表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約解消されたオバカ令嬢、前世を思い出す  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/63

閑話① 婚約解消の朝 〜ヴィクトール視点〜

雨が降っていた。


モンテーニュ侯爵邸、書斎の窓ガラスを、細い雨粒が斜めに流れていく。


ヴィクトール・ド・モンテーニュは、暖炉の前の革張りの椅子に深く沈み込んでいた。手には、半分ほど残ったワイングラス。赤い液体が、暖炉の火をゆらゆらと映していた。


——終わった。


書斎の時計が十時を告げた。


今朝、応接室で彼は十二年続いた婚約を解消した。相手はセレスティーヌ・ド・シャティヨン。五歳の頃から、両家が決めた許婚だった。


「もう君とは無理だ」


そう告げた瞬間の、彼女の青ざめた顔がまだ瞼の裏に張りついていた。


——終わった。


——これでいい。


——これでよかったんだ。


三度も自分に言い聞かせている自分に気づいて、ヴィクトールは小さく鼻で笑った。


呪文でも唱えれば楽になるとでも思っているのか。馬鹿げている。


それでも、酒はいつもより苦く感じられた。


「ヴィクトール」


書斎の扉が開いた。


入ってきたのは父、モンテーニュ侯爵その人だった。


白髪交じりの、がっしりとした体格の男。口数は少ないが、誠実さだけは誰よりも信じられる。ヴィクトールが、生涯で唯一頭の上がらない相手だった。


「父上」


ヴィクトールは立ち上がろうとした。


「いい、座っていろ」


侯爵は、息子の向かいの椅子にゆっくりと腰を下ろした。


しばし沈黙が流れた。


暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。


「シャティヨン伯爵から書状が届いた」


「……はい」


「両家合意の上で、解消を進めると」


「はい」


「お前は、本当にこれでよかったのか」


「……はい」


侯爵は長く息子を見つめた。


ヴィクトールは目を伏せた。父の視線を受け止める自信がなかった。


「ヴィクトール」


「はい」


「私は、お前の判断を尊重する」


「……はい」


「だが一つだけ、聞かせてくれ」


侯爵がわずかに身を乗り出した。


「お前は、彼女を愛していなかったのか」


ワイングラスを持つ指が、わずかに震えた。


「……さあ、どうでしょう」


言葉を濁した。


「五歳の頃から婚約者でした。情がないと言えば嘘になります。ですが、それだけです」


「うむ」


「彼女はわがままで、人を見下し、平民を罵り、周りを疲れさせる。私がいくら諫めても、変わらなかった」


ヴィクトールはワインを一気に呷った。


「私は、彼女を変えようとし続けて、疲れたのです。もう、それだけの話です」


「うむ」


「面倒を見きれなかった。ただ、それだけです」


「そうか」


「はい」


「だから解消した」


「……はい」


侯爵は深く頷いた。


「お前は、間違ってはいない」


「父上」


「だが一つ、覚えておけ」


「はい」


「私の経験では――人は変わるものだ。変わるときは、唐突に変わる」


「父上、それは――」


「お前が彼女を諦めた、まさにその日に、彼女が変わる。そういうことが人生にはある」


侯爵は静かに立ち上がった。


「お前は、それを覚悟して解消したか?」


ヴィクトールは答えられなかった。


「……分かりません」


「うむ」


「分かりませんが、父上。私はもう、あれを引き受ける気力がないのです」


「なるほどな」


「もう無理なのです」


「……分かった」


侯爵は、息子の肩に軽く手を置いた。


「無理に笑え、とは言わぬ。今日はよく休め」


「父上」


「ヴィクトール」


「はい」


「お前が決めたことだ。後悔するな」


侯爵は書斎を出ていった。


扉が静かに閉まる。


ヴィクトールは、空になったワイングラスをじっと見つめた。


——後悔するな、か。


——後悔なんて、しない。


——あの女は、もう私の責任じゃない。私は自由だ。彼女も、自由になる。


——これでよかった。それでいいはずだ。


雨音が強くなった。


雨粒が、次々にガラスを叩いていた。


ヴィクトールは、ふと暖炉の火に目をやった。


火の中に、いつかの夏の庭の景色が見えた気がした。


五歳のセレスティーヌ。真っ白なドレスで、彼の背中を追いかけていた、あの娘。


とにかく、彼女の愛らしさに圧倒された。こんなに可愛い子が自分の婚約者なのだと、舞い上がりそうになるほど嬉しかった。あの頃は、確かにそうだった。


「ヴィクトール様!」


「ヴィクトール様、待ってよぉ!」


転んで泣いて。彼が振り返り、彼女の手を引き起こした。


「セレスティーヌ、立てるか」


「ええ……ええ、ヴィクトール様、ありがとうございますわ」


涙のにじんだ青い瞳。土のついた膝のドレス。それでも彼を見上げて、微笑んだあの顔。


——だが、あの笑顔は、俺にだけ向けられたものだった。


使用人にも、他の子供たちにも、彼女は驚くほど素っ気なかった。優しい仮面は、俺の前でだけ被られていたのだと、今ならば分かる。


「ねえ、ヴィクトール様」


「なんだ」


「私、大きくなったら、ヴィクトール様のお嫁さんになるのよね」


「……ふむ」


「お嫁さんになるのよ。約束。約束よ、ヴィクトール様」


——約束、か。


——あれは五歳の、子供の戯言だった。


——だが、あの約束を確かに守りたいと思った日々が、私にはあったはずだ。


彼女に似合う男になろうと、俺なりに努力した。剣術も、学問も、領地経営も。彼女の隣に立って恥ずかしくない男でありたかった。


けれど、努力すればするほど、見えてくるものがあった。彼女は、何一つ、努力をしない。着飾ることと、愛されることだけに時間を費やし、それ以外のすべてに興味を示さない。可愛らしい顔の裏側に隠れていた中身に、俺は少しずつ気づいていった。


社交界で、あいつは頭が空っぽの愚かな令嬢だと陰口を叩かれているのを、俺は何度も耳にした。そのたびに、腹の底が煮えた。あまりに愚かで、見た目だけの女だと言われるのが、俺には我慢できなかった。


ヴィクトールは、なおもその炎を見つめていた。


火の中の五歳のセレスティーヌは、まだ微笑んでいた。


その隣に、十二年後の彼女が現れた。派手な薔薇色のドレス。隙のない化粧。扇を翻し、貴族たちに愛想笑いを振りまく、あの彼女。


——あの女は、誰なんだ。


——五歳のあの娘は、どこへ行ったんだ。


ヴィクトールは、ワイングラスを暖炉の脇に置いた。


そして両手で顔を覆った。


「……これで、よかった」


低く、自分に言い聞かせた。


「これで、よかったんだ」


雨が激しく降っていた。


窓ガラスを流れる雨粒が、誰のものでもない涙のように見えた。


それが自分の涙だったのかどうか、ヴィクトールには分からなかった。


その夜、ヴィクトールは空になったグラスに、もう一杯だけ酒を注いだ。


——これでよかった。


飲み下すと、今度は苦さを感じなかった。慣れただけだ、と自分に言い聞かせた。


翌日、ベル・ロワ・カーヴの観劇会場で、元婚約者が倒れる。


その一報が王都中を駆け巡ることになるとは——ヴィクトールは、まだ知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ