずかに滑った。
「……ティナ、お前」
「今の医療の状況を、この目で見ておきたいのです」
「貧民街など、令嬢の足を運ぶ場所では——」
「お父様」
セレスティーヌは父の目をまっすぐに見つめた。
「四十——いえ、十七年、私は見ないふりをして生きてきました。もう、見ないふりはしません」
伯爵の眉が僅かに動いた。
「……いま、四十と言ったか」
「感極まって、数え間違えました」
伯爵はしばらく娘の顔を見ていた。それから深く息を吐いた。
「……護衛をつける」
「ありがとう、お父様」
「マルゴと行くのか」
「はい。マルゴにも声をかけました。彼女は迷わず行くと」
「そうか、そうか」
伯爵は紅茶を口に運んだ。
「ティナ」
「はい」
「お前、何を見ても目を逸らさんでよいのか」
「ええ。この目で、しかと見届けます」
「うぅむ」
伯爵は頷いた。
「では、行ってこい」
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馬車が王都の中心から北へ進んでいく。貴族街の整った石畳が、徐々に荒れ始めた。馬の脚がぬかるんだ轍に何度か取られる。
セレスティーヌは窓から外を眺めていた。向かいの座席では、マルゴが緊張した顔で座っている。
「ティナ……本当に行くの」
「行くわ」
「あたし、貧民街なんて近づいたこともないわ」
「私もよ。十七年、近づかなかった」
「いまさら、なんで——」
「マルゴ」
セレスティーヌは親友を見つめた。
「あなたが来てくれなければ、お父様はきっと許可なさらなかったわ。無理にとは言わない。途中で戻ってもいいの。馬車だけは、私と一緒に来てちょうだい」
「……」
マルゴはしばらく答えなかった。それから、ふっと笑った。
「ティナ、本当に変わったわよ」
「そう?」
「うん。前のティナだったら、『私が行くんだから、あんたも当然付き合うのが筋でしょ』って言ったわ」
セレスティーヌは軽く目を伏せた。
「……ごめんなさいね、マルゴ」
「謝らなくていいわ」
マルゴは扇を強く握った。
「いま、隣に座っているあなたが本当のあなたなら、それでいいの。あたしは行くわ。最後まで」
「マルゴ」
「友達でしょ、あたしたち」
セレスティーヌはぎゅっと唇を噛んだ。ティナが十二年、雑に扱い続けた親友が、いま隣でこんなことを言ってくれている。
「ありがとう」
それしか言えなかった。
「うんっ」
馬車は貧民街の入り口に近づいていた。
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馬車から降りた瞬間、最初に彼女の鼻を突いたのは、匂いだった。
汚水と排泄物、腐った魚、長く洗わない人間の汗が入り混じった匂い。
四十歳の真理子が医学生時代、初めて解剖実習室で嗅いだ匂いを思い出した。あの時は、込み上げる吐き気を必死で堪えた。
いまは、吐かない。目を見開き、覚悟を決める。
「マルゴ、ハンカチにこれを垂らして、口元に」
「これ、何?」
「気付け薬にハッカ油を垂らしたの。匂いが和らぐわ」
「ティナ、こんなの、いつ用意してたの」
「念のため、よ」
マルゴは震える指でハンカチを受け取った。
そして二人は護衛三人を引き連れ、貧民街の奥へと歩き出した。
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最初に目に入ったのは、子供たちだった。路地で座り込み、何かを貪るように食べている。
近づくと、それは、ゴミ捨て場の腐りかけた芋だった。
「うっ……」
マルゴがハンカチで口を押さえた。
絹のドレスの裾が泥に沈むのも構わず、セレスティーヌはしゃがんだ。
「あなた、お名前は」
子供は警戒した目で彼女を見つめた。
「……ジャン」
「ジャン、家はどこ」
「あっち」
「お母さんは」
「死んだ」
短く、抑揚のない返事だった。
「いつ」
「生まれたとき」
セレスティーヌは子供の頬を見た。栄養失調の痕。眼窩が落ち窪み、皮膚に湿疹が広がり、歯茎がわずかに紫がかっている。
壊血病、初期。ビタミンC不足。タンパク質も、慢性的に不足している。
「ジャン、ここで待っていてね」
セレスティーヌは立ち上がった。
「マルゴ、護衛、ちょっとこっちに来て」
護衛の隊長が近づいた。
「お嬢様、何か」
「お金、あるだけ預けて」
「は」
「それから、近くの市場で檸檬と肉と卵と芋を買って、ここに運んで」
護衛の隊長が、聞き間違えたという顔をした。
「……檸檬、でございますか」
「壊血病に効くの。理由は後で。急いで」
「お嬢様、それは——」
「四人分の家族が一週間暮らせる量。お願い」
護衛がちらとマルゴを見た。マルゴが無言で頷く。
護衛は釈然としない顔のまま、頭を下げて走り出した。
「ティナ、本気でここで配るの?」
「いいえ。これは一回きりの施し。配るのは知識よ」
セレスティーヌはしゃがみ込んでいる子供の頭に手を置いた。
「ジャン、すぐいいものが来るからね」
子供は信じられないというふうに彼女を見上げた。そして、ぽつりと呟いた。
「……お姉さん、天使?」
セレスティーヌは軽く笑った。
「いいえ、ジャン」
「ちがう?」
「天使じゃないけど、お医者さんの卵よ」
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奥の共同住宅の一室で、セレスティーヌは立ち尽くしていた。
藁の上に若い女が横たわっている。青ざめた顔。両足の間に夥しい血。そして、その傍らに生まれたばかりの赤ん坊が——
「……息、してない」
セレスティーヌはしゃがみ込み、赤ん坊の首筋に指を当てた。
脈なし。呼吸なし。体温低下。
出生直後の新生児仮死。母親の産後出血も、止まらない。両方とも、危険水域だった。
「お姉さん、産婆さん、どこに行ったの」
部屋の隅で、五歳くらいの上の子が震えていた。
「産婆さんは、どこに?」
「もう、帰った」
「帰った? こんなに危険な状態なのに?」
「……あれは、もう駄目だって。次のお産があるから、って」
セレスティーヌの中で何かが爆ぜた。ぐっ、と奥歯を噛みしめる。
家を出る前、彼女は密かに、聴診器代わりに使えそうな装飾品を鞄に忍ばせていた。
それから、ハンドバッグを開けた。中に小さな革のケース。そこから銀の小さな器具を取り出す。先端に嵌め込まれていた宝石は、邪魔だからと、あらかじめ外してあった。
軽薄期のティナは、これを「珍しい形のアクセサリ」として引き出しに放り込んでいた。いま、本来の役目を、ようやくこれに果たさせる。
セレスティーヌは赤ん坊の胸に、それを当てた。心音、極めて微弱。だが、ゼロではない。蘇生、間に合うかもしれない。
「マルゴ、入ってきて。手を貸して」
「あ、あたしが?」
「いいから、早く」
マルゴが震えながら入ってきた。
「頭側に回って。私が言う通り、強くお腹を押して」
「えっ」
「子宮が縮んでないの。押せば、縮む。止血の第一歩」
「あ、あたしが——」
「あなたしかいないの。お願い」
マルゴは青ざめた顔で頷いた。
セレスティーヌは赤ん坊を両手ですくい上げた。
——小さい。
——ねえ、緒方真理子。
——あなたの末っ子。ふと、あの子の顔が浮かぶ。
——いまの、この子は——別の子。でも、この子の命は、ここに在る。あなたの手の中に。
——絶対に、絶対に、救いなさい。
セレスティーヌは赤ん坊の小さな胸に自分の口を近づけた。そして、ごく僅かな空気を二回、優しく送り込んだ。新生児蘇生の人工呼吸。
胸がかすかに膨らんだ。戻った。もう一度。戻った。
「ふぎゃっ」
か細い声が上がった。
「……っ!」
セレスティーヌは息を止めた。
「ふ、ふぎゃあああ、あああ」
赤ん坊が泣き始めた。
「マルゴ、押し続けて、止めないで!」
「は、はいぃっ」
セレスティーヌは赤ん坊を、上の子供、五歳の兄に預けた。
「ジャン、お兄ちゃんね。この子、ジャンの妹?」
「う、うん」
「あったかく抱いてあげて。お姉ちゃんが、お母さんをなんとかするから」
子供は震えながら赤ん坊を抱いた。そして、何度も何度も何度も頭を自分の胸に押し付けた。
「いきて、いきて、いきて……」
セレスティーヌは産後出血の女に向き直った。
そこから半時。
布で圧迫する。腹を押し続ける。子宮を、収縮させる。
意識を落とすな。声をかけ続ける。水を、少しずつ。
止血に効くハーブを、護衛に薬屋まで買いに走らせる。
四十年分の産婦人科医の知識を、全部、絞り出した。
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二時間後。
女の出血は止まっていた。赤ん坊は母親の隣で、すやすやと眠っている。兄のジャンが、その傍らで両手を握りしめ、二人を見守っている。
セレスティーヌは汗だくの顔で、ぼろぼろの寝台の脇に座り込んでいた。マルゴが隣で両手に顔を埋め、泣いていた。
「ティナ……ティナ……」
「うん」
「あなた、医者、なの」
「いまのところは——お医者さんの卵、よ」
セレスティーヌはほんの少し笑った。それから自分の両手を見た。血で汚れ、もう装飾のための手ではなくなっていた。これは、医師の手よ。緒方真理子の、十七歳の医師の手。
「マルゴ」
「うん」
「私、赤ちゃんと、妊婦を救う場所を作るわ」
「うん」
「でも、私一人の資金じゃ、きっと足りない」
「あなたを、この国の一人目のパトロンにするわ」
「あなたも一緒よ。手伝ってちょうだい」
「うん」
「ベル・サンテ、というの」
「べる、さんて?」
「美しい健康。私がこれから作る病院の、仮の名前」
「……うん」
「来てくれる?」
「行くわ。何処までも」
マルゴが彼女の汚れた手を両手で握った。
セレスティーヌは貧民街の空を見上げた。灰色の空。
ねえ、お父様。二日後、お父様に全てお話しするわ。もう、引き返せない。病院を作らせてください。産婦人科医院を、私は作るわ。
雲の隙間から、ほんの一筋、夕陽が貧民街の屋根に差していた。彼女の頬の、血と涙の混じった汚れを、うっすらと金色に染めていた。




