第十六話 美容師、マチルダとの出会い
平民街の北のはずれ。
古い二階建ての理髪屋の軒先に、色あせた看板が下がっていた。
「ボワイエ理髪 創業三世代」
そう書いてあった。
*
セレスティーヌは馬車を降りた。ロザリーと護衛二人が付き添う。
「お嬢様、本当にここでよろしいので?」
「ええ。マチルダさんにお会いに来たのよ」
護衛二人が、顔を見合わせた。平民街の理髪屋に伯爵令嬢が自ら足を運ぶ。この数ヶ月で驚くことにも慣れたはずなのに。
セレスティーヌは扉を軽く叩いた。中から若い女性の声が聞こえた。
「はい、ただいま」
*
扉が開き、若い女性が立っていた。
十九歳。栗色の短めの髪を後ろでしっかり束ねている。平民の簡素な麻のドレス、左手に櫛、右手に布を持っていた。
その目は意志を持ってセレスティーヌを見つめていた。
*
「あ……貴族のお嬢様?」
「マチルダさんでよろしいかしら」
「は、はい、私、マチルダ・ボワイエでございますが、お嬢様、何の——」
「お話、よろしくて?」
「あ、はい、どうぞ……あ、いえ、お店の中、汚くて、お嬢様にはお見苦しゅう——」
「いえ、構いませんわ」
セレスティーヌはふわりと微笑んで、扉を潜った。
*
理髪屋の店内には簡素な椅子が三脚。壁に鏡。鋏、櫛、剃刀、ブラシ、整髪料の瓶が並んでいる。
瓶の並びに、セレスティーヌの目が止まった。
*
ラベルが正面。埃なし。刃物は使う順に並んでいる。
――消毒台の点検じゃないのよ、私。
分かっていても、目が勝手に動く。几帳面な人だわ、これは。
「マチルダさん、ご家族は」
「祖父が奥におります。先週、風邪で寝込んでおりまして」
「お父様、お母様は」
「父は五年前に。母は半年前に、産褥で——」
マチルダの声がわずかに震えた。
「お悔やみ申し上げますわ」
「あ、ありがとうございます」
セレスティーヌはしばらく店内を見渡した。
「マチルダさん、お一つお聞きよろしくて?」
「は、はい」
「あなた、女性の髪を切られたことは?」
「私……いえ、平民街では女性は髪を切りませんで、私、まだ母の遺髪を切ったきりで——」
「お母様の遺髪を?」
「はい。棺に納めるのに母の髪がぼさぼさで、それを私が整えました。母を最後にお送りするために」
「……それは優しいお話ですわ」
セレスティーヌの胸が、ぎゅっと軋んだ。
緒方真理子。産婦人科医として、何十人もの産褥死と向き合ってきた女。
目の前の十九歳の痛みを、私は知っている。
「マチルダさん」
「は、はい」
セレスティーヌは店の椅子に座り、自分のボブヘアを軽く撫でた。
「私の髪を見てください」
「お嬢様の……お髪、でございますか」
「ええ。先月、刺客に長い髪を切られましたの。それを私の屋敷の侍女が揃え直しましたの」
「……」
「平民街にはまだ伝わってないかしら。最近、貴族の若い令嬢たちの間で、これが流行り始めていますのよ」
「いえ、ボワイエ家の家業上、王都の噂は私も入ってきます。お嬢様のお話、いろいろと伺っております」
「あら、そうなの」
「お嬢様、医療のお事業を始められたと」
「ええ」
「貧民街の難産の母子をご自身でお救いになられたと」
「ええ」
マチルダの目がわずかに潤んだ。
「お嬢様」
「何?」
「私、半年前、母のお産の夜……自分の無力さで母を失いました」
「……」
「もし、お嬢様が半年前にいらっしゃったなら、私の母は助かったでしょうか」
「マチルダさん」
「はい」
「分かりません」
セレスティーヌは誠実に答えた。
「医学はすべての命を救えるとは限らない。ですが、可能性を最大限まで引き上げることはできる」
「……」
「お母様のその夜、私がその場にいたとして、確実にお救いできたか。その答えは神様しか知らない」
「……」
「ですが、マチルダさん」
「はい」
「これから私がたどり着くお産の現場では、お母様が亡くなる確率は半分以下になります。ここから半年、私が医療を整えれば、必ず」
「……お嬢様」
「マチルダさん」
「はい」
「私と一緒に、その半分以下をもっと低くするお手伝いをしてくださいませんか」
マチルダは唇を噛み、目元を赤くした。
「お嬢様、私……平民でございますが」
「平民の力が必要なのです」
「……私に何ができるのでしょうか」
「あなたの手先」
セレスティーヌはそっとマチルダの手を取った。それは彼女と同じくらい若く、しかし職人らしい堅実な筋肉と傷跡を湛えた手だった。
「あなたの手先で女性の髪を切ってください。私と一緒に新しいお店を立てましょう」
「お嬢様、お店、とおっしゃいますと?」
「美容と医療と女性の安心を一つにしたお店です。場所は王都の北の、ベル・サンテの隣」
「ベル・サンテとおっしゃると、お嬢様の病院でございますか」
「ええ」
「そ、その隣に……美容と医療のお店?」
「『ベル・エトワール』。美しい星。あなたが平民の髪結いの、最初の主任スタイリストです」
「ふふ、そんなに慌てないで、マチルダさん」
「お嬢様、わ、私、平民でございます」
「ええ、平民が主任スタイリストになるの。それがいまの王国に必要なことなのです」
「……お嬢様、私、私、お受けしてよろしいので——」
「もちろんですわ」
セレスティーヌは小さく笑った。
「ベル・エトワールの主任スタイリストはあなた。私とロザリーとあなたで立てるのよ。お給金はもちろん、王都の職人の上位と同じでお約束ですわ」
「お嬢様……」
声が裏返って、続きが出てこなかった。マチルダは両手で顔を覆って号泣した。
*
そして震える指で、セレスティーヌの手を両手で握り返した。
*
「お嬢様」
「ええ」
「私、お受けいたします」
「ありがとう、マチルダさん」
「お嬢様、母のお墓に、これから報告して参りたいのでございますが——」
「ふふ、もちろんですわ。私もご一緒いたしましょうか」
「お嬢様、それは……畏れ多くて」
「私、行きますわ。あなたのお母様も、これからの王国の母子の命を救う最初の礎でいらっしゃるのですもの」
*
二人は理髪屋の奥の、簡素な神棚に祈った。
*
セレスティーヌは小さな肖像画の中の、マチルダの母の顔を見て、静かに呟いた。
「あなたの分まで、私がここから生きてまいります」
「同じ痛みを、もう誰にも味わわせません」
*
馬車に戻る道すがら、マチルダがふと立ち止まった。
「お嬢様」
「あら、何かしら」
「私、ボブヘアとおっしゃるあの髪型、すごく可愛いと思っております」
「ふふ、ありがとう」
「私、お嬢様の髪型を参考に、いくつかデザインを起こしてみたいのですが」
「あら、デザイン?」
「はい。長さや毛先の整え方で印象はずいぶん変わります。若い令嬢、お年を召された奥様、それぞれに似合う形があるはずです」
セレスティーヌは目を見開いた。
――採用だわ。即決ね。
本物のデザイン感覚を持つ人材を、こんな街のはずれで拾うなんて。
「マチルダさん」
「はい」
「あなた、絵を描けるかしら」
「は、はい、子供の頃から絵を描くのが好きでございました」
「では、明日私の屋敷にいらして。デザイン、見せてください」
「……はい、参ります」
*
馬車の中で、ロザリーがぽつりと呟いた。
「お嬢様、すごいお方をお見つけになりましたわね」
「ふふ、神様のお導きと思いますわ」
「お嬢様も神様、信じるのですか」
「いままでは信じませんでしたわ。ですが、最近は、信じてもいい気がしております」
セレスティーヌは軽く微笑んで、窓の外を見た。
ボワイエ理髪の色あせた看板が、遠ざかっていく。
次にここへ来る時は、看板の隣に、新しい店の名前が並んでいるはずだ。




