父の決断、継母の妨害
「お父様、改めて、お願いがあります」
朝食後の、書斎。
セレスティーヌは、シャティヨン伯爵の前に、立っていた。
手には、ラファエルと、二人で、練り上げた、ベル・サンテの構想書類。
「ティナ、それは——」
「病院、設立の、ご許可を、いただきたいのです」
伯爵が、書類を、受け取った。
最初の、見取り図。
事業計画。
収支試算。
人事構想。
時期計画。
そして——
共同出資者の、欄に、書かれた、サン・ジュスト公爵家の、家紋。
「ティナ」
「はい」
「お前、これを、まさか、自分で、書いたのか」
「ラファエル様と、二人で。ですが、計画の主幹は、私です」
「……」
伯爵は、書類を、何度か、めくった。
そして、ぱたりと、閉じた。
「お前、これを、本気で、する、つもりか」
「本気で、します」
「シャティヨン伯爵家の、長女が、医療事業に、深く、関わるのは、家門にとって、相応の、負担、批判、攻撃が、伴う」
「承知しております」
「お前、社交界で、笑い者に、される、覚悟は、あるか」
「あります」
「ふん」
伯爵は、わずかに、頬を、緩めた。
「お前、本当に、変わったな、ティナ」
「お父様、私、これからは、シャティヨン家の、名を、汚さない令嬢では、なく、シャティヨン家の、名を、後世に、誇らしく、残せる令嬢に、なりたいのです」
「……」
「父様、私は、ヴィクトール様の婚約者として、家の名誉を、保てなかった、結局、解消、されてしまった、不甲斐ない娘です」
「ティナ、それは——」
「ですから、私は、別の道で、シャティヨン家に、誇りを、お返ししたい」
セレスティーヌは、深く、頭を、下げた。
「お父様、どうか、私に、機会を、お与えください」
伯爵は、しばらく、机の上の、書類を、見つめていた。
それから、椅子から、立ち上がって、娘の前に、歩み寄った。
そして、彼女の、肩に、手を、置いた。
「ティナ」
「はい」
「お前は、シャティヨン家の、誇りを、すでに、取り戻している」
「父様」
「お前が、毎朝、お父さんに、ご挨拶に、来てくれる、その、二週間で、もう、お前は、十分、家の、誇りだ」
セレスティーヌの、目から、不意に、涙が、こぼれた。
おバカ令嬢ティナの、頃には、流せなかった、種類の、涙だった。
それは——
四十歳の、緒方真理子が、夫を、子を、置いて、死んでしまった、罪悪感が、十七歳の、シャティヨン伯爵令嬢の、肩の上で、ようやく、許される、感覚、だった。
「お父様……」
「いいから、いいから」
伯爵は、軽く、笑った。
「許可する、ティナ。ベル・サンテ、構想を、進めなさい」
「お父様、ありがとうございます」
「ただし、ティナ」
「はい」
「お前の、継母には、気を、つけなさい。あれは、お前が、変わったと、知れば、必ず、邪魔を、する」
「分かっております」
「シャティヨン家の、財政上の、自由を、お前に、預ける。私名義の、信託口座、を、お前のために、開いておこう。これは、お前の、母方の、遺産の、一部だ。本来、嫁入り、の支度金にする予定、だった」
「お父様、それは——」
「お前は、嫁ぐ予定が、白紙になった。だが、その、お金は、お前のものだ。お前の、夢のために、使え」
「……ありがとう、ございます」
「アガトには、内密に。あれが、知れば、必ず、横取りに、来る」
「はい」
伯爵は、書類を、机に、戻した。
「では、私は、執務に、戻る。ティナ、お前の、新しい門出を、祝おう」
「お父様」
「うん?」
「私が、シャティヨン家の、誇り、いずれ、必ず、お見せします」
「うむ、楽しみに、している」
—-
書斎の扉が、閉まる、ぎりぎり、そのとき。
廊下の、向こうに、人の、影が、ちらと、見えた。
派手な、紫色のドレス。
香水の、強い香り。
——継母。
——……、立ち聞き、していた、ね。
セレスティーヌは、内心で、息を、整えた。
そして、扇を、開いて、わざと、堂々と、廊下に、出た。
「あら、アガト様、ご機嫌よう」
「……ティナ、ちょうど、よかったわ、お話が、あるの」
継母——アガト・ド・シャティヨン——は、笑顔で、彼女を、サロンに、誘った。
その笑顔の、奥に、刃が、隠れていた。
—-
サロン。
紅茶が、運ばれてきた。
アガトは、まだ、三十五歳。
セレスティーヌの、亡き実母を、亡くした、シャティヨン伯爵が、二年前に、迎え入れた、二度目の妻。
裕福な、男爵家の出。
派手好き、贅沢好き、社交界の流行を、追いかける。
おバカ令嬢ティナが、軽薄になった、最大の、影響、と、緒方真理子の目には、映っていた。
「ティナ、お父様の、書斎で、なにを、お話しになっていたの」
「ええ、少々、私の、これからの、ご相談を」
「これから?」
「ええ、医療事業を、興しますの」
アガトの、紅茶を、口に、運ぶ手が、止まった。
「……、なんですって?」
「医療事業、ですわ」
「……ティナ」
アガトの、声が、低く、なった。
「あなた、本気で、言っているの?」
「ええ、本気で」
「シャティヨン家の、令嬢が、医療? 貴族の、令嬢が、医療? あなた、何を、考えているの。家門の、恥よ」
「家門の、誉に、なるよう、努力します」
「やめなさい」
「やめません」
セレスティーヌは、にこやかに、答えた。
おバカ令嬢ティナだった頃なら、継母の怒声に、震えて、引き下がっていた。
しかし、緒方真理子は——
四十年の、医療現場で、もっと、声の、大きい男たちと、対峙してきた。
脅されたことも、ある。
裁判沙汰になりかけたことも、ある。
それでも、彼女は、引き下がらなかった。
「アガト様」
「なに」
「私の、決定です。お父様の、承認も、頂きました」
「お父様が、なんですって?」
「ご承認いただきました」
「……」
アガトの、頬が、紫色に、染まり始めた。
「ティナ、あなた、本当に、最近、生意気よ」
「生意気、と、お思いになるかもしれませんが、もう、後戻りは、いたしませんの」
「ふん、まあいいわ、勝手に、しなさい。ただし、シャティヨン家の、財産は、一切、使わせないわよ」
「ご心配なく。私、母の、遺産の、信託口座を、開くことに、なりました」
アガトの目が、剥かれた。
「母の、遺産?」
「ええ。母方からの、嫁入り、支度金として、お父様が、預かってくださっていたものです」
「……、それを、あなた、勝手に、使うの?」
「ええ。お父様、ご承諾、くださいましたわ」
アガトは、紅茶の、ティーカップを、強く、置いた。
ソーサーが、わずかに、欠けた。
「ティナ」
「はい」
「あなた、覚えておきなさい」
「はい」
「私を、敵に、回しては、いけませんよ」
「ふふっ」
セレスティーヌは、扇を、開いた。
そして、軽く、笑った。
「アガト様、私、敵には、回しませんわ。ただ——」
扇の影で、目を、細めた。
「——あなたが、私の、味方に、なってくださらないのなら、それは、それで、構いません」
「……、なんですって」
「敵にも、味方にも、ならない、第三者で、いてくださって、結構ですわ」
セレスティーヌは、立ち上がった。
「では、私、用が、ございますので、失礼いたしますわ」
「ティナ、待ちなさい!」
「お話は、終わりました、アガト様」
セレスティーヌは、振り返らずに、サロンを、出た。
—-
廊下を、歩きながら、彼女は、深く、息を、吐いた。
——あの女、必ず、何か、仕掛けてくる。
——気を、つけなければ。
——緒方真理子、医療現場で、戦った、そのスキルを、家庭内政争にも、使うときが、来たわね。
——……はい、対処、します。
セレスティーヌは、足を、止めて、振り返った。
サロンの扉が、わずかに、開いた、隙間から、
アガトが、彼女を、
睨んでいた。
その目に、明確な、敵意が、宿っていた。
—-
、その瞬間。
セレスティーヌは、軽く、扇で、自分の頬を、撫でて、微笑んだ。
——いいわ、アガト様。
——いつでも、いらして。
——私、こう見えて、面倒な、患者を、説得することに、慣れて、おりますの。
——では、また、サロンで、お会いしましょう。
そして、彼女は、軽やかに、廊下を、歩き去った。




