表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約解消されたオバカ令嬢、前世を思い出す  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/63

第十二話 報復、夜の路上

 その夜は朝から雨が降っていた。セレスティーヌはベル・サンテの建設現場で、夜遅くまで職人たちと図面を詰めていた。


「お嬢様、そろそろお時間でございます」


 ロザリーが外套を差し出す。


「ええ、帰りましょう」


 馬車に乗り込む。護衛は四人。御者と見張りを入れて六人。いつもは、それで十分だった。


 *


 馬車が走り出す。夜の王都に小雨。石畳が、黒く濡れて光っていた。


「ロザリー、明日マチルダさんに会いに行きたいの」


「マチルダ、と仰いますと」


「平民街の若い理髪屋の孫娘よ。先日の難産でお母様を亡くしたと聞いたわ」


「お嬢様、平民街でございますよ」


「ええ、だから護衛はいつもより多めにお願いね」


 ロザリーは頷き、手帳に書き留めた。


 そのとき、馬車が急に止まった。


「……?」


 セレスティーヌが窓の外を見ると、いつもの馬車道ではなかった。王都北の、薄暗い路地。


「御者、なぜここで止まる」


 声を上げても、返事はない。代わりに、扉が外から開かれた。


 *


 雨音の中に、四人。黒いフードを被り、腰に剣。顔は布で覆われている。


「お嬢様、シャティヨン家の」


 低い声がした。


「ご一緒いただこうか」


 セレスティーヌの指先が、スカートの布地を強く掴んだ。喉の奥が、冷たくなる。恐怖だ。


 手が、震えていた。握りしめたスカートの布越しに、指先の震えが止まらない。息を吸っても、肺の半分までしか入ってこない気がする。フードの男たちが一歩近づくたび、視界の端が黒く狭まっていくのが分かった。声を出そうとしたのに、喉が張りついたように動かない。四十年の医師としての経験があっても、体は正直に竦むのだと、セレスティーヌはこのとき初めて思い知った。


 来た。ついに来た。ヴェルニエ侯爵派の刺客だ。護衛は――


「お嬢様!」


 ロザリーが悲鳴を上げた。


 セレスティーヌは馬車の窓から外を見て、奥歯を強く噛んだ。四人いた護衛のうち三人が地面に倒れ、残る一人もまだ抵抗している。御者と見張りは刺されたらしく、血が見えた。


 まずい。まずい、まずい。


 ――緒方真理子、呼吸を整えなさい。取り乱すんじゃないわよ。


 セレスティーヌは深く息を吸い、ロザリーに囁いた。


「ロザリー、聞いて」


「お嬢様、お嬢様……」


「私は彼らと行くわ。あなたはここに残って」


「お嬢様、なりません、私も――」


「ロザリー、私の言うことを聞いて」


 セレスティーヌの目は真剣だった。


「あなたが生きてお父様に伝えてくれなければ、誰も私が誰に連れて行かれたか分からないの。お願い」


「……お嬢様……」


「行きます」


 セレスティーヌは扉から外に出た。


 *


 四人の男が彼女を囲んだ。


「お嬢様、ご賢明なご判断、感謝いたす」


「……どこへ参るの」


「ヴェルニエ侯爵様のお屋敷へは参らぬ。ご安心を」


「では、どこへ」


「お話し申し上げる場所まで」


 誘拐そのものが目的ではない。それは分かる。ただの脅しか、それとも――。四十年の医師経験が、頭の中で最悪の可能性を並べていく。どれも、いい話ではなかった。


 セレスティーヌは無言で男たちに連れられた。


 目立たない黒塗りの別の馬車に押し込まれ、四人の男も乗り込む。馬車が走り始めた。雨音、馬の蹄、石畳を踏む音。


 セレスティーヌは両手を膝の上で組み合わせ、向かいに座る頭目らしき男に声をかけた。


「一つお聞きしてよろしくて?」


「何なりと」


「私を傷つけるご予定ですか」


「……」


「殺すご予定なら、こんな馬車で移動なさらないでしょう。つまり私を生かしたまま、何かをなさるおつもりね」


「お嬢様、随分肝が据わっていらっしゃる」


「ふふ、四十年――いえ、十七年生きてきましたの」


 セレスティーヌは軽く微笑んだ。


 演技しなさい、緒方真理子。震えは、内側だけに閉じ込める。医療現場で鍛えた顔よ、貸しなさい。


「お嬢様、当方の目的はお嬢様のお身体それ自体ではござらん」


「では、何ですの」


「お嬢様の、社交界での立ち位置でござる」


「……と、申しますと」


「社交界に出られぬ令嬢に、医療事業は続けられますまい」


「……」


「お顔には、傷ひとつつけぬ。ただ――令嬢としての証を、一つ頂戴する」


 それは――髪だ。髪を切られる。


 セレスティーヌは扇を強く握った。以前のティナだった頃から変わらぬ、長く艶やかな金色の髪。シャティヨン家の誇りのひとつ。


 髪を、切られる。


 喉の奥が、焼けるように熱くなった。剣を突きつけられたときより、今の方がずっと怖い。物心つく前から、乳母に、侍女に、母に、この髪を褒められて育った。長く艶やかであることが、シャティヨン家の娘である証だと教えられてきた。それを、見ず知らずの男の手で、道具のように切り落とされる。屈辱だった。惨めだった。膝の裏が冷えて、立っていることさえ心もとない。


 セレスティーヌは、わずかに笑った。


「お嬢様?」


「いえ、何でもありませんわ」


 喉の奥に苦いものが込み上げてくる。泣いてなるものか。ここで涙を見せれば、負けだ。奥歯を強く噛みしめて、震えを押し殺す。


 緒方真理子、四十歳の私は、二十代の頃ショートカットだった。出産前後の患者を診る手に、長い髪は邪魔だった。ばっさり切っていた。


 ――つまり、これは罰ではない。


 緒方真理子のショートカットを、十七歳のシャティヨン伯爵令嬢の姿で、ようやく再現できる。彼らは無償で、その機会をくれるのだ。


「お嬢様、何がご可笑しい?」


「いえいえ、ご気になさらず」


 セレスティーヌは扇の影で軽く笑った。


 来なさい。私の髪を切ってきなさい、ヴェルニエ侯爵。私は震えはしない。泣きはしない。社交界から消えはしない。もっと強くなって戻ってくる。必ず。


 *


 馬車が止まった。王都北のはずれ、廃工場らしき場所だった。


「お降りください、お嬢様」


 セレスティーヌは扇を閉じ、馬車を降りた。雨脚が強くなっている。冷たい雨が、彼女の肩を濡らした。


 廃工場の中、灯りはろうそく二本のみ。床には長いテーブルがあり、その上に大きな裁断鋏が置かれていた。


「お嬢様、こちらへ」


 セレスティーヌは誘導されるまま、テーブルの前に立った。頭目の男が、彼女の背後に立つ。


「お嬢様、髪をここに下ろしていただきたい」


 セレスティーヌはゆっくりと、自分の長い金色の髪を両手ですくい、テーブルの上に流した。長い、長い十七年分の金色。シャティヨン家の誇りであり、かつての自分が最も自慢にしていたものだった。


 十七年の私、長い間ありがとう。ここから私は、別の私に戻る。別の私で、闘う。ありがとう、ティナの髪。ありがとう。


 鋏が入った。動くたびに、ざくり、ざくりと乾いた音が響く。長い金髪が、テーブルの上に束になって滑り落ちていった。


 セレスティーヌは目を閉じ、その音を聞いていた。


 はい。もう、あの頃のティナはいない。ここにいるのは緒方真理子、産婦人科医、医長、四十歳。十七歳のこの身体に宿った二つの魂、その覚醒の儀式は、いま最終段階を迎えている。


 鋏の音が止んだ。頭目の男が、しばらく彼女を見た。


「お嬢様」


「ええ」


「一切お泣きにならぬのは、何ゆえ」


「ふふ、ご想像にお任せいたしますわ」


 セレスティーヌは目を開けた。


 ヴェルニエ侯爵、ありがとう。あなたは私を社交界から消そうとなさったわね。消えませんわ、私。もっと目立つように戻りますわ。必ず。


 *


 廃工場の扉が、激しく叩き開かれた。


「セレスティーヌ!」


 声が響いた。セレスティーヌは、思わず息を止めた。


 その声は――


 ヴィクトール様?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ