第一話 婚約者から、解消を言い渡された日
鏡の前で、セレスティーヌ・ド・シャティヨンは、もう小一時間、同じ角度で微笑む練習をしていた。三十七回目のその微笑みを、扉を叩く音が破った。
「遅いわよ、ロザリー」
自分がどれだけ長く鏡と向き合っていたかは、彼女の勘定に入っていない。
「申し訳ございません、お嬢様。コルセットの紐が絡んでしまって」
「絡むものを使うからでしょう? 私のものなのよ、これは」
紐が自分の持ち物であることと、絡んではいけないことの間に、何の関係もない。だがセレスティーヌの理屈では、それで十分だった。「あんたの粗忽さで傷んだら給金から引くわよ」
「……はい、申し訳ございません」
ロザリーが震える指で紐を結び直す。セレスティーヌはその間も鏡から目を離さなかった。舌打ちひとつ挟んで、また点検に戻る。
金髪に青い瞳、染み一つない肌、整いすぎた眉と唇。神様が丹精込めて仕上げた顔だと、彼女は信じて疑わない。シャティヨン伯爵家の長女として、非の打ちどころのない顔がそこにあった。
「今日のドレスは薔薇色のあれを」
「お嬢様、先日仕立てたばかりの薔薇色は、まだ袖が」
「袖くらい間に合わせなさい。今日は私の婚約者に会う日よ」
ロザリーがわずかに目を伏せた。
セレスティーヌは気づかなかった。鏡の中の自分に、忙しかったから。
---
馬車の中で、セレスティーヌは窓の外を眺めていた。
王都の石畳、朝の市場へ向かう平民たちの背中。擦り切れた肩の布、日に焼けた首筋、泥のついた靴。セレスティーヌは眉をひそめ、扇を開いてその景色を遮った。
もっと身ぎれいにできないものかしら。
貧しい者が身ぎれいでいられるはずもないことに、彼女は思い至らなかった。着る服も、洗う水も、時間さえも、生まれながらに違う。そんな当たり前のことに、気づいたことすらなかった。
今日は特別な日だった。
ヴィクトールが、最近よそよそしい。あれはきっと、彼の中に何か迷いがあるからだ。婚約者である自分が、もっと積極的に支えてあげなくては。
あるいは、私があまりに美しすぎて、迂闊に近寄れずにいるのかもしれない。そうよ、きっとそう。悪い虫がつかないよう、わざと距離を置いていらっしゃるのだわ。
「あの方、不器用なところがおありになるから」
独り言のつもりが、つい声に出た。悪くない台詞だと、彼女はひとりで頷いた。
ヴィクトール・ド・モンテーニュ。五歳のときからの婚約者。黒髪に灰色の瞳、真面目で堅物で、いつも不機嫌そうな顔をしている。それでも、ときどき振り返ってくれるあの肩を、セレスティーヌは知っていた。
私が、彼を一番知っているのよ。
馬車がモンテーニュ侯爵邸の門をくぐる。
「お嬢様、お着きでございます」
御者の声が扉の外から聞こえた。セレスティーヌは懐から手鏡を取り出し、驚いた顔、はにかむ顔、小首をかしげる顔を順に試した。どれも我ながら完璧だった。
「行きましょう。私の王子様のもとへ」
---
応接室で、ヴィクトールは立っていた。
座らなかった。最初から、何かがおかしかった。
「お久しぶりですわ、ヴィクトール様」
セレスティーヌは無邪気に微笑んだ。
「先日のお茶会にお招きいたしましたのに、いらっしゃらなかったから、寂しゅうござ——」
「セレスティーヌ」
低い声が彼女の言葉を遮った。ヴィクトールは真っ直ぐに、冷たく彼女を見ていた。
「もう、君とは無理だ」
暖炉の薪が爆ぜた。
「……はい?」
「婚約を解消したい」
部屋の音が、遠くに引いた。
ヴィクトールの灰色の瞳に、薔薇色のドレスと完璧な化粧、そして青ざめた頬をした自分の姿が映っている。
「ご……ご冗談を……」
「冗談ではない」
「で、でも、私たち、五歳から——」
「五歳から君を知っているからこそ、もう無理だと言っている」
声に感情がなかった。それが何より恐ろしかった。
「父にも伝えた。両家で近日中に書類を整える」
「……いや」
「無理に変わろうとしなくていい。君を受け入れられる誰かを、探すべきだ。俺には、もう無理だ」
「いやっ……いやよ、ヴィクトール様」
セレスティーヌは立ち上がっていた。
「私、変わるわ。何でも、ヴィクトール様の好きなように——」
「セレスティーヌ」
ヴィクトールが目を伏せた。
「君は変わらない」
その一言が、彼女のすべての言葉を奪った。
「君が平民に唾を吐いた日のことを、俺は忘れていない。君が私の従妹を、家柄が劣るからと馬鹿にして泣かせた日のことも忘れていない。君が孤児院への寄付を無駄だと言って、父上を怒らせた日のことも——忘れていない」
「あれは……あれは……」
「君はいつもそう言う。次は気をつけます、と。だが君は変わらない」
ヴィクトールの灰色の瞳が、初めて揺れた。
「俺はもう、君を変えようとすることに疲れた」
「……っ」
「すまない」
短い言葉だった。たった四文字。
セレスティーヌの世界が、その四文字で砕けた。
---
馬車に乗ったかどうか、よく覚えていない。
気づいたら、彼女は馬車の中にいた。座席の上に、ヴィクトールから昔贈られたエメラルドの腕輪が転がっている。取り乱して、自分の腕から引きちぎって投げつけたのだ。
「……あんな男、知らないわよ」
声が震えていた。
「あんな男、世界中に星の数ほどいるんだから」
涙が頬を伝っていた。
「勝手に、知った気になって」
馬車の窓に映る自分の顔は、化粧が剥がれ、頬が汚れていた。それを見て、彼女は初めて声を上げて泣いた。子供のように、声を上げて泣いた。
---
屋敷に戻り、彼女は自室の鏡台に向かった。
ロザリーがお茶を差し出そうとして、手を止めた。
「下がりなさい」
セレスティーヌは低く言った。
「お嬢様……」
「下がりなさいッ!」
侍女が走り去る。
鏡の中の自分を、彼女は睨みつけた。
「絶対に取り戻してやるわ」
唇を噛む。
「あの男、絶対に私に戻ってくる。私が戻させてみせる」
決意とともに机の引き出しを開けると、白い封筒が二枚入っていた。今夜、ヴィクトールとデートで観に行く予定だった観劇のチケットだ。ベル・ロワ・カーヴ、公演『不死鳥、世に出る』。社交界で最近もっとも話題の舞台だった。
「……もったいないわ」
呟いた。
「捨てるなんて、もったいない」
婚約は壊れても、チケットの元は取る。それが当然だと、彼女は信じて疑わなかった。
しばらく考えてから、彼女は便箋を取り出した。
——マルゴへ。
——今夜、暇?
——観劇のチケットが二枚余っているの。
——一緒に行きましょう。
——ティナより。
書き終えて、封をする。
「ロザリー! ロザリー、いるんでしょう! 使いを頼むわよ!」
廊下から慌てた足音が戻ってくる。
「振られたくらいで、しょげていられないわ」
「私はシャティヨン伯爵家のセレスティーヌよ」
完璧な微笑みだった。化粧の剥がれた頬の下で、唇がかすかに震えていた。
ベル・ロワ・カーヴ、不死鳥の歌。客席の暗闇で、セレスティーヌはまだ知らない——自分の中に、もう一人の自分が眠っていることを。




