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婚約解消されたオバカ令嬢、前世を思い出す  作者: 鷹居鈴野


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閑話③ 聖人のような所業、しかし演技だろう 〜ヴィクトール視点〜

「ヴィクトール様、お時間よろしいでしょうか」


書斎に家令かれいのジルが入ってきた。


「なんだ」


「先日からのシャティヨン家のお嬢様の件、新たな噂が入っております」


ヴィクトールはわずかにペンを止めた。


「……聞かせろ」


「お嬢様、先日、王都北の貧民街に入られたそうで」


「貧民街だと?」


「はい。ご親友のヴェリエール子爵令嬢とご一緒に、護衛三人を連れて、約半日お過ごしになったと」


ヴィクトールはペンを机に置いた。


「目的は」


「視察とのことでございますが——」


「が?」


「半日のうちに、貧民の母子の難産に立ち会われ、母子ともに命を救われたそうです」


「……は?」


ヴィクトールは椅子からわずかに腰を浮かせた。


「もう一度言え」


「お嬢様が、貧民街で難産の母と新生児を救命された、と」


「……」


「噂は貧民街から王都中に広がっております。『シャティヨン家のお嬢様は神の遣わした聖女に違いない』、と」


「ジル」


「はい」


「その噂、どこから聞いた」


「商人たちから、市場から、教会から——複数の方面からでございます。ヴィクトール様、これはもはや一つの噂ではなく、王都全体の話題でございます」


ヴィクトールはしばらく黙っていた。


ペンを握り直し、書類に戻ろうとした。


戻れなかった。


「……ジル」


「はい」


「シャティヨン家のお嬢様の、過去三日間の行動を全部調べろ」


「全部、でございますか」


「全部だ。誰と会った、どこに行った、何を喋った、どんな寄付をしたか、誰を救った、誰に何を言った——全部だ」


「かしこまりました」


ジルは眉一つ動かさず、深く礼をして退出した。


書斎に一人残ると、ヴィクトールは手の中のペンを見つめた。


——あの女が、貧民の難産を救った?


——ありえない。絶対に、ありえない。


——あの女が貧民街になど足を踏み入れるはずがない。汚物の匂いに耐えられるわけがない。見知らぬ平民の女の血を、自らの手で止めるなど——


——……ありえない。


ペンの軸が、わずかに軋んだ。


——演技だ。これは、すべて演技だ。あの女は私を取り戻すために、ここまでするつもりなのだ。


——だが、それにしては割に合わなすぎないか。貧民街の汚物に足を浸し、見知らぬ女のために、自ら手を汚す。さすがに、男一人を取り戻すための演技で、そこまではしないんじゃないか。


「……いや、する。あの女なら、する」


ヴィクトールは、誰もいない書斎に向かって言い聞かせた。


「あの女、執念深かったからな」


自分の声が、尻すぼみに消えていくのが分かった。


---


翌日。

ヴィクトールは書斎に戻ってきたジルから報告を受けた。


ジルが口を開いた。


「お嬢様、ここ数日、以下のような行動をなさっておいでです」


そう言って、目録を読み上げた。


一、屋敷の若い侍女アンナ氏の子癇発作からの救命。

二、ロザリー氏(侍女)への過去の暴言の謝罪。

三、貧民街への視察。

四、貧民街における難産母子の救命。

五、近郊の孤児院への突然の寄付(自身の宝飾品を換金した全額)。

六、シャティヨン伯爵への医療改革の嘆願。

七、王都の薬師や産婆たちへの面会要請(複数件、すでに送付済)。

八、サン・ジュスト公爵令息との複数回の書状のやり取り——


「待て」


ヴィクトールがジルの言葉を遮った。


「八番、もう一度言え」


「サン・ジュスト公爵令息との複数回の書状のやり取りでございます」


「……サン・ジュスト、公爵令息、と」


「はい」


「観劇の場で、お嬢様を介抱された方ですな」


「そうか」


ヴィクトールは机の上で両手を組み合わせた。


指に力がこもるのが、自分でも分かった。


——サン・ジュスト、ラファエル様。希少な光属性治癒師。王都で最も、独身令嬢たちが噂する美貌の公爵嫡男。


——あの男と、複数回の書状のやり取り。


——……。


——おい、待て。待て待て待て。


「ジル」


「はい」


「もう、下がっていい」


「はい」


ジルが礼をして退出した。


書斎に、再び一人。


ヴィクトールは机に両肘をつき、両手で顔を覆った。


——なぜだ。なぜ、あの男と書状をやり取りしている。医療の話か。治癒師の話か。それとも——


——あの男は独身だ。王都中の女たちが、噂の的にしている。


——あの男が、もし、あの女に特別な感情を抱いていたら。


ヴィクトールは、その先を考えることすら苦々しかった。


——やっぱりだ。あの女が変わったなど、所詮は見せかけだったのだ。男を惹きつける手管だけは、相変わらず健在らしい。


「ヴィクトール、何を考えている」


自分に声をかけた。誰もいない部屋に向かって、大真面目に。


「お前は、婚約を解消した男だぞ」


「もう、あの女に騙されはしない。彼女が誰と何をしようが、俺には関係ない」


「……それなのに、何を、嫉妬している」


ヴィクトールは立ち上がり、書斎の窓辺に歩いていった。


外は晴れていた。青い空、白い雲。庭の薔薇ばらが満開だった。


——……関係ない。


——……はずなんだ。


---


その日の午後、ヴィクトールは馬を出した。


行き先は、王都の中心、商人街。


理由は、自分でもうまく説明できない。ただ、一目、見たかった。


演技か、本物か。自分の目で確かめるまで、何も信じられない。


商人街の薬師の店の前で、彼は馬を止めた。


そこにシャティヨン家の馬車が停まっている、と聞いている。


予想通り、薔薇の紋章の馬車が停まっていた。


ヴィクトールは店の向かいの路地裏に馬を繋ぎ、帽子のつばを深く下げた。


——貴族が、物陰から令嬢を見張っている。傍から見れば、ただの不審者だ。


彼女が店から出てくるのを待った。


待った。


——長い。


そして店の扉が開き、セレスティーヌ・ド・シャティヨンが出てきた。


ヴィクトールは、思わずその姿に見入った。


——……。


---


彼女は軽薄な衣装ではなかった。派手な薔薇色のドレスでも、扇でもない。


動きやすく、装飾の一切ない、質素な淡い藍色の外出着。髪は清潔にまとめられ、つば広の帽子の中にすべて収められている。まるで修道女のような出で立ちだった。腕には薬草の束と書物。


そして、目が違った。


恋愛や、外見、自分のことしか考えていない、夢見心地のあの目ではなかった。何かを深く考え抜いた、幾多の修羅場を乗り越えてきたかのような目をしていた。


ヴィクトールは路地の影で帽子を握りしめた。


——あれは、誰だ。


——あの女は、本当に、セレスティーヌ・ド・シャティヨンなのか。


セレスティーヌは店の前で、店主に軽く礼をした。


「ありがとうございました、店主様。明日、また伺いますね」


「お嬢様、こちらこそ、ありがとうございます」


店主が深々と頭を下げていた。


ヴィクトールは息を止めた。


——令嬢が、頼まれもせず、平民に礼をしている。


セレスティーヌが馬車に向かって歩き始めた。


ヴィクトールは思わず一歩、路地から踏み出し、声をかけようとした。


「セレ、——」


その時、誰かが彼女に駆け寄った。


中年の女だった。泥のついたエプロン、よれた髪。


「お嬢様! ありがとうございます、お嬢様!」


女がセレスティーヌの足元にひざまずいた。


「うちの娘の命を救ってくださって……お嬢様、お嬢様……!」


「……マダム、立ってください、どうか立って」


セレスティーヌが慌てて女を立たせようとした。


「いいえ、お嬢様、私、私、お礼を何度でも申し上げたくて、私……」


「マダム」


セレスティーヌは女の両肩に手を置いた。


そして、ゆっくりと屈んで、女と目線を合わせた。


「あなたの娘さんが、自分の力で頑張り抜いたのよ。私はただ、その手伝いをしただけ」


「お嬢様……」


「それと、マダム。今度のお産は、もっと早めに私に知らせて。それに、他にも身重の方やお産を控えた方をご存知なら、どなたのことでも構わないから、すぐ私にご連絡を」


「お嬢様、わ、私たち平民が、お嬢様のお屋敷を訪ねるなんて、そんな、畏れ多い——」


「畏れ多くはありませんわ。命に、貴族も平民もないでしょう?」


「お、お嬢様……」


「では、また必ず」


セレスティーヌは女の手を握ってから、馬車に向かった。


ヴィクトールは、路地の影で息をするのを忘れていた。


——あれは、誰だ。


何が何だか、分からなくなった。


「演技なら」


ヴィクトールは、ほとんど無意識に呟いた。


「演技なら、なぜ私を見つけて、私の前でしない」


「演技なら、なぜこんな路地の、人目のないところで、平民などと親しげに言葉を交わしている。あんなに、平民を嫌っていた女が」


「演技なら、なぜ、こんなにも——」


「こんなにも、自然なんだ?」


馬車が走り出す。ヴィクトールはそれを見送り、ようやく帽子を上げた。


額に、汗がにじんでいる。


---


帰り道。


馬の背中で、ヴィクトールは考え続けた。


——あれは、本物の慈善行動だ。本物の誠実さだ。


——……でも、あの女はティナだ。あの軽薄な、わがままな、人を見下すセレスティーヌ・ド・シャティヨンだ。


——人は、こんなに唐突に変わるものなのか。


父がいつか言っていた言葉が、頭に蘇った。


——人は変わるものだ。変わるときは、唐突に変わる。


——お前が彼女を諦めた、まさにその日に、彼女が変わるということが、人生にはある。


——お前は、それを覚悟して解消したか。


ヴィクトールは馬の上で、深く息をつく。


——演技だと思っていた。演技であってほしかった。


——もし、これが演技でないのなら。


その可能性に思い至った瞬間、心臓が凍りついた。私は、いったい何を見誤っていたのだろう。


家の門に馬が到着した。


ヴィクトールは馬から降り、しばらく自分の屋敷の門を見上げて立ち尽くした。


「ヴィクトール様、お帰りなさいませ」


門番が礼をした。


ヴィクトールは答えず、ただゆっくりと屋敷の中に入っていった。


その夜、彼は書斎の引き出しの中の、たった一枚の彼女の手紙を、何度も読み返す。


「ご多幸をお祈り申し上げます」


手紙の端が、指の下でくしゃりと折れた。


——……何だ、これは。


——何だったんだ、私は。

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