第十二話 報復、夜の路上
その夜は朝から雨が降っていた。セレスティーヌはベル・サンテの建設現場で、夜遅くまで職人たちと図面を詰めていた。
「お嬢様、そろそろお時間でございます」
ロザリーが外套を差し出す。
「ええ、帰りましょう」
馬車に乗り込む。護衛は四人。御者と見張りを入れて六人。いつもは、それで十分だった。
*
馬車が走り出す。夜の王都に小雨。石畳が、黒く濡れて光っていた。
「ロザリー、明日マチルダさんに会いに行きたいの」
「マチルダ、と仰いますと」
「平民街の若い理髪屋の孫娘よ。先日の難産でお母様を亡くしたと聞いたわ」
「お嬢様、平民街でございますよ」
「ええ、だから護衛はいつもより多めにお願いね」
ロザリーは頷き、手帳に書き留めた。
そのとき、馬車が急に止まった。
「……?」
セレスティーヌが窓の外を見ると、いつもの馬車道ではなかった。王都北の、薄暗い路地。
「御者、なぜここで止まる」
声を上げても、返事はない。代わりに、扉が外から開かれた。
*
雨音の中に、四人。黒いフードを被り、腰に剣。顔は布で覆われている。
「お嬢様、シャティヨン家の」
低い声がした。
「ご一緒いただこうか」
セレスティーヌの指先が、スカートの布地を強く掴んだ。喉の奥が、冷たくなる。恐怖だ。
手が、震えていた。握りしめたスカートの布越しに、指先の震えが止まらない。息を吸っても、肺の半分までしか入ってこない気がする。フードの男たちが一歩近づくたび、視界の端が黒く狭まっていくのが分かった。声を出そうとしたのに、喉が張りついたように動かない。四十年の医師としての経験があっても、体は正直に竦むのだと、セレスティーヌはこのとき初めて思い知った。
来た。ついに来た。ヴェルニエ侯爵派の刺客だ。護衛は――
「お嬢様!」
ロザリーが悲鳴を上げた。
セレスティーヌは馬車の窓から外を見て、奥歯を強く噛んだ。四人いた護衛のうち三人が地面に倒れ、残る一人もまだ抵抗している。御者と見張りは刺されたらしく、血が見えた。
まずい。まずい、まずい。
――緒方真理子、呼吸を整えなさい。取り乱すんじゃないわよ。
セレスティーヌは深く息を吸い、ロザリーに囁いた。
「ロザリー、聞いて」
「お嬢様、お嬢様……」
「私は彼らと行くわ。あなたはここに残って」
「お嬢様、なりません、私も――」
「ロザリー、私の言うことを聞いて」
セレスティーヌの目は真剣だった。
「あなたが生きてお父様に伝えてくれなければ、誰も私が誰に連れて行かれたか分からないの。お願い」
「……お嬢様……」
「行きます」
セレスティーヌは扉から外に出た。
*
四人の男が彼女を囲んだ。
「お嬢様、ご賢明なご判断、感謝いたす」
「……どこへ参るの」
「ヴェルニエ侯爵様のお屋敷へは参らぬ。ご安心を」
「では、どこへ」
「お話し申し上げる場所まで」
誘拐そのものが目的ではない。それは分かる。ただの脅しか、それとも――。四十年の医師経験が、頭の中で最悪の可能性を並べていく。どれも、いい話ではなかった。
セレスティーヌは無言で男たちに連れられた。
目立たない黒塗りの別の馬車に押し込まれ、四人の男も乗り込む。馬車が走り始めた。雨音、馬の蹄、石畳を踏む音。
セレスティーヌは両手を膝の上で組み合わせ、向かいに座る頭目らしき男に声をかけた。
「一つお聞きしてよろしくて?」
「何なりと」
「私を傷つけるご予定ですか」
「……」
「殺すご予定なら、こんな馬車で移動なさらないでしょう。つまり私を生かしたまま、何かをなさるおつもりね」
「お嬢様、随分肝が据わっていらっしゃる」
「ふふ、四十年――いえ、十七年生きてきましたの」
セレスティーヌは軽く微笑んだ。
演技しなさい、緒方真理子。震えは、内側だけに閉じ込める。医療現場で鍛えた顔よ、貸しなさい。
「お嬢様、当方の目的はお嬢様のお身体それ自体ではござらん」
「では、何ですの」
「お嬢様の、社交界での立ち位置でござる」
「……と、申しますと」
「社交界に出られぬ令嬢に、医療事業は続けられますまい」
「……」
「お顔には、傷ひとつつけぬ。ただ――令嬢としての証を、一つ頂戴する」
それは――髪だ。髪を切られる。
セレスティーヌは扇を強く握った。以前のティナだった頃から変わらぬ、長く艶やかな金色の髪。シャティヨン家の誇りのひとつ。
髪を、切られる。
喉の奥が、焼けるように熱くなった。剣を突きつけられたときより、今の方がずっと怖い。物心つく前から、乳母に、侍女に、母に、この髪を褒められて育った。長く艶やかであることが、シャティヨン家の娘である証だと教えられてきた。それを、見ず知らずの男の手で、道具のように切り落とされる。屈辱だった。惨めだった。膝の裏が冷えて、立っていることさえ心もとない。
セレスティーヌは、わずかに笑った。
「お嬢様?」
「いえ、何でもありませんわ」
喉の奥に苦いものが込み上げてくる。泣いてなるものか。ここで涙を見せれば、負けだ。奥歯を強く噛みしめて、震えを押し殺す。
緒方真理子、四十歳の私は、二十代の頃ショートカットだった。出産前後の患者を診る手に、長い髪は邪魔だった。ばっさり切っていた。
――つまり、これは罰ではない。
緒方真理子のショートカットを、十七歳のシャティヨン伯爵令嬢の姿で、ようやく再現できる。彼らは無償で、その機会をくれるのだ。
「お嬢様、何がご可笑しい?」
「いえいえ、ご気になさらず」
セレスティーヌは扇の影で軽く笑った。
来なさい。私の髪を切ってきなさい、ヴェルニエ侯爵。私は震えはしない。泣きはしない。社交界から消えはしない。もっと強くなって戻ってくる。必ず。
*
馬車が止まった。王都北のはずれ、廃工場らしき場所だった。
「お降りください、お嬢様」
セレスティーヌは扇を閉じ、馬車を降りた。雨脚が強くなっている。冷たい雨が、彼女の肩を濡らした。
廃工場の中、灯りはろうそく二本のみ。床には長いテーブルがあり、その上に大きな裁断鋏が置かれていた。
「お嬢様、こちらへ」
セレスティーヌは誘導されるまま、テーブルの前に立った。頭目の男が、彼女の背後に立つ。
「お嬢様、髪をここに下ろしていただきたい」
セレスティーヌはゆっくりと、自分の長い金色の髪を両手ですくい、テーブルの上に流した。長い、長い十七年分の金色。シャティヨン家の誇りであり、かつての自分が最も自慢にしていたものだった。
十七年の私、長い間ありがとう。ここから私は、別の私に戻る。別の私で、闘う。ありがとう、ティナの髪。ありがとう。
鋏が入った。動くたびに、ざくり、ざくりと乾いた音が響く。長い金髪が、テーブルの上に束になって滑り落ちていった。
セレスティーヌは目を閉じ、その音を聞いていた。
はい。もう、あの頃のティナはいない。ここにいるのは緒方真理子、産婦人科医、医長、四十歳。十七歳のこの身体に宿った二つの魂、その覚醒の儀式は、いま最終段階を迎えている。
鋏の音が止んだ。頭目の男が、しばらく彼女を見た。
「お嬢様」
「ええ」
「一切お泣きにならぬのは、何ゆえ」
「ふふ、ご想像にお任せいたしますわ」
セレスティーヌは目を開けた。
ヴェルニエ侯爵、ありがとう。あなたは私を社交界から消そうとなさったわね。消えませんわ、私。もっと目立つように戻りますわ。必ず。
*
廃工場の扉が、激しく叩き開かれた。
「セレスティーヌ!」
声が響いた。セレスティーヌは、思わず息を止めた。
その声は――
ヴィクトール様?




