閑話① 婚約解消の朝 〜ヴィクトール視点〜
雨が降っていた。
モンテーニュ侯爵邸、書斎の窓ガラスを、細い雨粒が斜めに流れていく。
ヴィクトール・ド・モンテーニュは、暖炉の前の革張りの椅子に深く沈み込んでいた。手には、半分ほど残ったワイングラス。赤い液体が、暖炉の火をゆらゆらと映していた。
——終わった。
書斎の時計が十時を告げた。
今朝、応接室で彼は十二年続いた婚約を解消した。相手はセレスティーヌ・ド・シャティヨン。五歳の頃から、両家が決めた許婚だった。
「もう君とは無理だ」
そう告げた瞬間の、彼女の青ざめた顔がまだ瞼の裏に張りついていた。
——終わった。
——これでいい。
——これでよかったんだ。
三度も自分に言い聞かせている自分に気づいて、ヴィクトールは小さく鼻で笑った。
呪文でも唱えれば楽になるとでも思っているのか。馬鹿げている。
それでも、酒はいつもより苦く感じられた。
「ヴィクトール」
書斎の扉が開いた。
入ってきたのは父、モンテーニュ侯爵その人だった。
白髪交じりの、がっしりとした体格の男。口数は少ないが、誠実さだけは誰よりも信じられる。ヴィクトールが、生涯で唯一頭の上がらない相手だった。
「父上」
ヴィクトールは立ち上がろうとした。
「いい、座っていろ」
侯爵は、息子の向かいの椅子にゆっくりと腰を下ろした。
しばし沈黙が流れた。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。
「シャティヨン伯爵から書状が届いた」
「……はい」
「両家合意の上で、解消を進めると」
「はい」
「お前は、本当にこれでよかったのか」
「……はい」
侯爵は長く息子を見つめた。
ヴィクトールは目を伏せた。父の視線を受け止める自信がなかった。
「ヴィクトール」
「はい」
「私は、お前の判断を尊重する」
「……はい」
「だが一つだけ、聞かせてくれ」
侯爵がわずかに身を乗り出した。
「お前は、彼女を愛していなかったのか」
ワイングラスを持つ指が、わずかに震えた。
「……さあ、どうでしょう」
言葉を濁した。
「五歳の頃から婚約者でした。情がないと言えば嘘になります。ですが、それだけです」
「うむ」
「彼女はわがままで、人を見下し、平民を罵り、周りを疲れさせる。私がいくら諫めても、変わらなかった」
ヴィクトールはワインを一気に呷った。
「私は、彼女を変えようとし続けて、疲れたのです。もう、それだけの話です」
「うむ」
「面倒を見きれなかった。ただ、それだけです」
「そうか」
「はい」
「だから解消した」
「……はい」
侯爵は深く頷いた。
「お前は、間違ってはいない」
「父上」
「だが一つ、覚えておけ」
「はい」
「私の経験では――人は変わるものだ。変わるときは、唐突に変わる」
「父上、それは――」
「お前が彼女を諦めた、まさにその日に、彼女が変わる。そういうことが人生にはある」
侯爵は静かに立ち上がった。
「お前は、それを覚悟して解消したか?」
ヴィクトールは答えられなかった。
「……分かりません」
「うむ」
「分かりませんが、父上。私はもう、あれを引き受ける気力がないのです」
「なるほどな」
「もう無理なのです」
「……分かった」
侯爵は、息子の肩に軽く手を置いた。
「無理に笑え、とは言わぬ。今日はよく休め」
「父上」
「ヴィクトール」
「はい」
「お前が決めたことだ。後悔するな」
侯爵は書斎を出ていった。
扉が静かに閉まる。
ヴィクトールは、空になったワイングラスをじっと見つめた。
——後悔するな、か。
——後悔なんて、しない。
——あの女は、もう私の責任じゃない。私は自由だ。彼女も、自由になる。
——これでよかった。それでいいはずだ。
雨音が強くなった。
雨粒が、次々にガラスを叩いていた。
ヴィクトールは、ふと暖炉の火に目をやった。
火の中に、いつかの夏の庭の景色が見えた気がした。
五歳のセレスティーヌ。真っ白なドレスで、彼の背中を追いかけていた、あの娘。
とにかく、彼女の愛らしさに圧倒された。こんなに可愛い子が自分の婚約者なのだと、舞い上がりそうになるほど嬉しかった。あの頃は、確かにそうだった。
「ヴィクトール様!」
「ヴィクトール様、待ってよぉ!」
転んで泣いて。彼が振り返り、彼女の手を引き起こした。
「セレスティーヌ、立てるか」
「ええ……ええ、ヴィクトール様、ありがとうございますわ」
涙のにじんだ青い瞳。土のついた膝のドレス。それでも彼を見上げて、微笑んだあの顔。
——だが、あの笑顔は、俺にだけ向けられたものだった。
使用人にも、他の子供たちにも、彼女は驚くほど素っ気なかった。優しい仮面は、俺の前でだけ被られていたのだと、今ならば分かる。
「ねえ、ヴィクトール様」
「なんだ」
「私、大きくなったら、ヴィクトール様のお嫁さんになるのよね」
「……ふむ」
「お嫁さんになるのよ。約束。約束よ、ヴィクトール様」
——約束、か。
——あれは五歳の、子供の戯言だった。
——だが、あの約束を確かに守りたいと思った日々が、私にはあったはずだ。
彼女に似合う男になろうと、俺なりに努力した。剣術も、学問も、領地経営も。彼女の隣に立って恥ずかしくない男でありたかった。
けれど、努力すればするほど、見えてくるものがあった。彼女は、何一つ、努力をしない。着飾ることと、愛されることだけに時間を費やし、それ以外のすべてに興味を示さない。可愛らしい顔の裏側に隠れていた中身に、俺は少しずつ気づいていった。
社交界で、あいつは頭が空っぽの愚かな令嬢だと陰口を叩かれているのを、俺は何度も耳にした。そのたびに、腹の底が煮えた。あまりに愚かで、見た目だけの女だと言われるのが、俺には我慢できなかった。
ヴィクトールは、なおもその炎を見つめていた。
火の中の五歳のセレスティーヌは、まだ微笑んでいた。
その隣に、十二年後の彼女が現れた。派手な薔薇色のドレス。隙のない化粧。扇を翻し、貴族たちに愛想笑いを振りまく、あの彼女。
——あの女は、誰なんだ。
——五歳のあの娘は、どこへ行ったんだ。
ヴィクトールは、ワイングラスを暖炉の脇に置いた。
そして両手で顔を覆った。
「……これで、よかった」
低く、自分に言い聞かせた。
「これで、よかったんだ」
雨が激しく降っていた。
窓ガラスを流れる雨粒が、誰のものでもない涙のように見えた。
それが自分の涙だったのかどうか、ヴィクトールには分からなかった。
その夜、ヴィクトールは空になったグラスに、もう一杯だけ酒を注いだ。
——これでよかった。
飲み下すと、今度は苦さを感じなかった。慣れただけだ、と自分に言い聞かせた。
翌日、ベル・ロワ・カーヴの観劇会場で、元婚約者が倒れる。
その一報が王都中を駆け巡ることになるとは——ヴィクトールは、まだ知らない。




