閑話② 噂が届く、戸惑いと疑い 〜ヴィクトール視点〜
「ヴィクトール様、シャティヨン伯爵家からご返事でございます」
朝、家令のジルが銀盆を差し出した。
ヴィクトールは書斎の机から顔を上げた。
「……どれだ」
「これでございます」
封蝋には見慣れたシャティヨン家の紋章、薔薇の意匠が浮かんでいる。
ヴィクトールは息を整えた。
どんな手紙が来るだろう。おそらく長文の、すがるような文章だ。「考え直してください」「私、変わります」「お願いだから、もう一度だけ」。便箋は五枚を超えるだろう。彼女はそういう女だった。
この十二年、彼女はいつもそうだった。社交界での振る舞いをたしなめれば、長々とした釈明と、許しを乞う便箋が返ってきた。読まずに火にくべたことも、一度や二度ではない。
ヴィクトールはナイフで封を切り、便箋を取り出した。
——一枚だった。それも、ほんの数行。
> モンテーニュ侯爵令息様
>
> 拝復、書状確かに頂戴いたしました。
>
> 婚約解消の件、謹んで承りました。
>
> 長年に渡るご厚意、心より感謝申し上げます。
>
> 体調、おかげさまで回復に向かっております。
>
> 貴方様の今後のご多幸をお祈り申し上げます。
>
> セレスティーヌ・ド・シャティヨン
机の上に便箋を置き、しばらくそれを見つめていた。
「……これだけか」
「は?」
「他に便箋は」
「いえ、これのみでございました」
「もう一度確認しろ」
ジルの眉が、ほんのわずかに動いた。それから、辛抱強く同じ言葉を繰り返した。
「ヴィクトール様、確かにこれ一枚のみでございました」
ヴィクトールはもう一度便箋を手に取った。
「謹んで承りました」。「ご多幸をお祈り申し上げます」。……は? どこの誰の手紙だ、これは。
字は、確かに彼女のものに見える。だが、いつもの彼女の字ではない。読みにくいほど装飾を凝らした、あの癖字がどこにもない。角がなく、丁寧すぎる。
文章の調子も、まるで別人だ。凛としていて、取り乱している痕跡が一切ない。逆にこちらが戸惑うほど清廉だった。
——まさか、代筆か。誰かが、彼女の代わりにこれを書いたのか。
「ヴィクトール様、ご気分はいかがで」
「……いや」
「お顔色がすぐれませんが」
「いや、なんでもない。下がれ」
ジルが礼をして退出した。
書斎に一人残されて、ヴィクトールは深く椅子にもたれた。
「……戦略か」
思わず声が出ていた。誰もいない部屋で、一人頷く。
あの女がこんな短い返事を書くわけがない。私を揺さぶろうとしているのだ。「彼女、変わったかもしれない」と思わせて、心を揺らがせる算段だ。なるほど、その手には乗らん。
ヴィクトールは便箋を机の引き出しに放り込み、再び領地の経営報告書に目を戻そうとした。
戻そうとしたが——
——なぜ、いま「ご多幸を」なのだ。あの女が私の多幸を祈る? 他人の幸せなど無頓着で、自分勝手だったあの女が?
……。
戦略だ。戦略だと思え、ヴィクトール。
報告書の文字が頭に入ってこなかった。
---
その日の昼、サロンでティータイム中の母——モンテーニュ侯爵夫人——が何気なく口にした。
「あら、ヴィクトール、聞きまして」
「何を、母上」
「シャティヨン家のお嬢様のこと」
ヴィクトールのティーカップを持つ手が、わずかに止まった。
「……何かありましたか」
「使用人の若い妊婦が急に倒れたそうですの。何やら恐ろしい発作を起こして、母子ともに危篤だったとか」
「……」
「ところが、ね、聞いて驚くわよ、ヴィクトール」
母が扇を開いた。
「あのお嬢様が、ご自分でその妊婦に介抱なさったの」
ヴィクトールはティーカップをソーサーに置いた。
——介抱、だと? あの女が? 使用人の妊婦に?
「お嬢様、何やら医術めいたお手当てをなさったらしくて。それで母子ともに助かった、と」
「母上、それは本当ですか」
「シャティヨン家から直接聞きましたわよ、家令を通して。それに噂はもう社交界中に流れていますの」
ヴィクトールはしばらく黙っていた。
「……セレスティーヌが」
ぽつりと独り言のように呟いた。
「あの人が、使用人を助けた、と?」
「ええ」
「医術めいた何かを?」
「ええ、何でも修道院の古い書物で学んだ、と仰ったそうで。お嬢様、いつからそのような書物をお読みになっていたのかしらね」
「……いや、母上、それはありえません」
ヴィクトールはわずかに首を振った。
「あの女、修道院の書物など読んだことがないはずです」
「あら、そうなの?」
「過去、彼女に慈善活動に同行するよう何度か頼んだことがあります。すべて断られた。修道院など足を踏み入れたことすらないはずだ」
「では、どこで学ばれたのかしら、お嬢様は」
「……」
「ヴィクトール、お顔がこわばっていますわよ」
「いえ、母上」
ヴィクトールはティーを口に運んだ。味がしなかった。
「……母上、私はこれで失礼いたします」
「あら、もう?」
「書類が残っております」
「分かりましたわ」
ヴィクトールはサロンを退出した。
廊下を歩きながら、ヴィクトールは拳を握っていた。
——一体、どこで。
問いだけが、足取りに合わせて繰り返された。
書斎に戻り、机の引き出しを開けた。先ほど放り込んだ彼女の手紙を取り出す。迷いのない、簡潔な文字。
「……」
ヴィクトールは便箋をもう一度、最初から読み直した。そしてゆっくりと机に置いた。
——演技だ。
聖女めいたしぐさで、私を取り戻そうとしている。私が慈善や弱者への思いやりを買う男だと知っているから、それを装っているだけだ。
いや、それとも——誰か別の者の手柄を、自分のものとして語っているだけかもしれない。どちらにせよ、あの女が本当に人を救ったなど、あり得るはずがない。
……そうだ、これは戦略だ。最後の悪あがきだ。騙されてはいけない。
ヴィクトールは便箋を握り潰した。そして暖炉の火に投げ込もうとして——
止めた。
——燃やしてはならない。証拠だ、これは証拠だ。いずれ彼女の化けの皮が剥がれたとき、これを見て笑うのだ。「ほら見ろ、私は騙されなかった」と。
便箋を机の引き出しに再びしまい、深く椅子にもたれて天井を見上げた。
天井の漆喰の模様が、妙にかすんで見えた。




