第三話 目覚めたら、令嬢の体でした
朝の光が瞼の上でゆらいでいた。セレスティーヌはゆっくりと目を開けた。
見えたのは、天井だった。蛍光灯の白い天井ではない。繊細な薔薇の彫刻を施した薄水色の漆喰、天蓋から垂れるレース、窓辺の薄手のカーテン——朝の陽が絨毯の上に菱形の模様を作っていた。
——病院じゃない。仮眠室でもない。日本の、あの家でもない。私、生きてる。
ああ、そうか。転生したんだったわね。
ぼんやりと、それを受け入れた。
身体を起こそうとした途端、頭の奥がずきりと痛んだ。
「……っ」
「お嬢様!」
ベッドの脇からロザリーが飛びついてきた。
「お嬢様、お目覚めですか! お嬢様、ご気分はいかがですか!」
侍女の目に涙が浮かんでいる。セレスティーヌはしばらく、その顔を見つめた。
ロザリー。昨日の朝、自分が「ノロマ」と罵った娘だ。
「お嬢様……ロザリーでございます。お嬢様、応答してください、お嬢様」
「……ロザリー」
「はい! はい、お嬢様!」
「私、いま何時に起きたかしら」
「お昼過ぎでございます」
「そう」
「お嬢様、二日、お眠りでいらっしゃいました。シャティヨン伯爵様も、奥様も、それはご心配で——」
「二日……」
(頭痛はあるが、麻痺なし、呂律も回っている。——ひとまず、脳は無事ね)
セレスティーヌは額を押さえた。
「ロザリー」
「はい」
「お父様をお呼びして。……いいえ、待って。先に鏡を見せてちょうだい」
「あの、それは……」
「鏡台へ、連れて行ってちょうだい」
ロザリーは戸惑いながらも、彼女を支えて起き上がらせた。セレスティーヌはゆっくりと絨毯に足を下ろす。膝に力が入らない。それでも侍女の肩に手を回し、鏡台までたどり着いて座った。
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鏡を覗き込んだ。
「……あら」
映っていたのは、金髪に青い瞳の少女だった。化粧っ気ひとつないのに輪郭は迷いなく整い、肌には毛穴の影さえ見当たらない。
医者の目が、反射的にこの顔を観察しようとして、慌てて止まった。診るようなものじゃないでしょう、これは。
「……うわぁ」
声が漏れた。
「お嬢様?」
「いえ、なんでもないわ」
四十歳のとき、目元のしわが気になって美容皮膚科に通っていた自分が、いま伯爵令嬢の顔でこちらを見返している。ずるいでしょ、これ。
——いや、待って待って。夢じゃ、ないんだよね、これ。
「ロザリー」
「はい」
「自分の頬を、つねって、いいかしら」
「は、はい? あの、お嬢様……?」
「冗談よ」
セレスティーヌは軽く笑い、鏡の中の自分を見つめた。
軽薄で、頭が悪くて、人を見下して、平民に唾を吐いて、孤児院への寄付を「無駄」と言って、婚約者を泣かせていた。あのティナが、今もこの顔の下にいる。
鏡の中の自分から、目をそらせなかった。
——ごめんなさい。昔の私は、本当に最低な女だった。それでも、ごめんね。もう、あなたのようには生きられないの。
さよなら、ティナ。
内側から聞こえてくるような声だった。セレスティーヌは長く、息を吐いた。
「ロザリー」
「はい」
「昨日まで——いいえ、一昨日まで、私はあなたに、ずいぶん酷いことをしてきたわね」
ロザリーの顔がこわばった。
「お嬢様、そのようなこと……」
「いいの、隠さなくて。覚えているわ。何度も何度も、あなたを傷つけた」
侍女の頬を涙がすっと伝った。
「ごめんなさいね、ロザリー」
セレスティーヌは静かに言った。
「許してとは言わないわ。ただ——これからは、変わるから」
ロザリーは声もなく、頬を伝う涙を両手で拭った。セレスティーヌはその手を、自分の手で覆う。
「変わるって、約束するわ」
「お、お嬢様……」
「お父様を、呼んでくれる?」
「はい……はいっ」
ロザリーが走り去った。
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一人になった部屋で、彼女は自分の手を見つめた。白く、細く、傷ひとつない。
前世の手は、消毒でいつも荒れていた。あかぎれが絶えず、爪は短く切りそろえられ、色つやを気にしたことなど一度もなかった。それがいま——爪は長く伸び、薔薇色に彩られている。
「……これ、邪魔ね」
セレスティーヌは呟いた。
「こんな爪じゃ手術できないし、なんなら、日常生活も不便じゃない」
昔のティナは、これくらい平気な顔をしていたのだろう。美しくいるためなら、多少の不便くらい、いくらでも飲み込んでいた。
自分の言葉に、軽く笑った。手術。この世界で、私が。する。これから、たくさんする。
——だから、生き直さなきゃ。
侍女への暴言。平民への嘲笑。孤児院の寄付を「無駄」と言って父を怒らせた日。ヴィクトールの従妹を、家柄が劣ると泣かせた日。すがるようにしがみつき、粘着的な好意で彼を疲弊させた十二年。
過去の自分が、次々と浮かんでは刺さる。
——うわぁ。うわぁぁ。ほんとに、私、最低。
振り返れば、よく分かる。あれは振られて当然だった。ヴィクトール、よく十二年も耐えたわね、あなた。感謝する代わりに、もう二度と迷惑はかけない。あなたは自由よ。どうか、心からお慕いになる方とお幸せに。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。最後まで手放せずにいた、あの恋慕だ。
——でも、私はもう、あなたの婚約者ではないから。この痛みも、いつか消えていくでしょう。
それより、この世界の医療を、知ってしまった。産褥で死んでいく母と子。感染症で死んでいく子供たち。治癒師では救えない、無数の命。
なら、答えは一つだ。私はやっぱり、また医師として生きる。この四十年分の知識を、今度こそ、余すことなく使い切る。
それは誰にも聞こえない、誓いだった。
セレスティーヌは鏡の中の自分に、もう一度目を合わせた。
「よろしくね、十七歳の私」
「よろしくね、四十歳の私」
指先が、冷たいガラスに触れた。その感触だけが、やけに現実だった。
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扉が開いた。シャティヨン伯爵が慌ただしく入ってきた。
「ティナ! ティナ、よかった、目を覚ましたのか」
「お父様」
セレスティーヌは椅子から立ち上がり、父に駆け寄ろうとした。
——踏ん張りが、きかない。
十七歳の脚は、碌に運動もしていない、令嬢の脚だった。膝が、あっけなく崩れた。
「あぶない!」
伯爵が抱きとめる。久しぶりの父の腕だった。ティナはいつ父に抱きしめられただろう。たぶん五歳のとき、転んで泣いて以来、一度もない。
「ティナ、目を覚まして、本当によかった。心配したんだぞ」
「お父様、ご心配をおかけしました」
セレスティーヌは父の胸に頬を預けた。伯爵の身体がわずかに震える。
「ティナ、お前……」
「はい」
「お前、何か——変わったか」
セレスティーヌはしばらく答えず、やがて静かに頷いた。
「お父様。私、お話ししたいことがございます」
「なんだ、何でも言いなさい」
彼女は父の腕からゆっくりと身を離し、まっすぐに伯爵の顔を見つめた。
「お父様。私、医療を学びたいのです」
「……はい?」
「学ぶだけでは、足りません。この国の医療を、変えたいのです」
「ティナ、何を言って」
「すぐには分からなくて結構です。ですが、お父様、私に時間をください。証明します」
「ティナ……」
「私が変わったということを、お父様にも、世間にも、何より——私自身に、証明します」
伯爵はしばらく娘を見つめた。彼の知る、軽薄でわがままな社交界の華ではない。目の前にいるのは、十七歳の体に何か別の、深いものを宿した一人の女だった。
「……ティナ」
「はい」
「お前は、本当に、私の娘か」
「ふふっ」
セレスティーヌは微笑んだ。
「お父様の娘です。今日から、本物の」
伯爵はしばらく絶句し、震える手で彼女の頭に触れた。
「……分かった」
「お父様」
「分かった、ティナ。お前の言うことを聞こう」
「ありがとう、お父様」
「だが」
伯爵がわずかに目を細めた。
「お前の継母には——気をつけなさい」
「はい」
「あれは、お前が変わったと知れば、必ず邪魔をする」
セレスティーヌは頷いた。
「分かっております、お父様」
「そうか」
伯爵は頷いた。
「では、まずは養生せよ。話は後だ」
「はい」
伯爵は部屋を出ていった。
セレスティーヌは鏡の前に戻り、映る自分をまっすぐ見た。
——さあ、始めましょう。緒方真理子、生涯二度目の医師人生。
——よろしくお願いします、十七歳の私。
鏡の中の少女が、不敵に笑った。




