表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約解消されたオバカ令嬢、前世を思い出す  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/63

第一話 婚約者から、解消を言い渡された日

鏡の前で、セレスティーヌ・ド・シャティヨンは、もう小一時間、同じ角度で微笑む練習をしていた。三十七回目のその微笑みを、扉を叩く音が破った。


「遅いわよ、ロザリー」


自分がどれだけ長く鏡と向き合っていたかは、彼女の勘定に入っていない。


「申し訳ございません、お嬢様。コルセットの紐が絡んでしまって」


「絡むものを使うからでしょう? 私のものなのよ、これは」


紐が自分の持ち物であることと、絡んではいけないことの間に、何の関係もない。だがセレスティーヌの理屈では、それで十分だった。「あんたの粗忽さで傷んだら給金から引くわよ」


「……はい、申し訳ございません」


ロザリーが震える指で紐を結び直す。セレスティーヌはその間も鏡から目を離さなかった。舌打ちひとつ挟んで、また点検に戻る。


金髪に青い瞳、染み一つない肌、整いすぎた眉と唇。神様が丹精込めて仕上げた顔だと、彼女は信じて疑わない。シャティヨン伯爵家の長女として、非の打ちどころのない顔がそこにあった。


「今日のドレスは薔薇色のあれを」


「お嬢様、先日仕立てたばかりの薔薇色は、まだ袖が」


「袖くらい間に合わせなさい。今日は私の婚約者に会う日よ」


ロザリーがわずかに目を伏せた。


セレスティーヌは気づかなかった。鏡の中の自分に、忙しかったから。


---


馬車の中で、セレスティーヌは窓の外を眺めていた。


王都の石畳、朝の市場へ向かう平民たちの背中。擦り切れた肩の布、日に焼けた首筋、泥のついた靴。セレスティーヌは眉をひそめ、扇を開いてその景色を遮った。


もっと身ぎれいにできないものかしら。


貧しい者が身ぎれいでいられるはずもないことに、彼女は思い至らなかった。着る服も、洗う水も、時間さえも、生まれながらに違う。そんな当たり前のことに、気づいたことすらなかった。


今日は特別な日だった。


ヴィクトールが、最近よそよそしい。あれはきっと、彼の中に何か迷いがあるからだ。婚約者である自分が、もっと積極的に支えてあげなくては。


あるいは、私があまりに美しすぎて、迂闊に近寄れずにいるのかもしれない。そうよ、きっとそう。悪い虫がつかないよう、わざと距離を置いていらっしゃるのだわ。


「あの方、不器用なところがおありになるから」


独り言のつもりが、つい声に出た。悪くない台詞だと、彼女はひとりで頷いた。


ヴィクトール・ド・モンテーニュ。五歳のときからの婚約者。黒髪に灰色の瞳、真面目で堅物で、いつも不機嫌そうな顔をしている。それでも、ときどき振り返ってくれるあの肩を、セレスティーヌは知っていた。


私が、彼を一番知っているのよ。


馬車がモンテーニュ侯爵邸の門をくぐる。


「お嬢様、お着きでございます」


御者の声が扉の外から聞こえた。セレスティーヌは懐から手鏡を取り出し、驚いた顔、はにかむ顔、小首をかしげる顔を順に試した。どれも我ながら完璧だった。


「行きましょう。私の王子様のもとへ」


---


応接室で、ヴィクトールは立っていた。


座らなかった。最初から、何かがおかしかった。


「お久しぶりですわ、ヴィクトール様」


セレスティーヌは無邪気に微笑んだ。


「先日のお茶会にお招きいたしましたのに、いらっしゃらなかったから、寂しゅうござ——」


「セレスティーヌ」


低い声が彼女の言葉を遮った。ヴィクトールは真っ直ぐに、冷たく彼女を見ていた。


「もう、君とは無理だ」


暖炉の薪が爆ぜた。


「……はい?」


「婚約を解消したい」


部屋の音が、遠くに引いた。


ヴィクトールの灰色の瞳に、薔薇色のドレスと完璧な化粧、そして青ざめた頬をした自分の姿が映っている。


「ご……ご冗談を……」


「冗談ではない」


「で、でも、私たち、五歳から——」


「五歳から君を知っているからこそ、もう無理だと言っている」


声に感情がなかった。それが何より恐ろしかった。


「父にも伝えた。両家で近日中に書類を整える」


「……いや」


「無理に変わろうとしなくていい。君を受け入れられる誰かを、探すべきだ。俺には、もう無理だ」


「いやっ……いやよ、ヴィクトール様」


セレスティーヌは立ち上がっていた。


「私、変わるわ。何でも、ヴィクトール様の好きなように——」


「セレスティーヌ」


ヴィクトールが目を伏せた。


「君は変わらない」


その一言が、彼女のすべての言葉を奪った。


「君が平民に唾を吐いた日のことを、俺は忘れていない。君が私の従妹を、家柄が劣るからと馬鹿にして泣かせた日のことも忘れていない。君が孤児院への寄付を無駄だと言って、父上を怒らせた日のことも——忘れていない」


「あれは……あれは……」


「君はいつもそう言う。次は気をつけます、と。だが君は変わらない」


ヴィクトールの灰色の瞳が、初めて揺れた。


「俺はもう、君を変えようとすることに疲れた」


「……っ」


「すまない」


短い言葉だった。たった四文字。


セレスティーヌの世界が、その四文字で砕けた。


---


馬車に乗ったかどうか、よく覚えていない。


気づいたら、彼女は馬車の中にいた。座席の上に、ヴィクトールから昔贈られたエメラルドの腕輪が転がっている。取り乱して、自分の腕から引きちぎって投げつけたのだ。


「……あんな男、知らないわよ」


声が震えていた。


「あんな男、世界中に星の数ほどいるんだから」


涙が頬を伝っていた。


「勝手に、知った気になって」


馬車の窓に映る自分の顔は、化粧が剥がれ、頬が汚れていた。それを見て、彼女は初めて声を上げて泣いた。子供のように、声を上げて泣いた。


---


屋敷に戻り、彼女は自室の鏡台に向かった。


ロザリーがお茶を差し出そうとして、手を止めた。


「下がりなさい」


セレスティーヌは低く言った。


「お嬢様……」


「下がりなさいッ!」


侍女が走り去る。


鏡の中の自分を、彼女は睨みつけた。


「絶対に取り戻してやるわ」


唇を噛む。


「あの男、絶対に私に戻ってくる。私が戻させてみせる」


決意とともに机の引き出しを開けると、白い封筒が二枚入っていた。今夜、ヴィクトールとデートで観に行く予定だった観劇のチケットだ。ベル・ロワ・カーヴ、公演『不死鳥、世に出る』。社交界で最近もっとも話題の舞台だった。


「……もったいないわ」


呟いた。


「捨てるなんて、もったいない」


婚約は壊れても、チケットの元は取る。それが当然だと、彼女は信じて疑わなかった。


しばらく考えてから、彼女は便箋を取り出した。


——マルゴへ。

——今夜、暇?

——観劇のチケットが二枚余っているの。

——一緒に行きましょう。

——ティナより。


書き終えて、封をする。


「ロザリー! ロザリー、いるんでしょう! 使いを頼むわよ!」


廊下から慌てた足音が戻ってくる。


「振られたくらいで、しょげていられないわ」


「私はシャティヨン伯爵家のセレスティーヌよ」


完璧な微笑みだった。化粧の剥がれた頬の下で、唇がかすかに震えていた。


ベル・ロワ・カーヴ、不死鳥の歌。客席の暗闇で、セレスティーヌはまだ知らない——自分の中に、もう一人の自分が眠っていることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ