目覚めたら、令嬢の体でした
朝の光が、瞼の上で、ぼんやりと揺れていた。
セレスティーヌは、ゆっくりと、目を開けた。
天井——天井が、見える。
白ではなかった。
蛍光灯の白い天井ではなく。
繊細な薔薇の彫刻が施された、薄水色の漆喰。
天蓋から、レース。
窓辺に、薄手のカーテン。
朝の陽が、絨毯の上に、菱形の模様を作っている。
——病院じゃ、ない。
——私、生きてる。
——ああ、そうか。
——転生、したんだったわね。
ぼんやりと、それを受け入れる。
身体を、起こそうとした。
途端、頭の奥が、ずきりと痛んだ。
「……っ」
「お嬢様!」
ベッドの脇から、ロザリーが飛びついてきた。
「お嬢様、お目覚めですか! お嬢様、ご気分はいかがですか!」
侍女の目に、涙が浮かんでいた。
セレスティーヌは、しばらく、その顔を、見つめた。
ロザリー。
昨日の朝、私が「ノロマ」と罵った娘。
「お嬢様……ロザリーでございます。お嬢様、応答してください、お嬢様」
「……ロザリー」
「はい! はい、お嬢様!」
「私、いま、何時に、起きたかしら」
「お昼、過ぎでございます」
「そう」
「お嬢様、二日、お眠りでいらっしゃいました。シャティヨン伯爵様も、奥様も、それはご心配で——」
「二日……」
セレスティーヌは、額を、押さえた。
「ロザリー」
「はい」
「お父様を、お呼び。ですが、少し待ってちょうだい。先に、私、鏡を、見たいの」
「あの、それは……」
「鏡台へ、連れて行ってちょうだい」
ロザリーは、戸惑いながらも、彼女を支えて、起き上がらせた。
セレスティーヌは、ゆっくりと、絨毯に足を下ろした。
膝に、力が入らない。
それでも、侍女の肩に手を回して、鏡台まで、歩いた。
そして、座った。
---
鏡を、見た。
「……あら」
そこに映っていたのは、十七歳の、若い女の顔だった。
金髪。
青い瞳。
化粧をしていなくても、はっとするほどの、整った顔立ち。
絹のような肌。
小さな顎。
細い首。
「……うわぁ」
思わず、声が出た。
「お嬢様?」
「いえ、なんでもないわ」
セレスティーヌは——いや、緒方真理子は——内心で、しみじみと思った。
——若い。
——とんでもなく、若い。
——ねえ、これ、本当に、私の顔?
——四十歳のとき、目元のしわが気になって美容皮膚科に通ってたあの私が、いま、十七歳の伯爵令嬢の顔をしてる。
——いや、待って、待って。
——これ、現実なんだよね。
——夢じゃ、ないんだよね。
「ロザリー」
「はい」
「自分の頬を、つねって、いいかしら」
「は、はい? あの、お嬢様……?」
「冗談よ」
セレスティーヌは、軽く笑った。
そして、鏡の中の自分に、語りかけた。
——あなた、誰。
——あなた、本当に、私?
——あなたは、軽薄で、頭が悪くて、人を見下して、平民に唾を吐いて、孤児院に寄付するのを「無駄」と言って、婚約者を泣かせていた、あの、ティナでしょう。
鏡の中の自分が、目を伏せた。
——ええ。
——私よ。
——ごめんなさい。
その声が、自分の中から、聞こえた気がした。
セレスティーヌは、深い、長い、息を吐いた。
「ロザリー」
「はい」
「昨日まで——いいえ、一昨日まで、私、あなたに、ずいぶん、酷いことを、してきたわね」
ロザリーが、顔を、こわばらせた。
「お、お嬢様、そのようなこと……」
「いいの、隠さなくて。私、覚えているわ。何度も、何度も、あなたを、傷つけた」
侍女の頬を、涙が、すっと、伝っていった。
「ごめんなさいね、ロザリー」
セレスティーヌは、静かに、言った。
「許してとは、言わないわ。ただ——これからは、変わるから」
ロザリーは、声もなく、頬を伝う涙を、両手で、拭った。
セレスティーヌは、その手を、自分の手で、優しく、覆った。
「変わるって、約束するわ」
「お、お嬢様……」
「お父様を、呼んでくれる?」
「はい……はいっ」
ロザリーが、走り去った。
---
一人になった部屋で、彼女は、自分の手を、見つめた。
両手とも、白くて、細くて、傷一つない。
——前世の私の手は、いつも、消毒で、荒れてた。
——あかぎれが、絶えなかった。
——爪は、短く切って、いつも、爪の下が、桜色だった。
——いま、この手は——
爪が、長く、薔薇色の塗料で、塗られている。
「……これ、邪魔ね」
セレスティーヌは、呟いた。
「手術するときに、邪魔だわ」
そして、自分の言葉に、軽く笑った。
——手術。
——するの、私。
——この世界で?
——する。
——するの、これから。
——たくさん、たくさん、する。
——だから、
——だから、私は、生き直さなきゃ。
頭の中で、過去の自分の言動が、走馬灯のように、流れていく。
侍女への暴言。
平民への嘲笑。
孤児院の寄付を、無駄と言って、父を怒らせた日。
ヴィクトールの従妹を、家柄が劣ると、泣かせた日。
婚約者に、すがるように、しがみつき、その粘着的な好意で、彼を疲弊させた、十二年。
——うわぁ。
——うわぁぁ。
——ほんとに、私、最低。
——いま、振り返って、よく分かる。
——あれは、振られて当然だわ。
——ヴィクトール、よく十二年、耐えたよ、あなた。
——むしろ、感謝しないと。
——感謝、する代わりに、もう、二度と、迷惑、かけない。
——あなたは、自由よ、ヴィクトール。
——どうか、あなたが、心からお慕いになる方と、お幸せに。
セレスティーヌは、深く、頷いた。
胸の奥が、ちくり、と、痛んだ。
その痛みは、おバカ令嬢だった私の、最後の、恋慕だった。
——でも、私は、もう、あなたの婚約者では、ないから。
——だから、この痛みも、いつか、消えていくでしょう。
——その代わり。
——その代わり、私は、別のものに、心を、捧げるわ。
——この国の、産褥で死んでいく、母と、子に。
——感染症で死んでいく、子供たちに。
——治癒師では、救えない、命に。
——私は、私の、四十年分の、知識を、捧げるわ。
それは、誓いだった。
誰にも、聞こえない、誓いだった。
セレスティーヌは、もう一度、鏡の中の自分を、見つめた。
そして、軽く、微笑んだ。
「よろしくね、十七歳の私」
「よろしくね、四十歳の私」
二人の魂は、こうして、握手をした。
---
扉が、開いた。
シャティヨン伯爵が、慌ただしく、入ってきた。
「ティナ! ティナ、よかった、目を覚ましたのか」
「お父様」
セレスティーヌは、椅子から立ち上がり、父に駆け寄ろうとして——膝が崩れた。
「あぶない!」
伯爵が、彼女を、抱きとめた。
久しぶりの、父の腕の中だった。
ティナは、いつ、父に抱きしめられただろう。
たぶん——五歳のとき、転んで泣いて以来、一度も。
「ティナ、お前、本当に、よかった……」
「お父様、ご心配を、おかけしました」
セレスティーヌは、父の胸に、頬を、預けた。
伯爵の身体が、わずかに、震えた。
「ティナ、お前……」
「はい」
「お前、何か——変わったか」
セレスティーヌは、しばらく、答えなかった。
そして、静かに、頷いた。
「お父様。私、お話ししたいことが、ございます」
「なんだ、何でも言いなさい」
彼女は、父の腕から、ゆっくりと、身を離した。
そして、まっすぐに、伯爵の顔を、見つめた。
「お父様。私、医療を、変えたいのです」
「……はい?」
「この国の、医療を、変えたいのです」
「ティナ、何を、言って」
「すぐには、わからなくて、結構です。ですが、お父様、私に、時間を、ください。証明します」
「ティナ……」
「私が、変わったということを、お父様にも、世間にも、何より——私自身に、証明します」
伯爵は、しばらく、娘を、見つめた。
彼の知る、軽薄な、わがままな、社交界の華ではなく。
彼の前にいたのは、十七歳の体に、何か、別の、深いものを、宿した、一人の女だった。
「……ティナ」
「はい」
「お前は、本当に、私の娘か」
「ふふっ」
セレスティーヌは、微笑んだ。
「お父様の、娘です。今日から、本物の」
伯爵は、しばらく、絶句した後——
震える手で、彼女の頭に、手を、置いた。
「……分かった」
「お父様」
「分かった、ティナ。お前の言うことを、聞こう」
「ありがとう、お父様」
「だが」
伯爵が、わずかに、目を細めた。
「お前の、継母には——気をつけなさい」
「はい」
「あれは、お前が変わったと知れば、必ず、邪魔をする」
セレスティーヌは、頷いた。
「分かっております、お父様」
「うむ」
伯爵が、頷いた。
「では、まずは、養生せよ。話は、後だ」
「はい」
伯爵が、部屋を、出ていく。
セレスティーヌは、もう一度、鏡の中の自分を、見た。
そして、声に出さず、呟いた。
——さあ、始めましょう。
——緒方真理子、生涯、二度目の、医師人生。




