第十三話 短くなって、目覚める
深夜、シャティヨン伯爵邸の車寄せに、馬車が転がり込むように止まった。
「お嬢様をお運びして! 急いで!」
ロザリーの声が屋敷中に響いた。使用人たちが灯りを手に、次々と飛び出してくる。
伯爵は書斎から、裸足のまま駆け出してきた。
「ティナ! ティナはどこだ!」
セレスティーヌは自分の足で馬車を降りたが、玄関に入った途端、膝から力が抜けた。ロザリーに支えられ、辛うじて倒れずに済む。
「お父様……」
声が掠れて、うまく出てこない。伯爵が娘の顔を両手で挟み、切られた髪の切り口に触れた瞬間、声にならない呻きを漏らした。
「誰がこんな……誰が、お前に……」
その手が震えているのを、セレスティーヌは見た。娘を失うところだったと悟った、父の手だった。
自室に運ばれ、寝台に横たえられる。ロザリーは着替えを手伝いながら、声を殺して泣いていた。肩だけが、上下に揺れている。
大丈夫よ、と言おうとして、喉が詰まった。
緒方真理子、四十歳、産婦人科医、医長。何百人もの修羅場をくぐり抜けてきたはずの自制心が、初めて言うことを聞かなかった。目の縁から、熱いものがひとすじ落ちた。声は上げない。ただ枕に顔を伏せて、肩だけが震え続けた。
誰にも見せない、数分間だった。
やがて涙は涸れ、気づけば、眠っていた。
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朝。シャティヨン伯爵邸の自室で、セレスティーヌは目を開けた。
「お嬢様!」
ロザリーがベッドの脇で、両手を握りしめて座っていた。目が真っ赤に腫れている。
「ロザリー、泣いたの?」
「お嬢様、お嬢様……お嬢様……」
「もう大丈夫よ、ロザリー。私、元気よ」
起き上がろうとして、頭がやけに軽いことに気づく。
「……あら」
両手で髪に触れた。肩で揃った金色の毛先。
そうだった。切られたんだった、これ。
思わず笑いが漏れる。
「お嬢様、あの、こちらに姿見を——」
「いいわ、ロザリー。自分で見るわ」
ベッドを降り、鏡台へ向かう。鏡の中から、肩で不揃いに揃った金髪の少女がこちらを見ていた。頬はやや青白く、目の下にうっすら隈がある。
——顔色は良好、脱水の兆候なし、経過観察でいい。
医者の目で、自分を診断してしまう。
なにを診断しているのよ、自分の顔を。
噴き出しそうになって、堪えた。瞳の色だけは、いつもより青く冴えていた。
「……ふっ」
小さく笑う。
「ふふっ」
「……」
「ふふふっ」
「お嬢様……お嬢様?」
「ロザリー、見て」
振り返り、笑いながら鏡を指す。
「……お嬢様」
「悪くないでしょう」
「お嬢様、髪が、髪が、こんなに無残に……」
「ロザリー、よく聞いて」
侍女の前にしゃがみ、その両手を握った。
「これ、似合うと思うの」
「……お嬢様」
「ねえ、似合わない?」
「に、似合うか似合わないかと申しましたら、似合います、けれど、お嬢様」
「ふっ、ありがとう」
頷く。
「では、揃え直しましょう。せっかく切られたんだから、もっときれいに揃えましょう」
「お嬢様、ほ、本気でおっしゃっているのですか」
「本気よ」
立ち上がり、机の引き出しから裁縫鋏を取り出す。
「お嬢様、私が致します」
「あなた、揃え方、ご存知?」
「い、いえ、私、お嬢様のお髪を切ったことは、ございませんが——」
「では、私と二人で、慎重によ」
自分の髪を両手で整えながら、ロザリーに指示を出す。
「ここの髪を左の指でつまんで、まっすぐに引いて」
「は、はい」
「鋏をまっすぐに入れて。斜めに切らないで、まっすぐに」
「は、はい」
「頭の丸みに沿って、少しずつ。狭く短く切るのよ、慎重に」
まるで手術の助手に指図しているような口調になっている自分に気づいて、おかしくなる。
二十年、自分で切ってきた頭だ。目を瞑っていても分かる。
まさか十七歳の令嬢の頭で、この技術を再現する日が来るとは。
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一時間後。
鏡の中のセレスティーヌは、きれいなボブヘアになっていた。肩で揃った、軽やかな金色の髪。
「……お嬢様……」
ロザリーの声が震えた。
「うん?」
「お、おきれいで、ございます」
「……本当?」
「本当に、おきれいでございます……」
ロザリーは何度も頷き、それ以上言葉にならなかった。セレスティーヌは彼女を軽く抱きしめた。
「ロザリー、ありがとう。あなた、上手だわ」
「お嬢様……」
「これからは月に一度、揃えてもらうわ。あなたが私の専属の髪結い師よ」
「お嬢様……、私で、よろしいのでしょうか……」
「あなたがいいのよ」
「は、はい……、はいぃ……」
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その日の午後、シャティヨン伯爵が執務室から駆け込んできた。
「ティナ、お前、お前、無事——」
娘の新しい髪型を見て、伯爵が固まる。
「お父様、お久しぶりでございます」
セレスティーヌは微笑んで礼をした。
「……ティナ、お前、髪……」
「ええ、切られましたの。それで揃え直しました」
「……」
「お父様、もしお父様が私の新しい姿にご不満でいらっしゃるなら、私、お父様のお目に付かない場所で暮らします」
「ティナ」
「はい」
「お前、それを本気で言っているのか」
伯爵がわずかに笑った。
「あ、お父様……?」
「お前、いつの間にこんなに強い女になった」
「……お父様」
「お父さんは、自慢の娘だ」
伯爵が娘を抱きしめる。
「お父様、髪がこんなに短いのに……」
「短くて結構だ。お前が生きていれば、髪はまた伸びる」
「お父様……」
「だが、あのヴェルニエ侯爵、ただでは置かぬ。父が王宮に訴え出る」
「お父様、それはお父様ご自身のご判断にお任せしますが」
深く頭を下げる。
「私は、私の戦い方で彼らを打ち負かしてまいります」
「ティナ……」
「私を社交界から消そうとした、その目論見を——私はむしろ、社交界に新しい流行を生む起点にします」
伯爵はしばらく娘を見つめた。
「ティナ」
「はい」
「お前を、もう止めない」
「はい」
「お前が戦うなら、お父さんはその最大の後援者だ」
「ありがとうございます、お父様」
伯爵は頷いて、執務室に戻っていった。
セレスティーヌは再び鏡の前に立った。
「さあて」
呟く。
「緒方真理子のショートカット、二十年ぶり復活ね」
首を傾けると、短い髪が頬をかすめた。
軽い。強い。首筋が空いて、邪魔なものが何もない。分娩室でも、戦場でも、これなら走れる。
ふふっ、と笑いが漏れる。
「来なさい、ヴェルニエ侯爵」
来なさい、保守派。
戦って、勝つ。
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その夜、サン・ジュスト家から見舞いの書状が届いた。ラファエルの手蹟だった。
> セレスティーヌ嬢
>
> ご無事とのお知らせ、心より安堵いたしました。
>
> 私の護衛が間に合わなかったこと、心よりお詫び申し上げます。
>
> 髪をお切りになったと伺いました。心痛、お察し申し上げます。
>
> 私、できる限りすぐお見舞いに参上いたしたく、ご許可お願い申し上げます。
>
> ラファエル・ド・サン・ジュスト
便箋を軽く撫で、そのまま返事を書く。
> ラファエル様
>
> ご心配ありがとうございます。
>
> ご護衛の件、ラファエル様のせいではございません。
>
> 髪、心痛など、いえ、ございません。むしろ私、生まれ変わった気分でおりますの。
> 是非お見舞いにお越しくださいませ。私の新しい姿を、ご覧いただきたく。
>
> セレスティーヌ・ド・シャティヨン
封蝋を押す。
護衛たちは、命に別状はないという知らせが、昼のうちに届いていた。三人は重傷だが、峠は越えたとのこと。御者と見張りの傷も、命に関わるものではなかったという。
その夜、もう一通、書状が届いた。モンテーニュ家の紋章。差出人はヴィクトール・ド・モンテーニュ。
胸の奥が、とくん、と小さく音を立てた。
便箋を開く。たった一行。
> 貴方の新しい髪型は、貴方によく似合っている。
>
> ヴィクトール
セレスティーヌはしばらく、その一行を見つめた。それから便箋を胸に抱く。
「……馬鹿」
呟く。
「これは、ずるいわ、ヴィクトール様」
頬が、ぼっと紅潮した。便箋を抱きしめたまま、ベッドの上でごろんと転がる。
緒方真理子、四十歳、産婦人科医、医長。しっかりしなさい。
——好み。彼の文字、好みなのよ。
困った。本当に、困ったわ。
便箋を胸の上に、ぱたりと置く。天井を見上げた。
染みの形が、やけに、幸せそうに見えた。




