愛を込めた花々
人魚は、女系の一族だった。
ぷかりぷかりと、海の中たゆたう。
当主の屋敷が沈んだ後、彼女は自身の本来の居場所である海に戻ってきていた。
長い尾ひれを揺らし、なんとはなしに上を見る。そんなことをしていると、仲間の人魚が呆れたように彼女を見た。
「どうしたのよ一体。わたしたちはみんなで力を合わせて、あなたを閉じ込めた人間の村を沈めたっていうのに」
女の声は、自身らが正しいと、そう信じて疑わない声であった。女は純粋に、海を愛していたから。
「あなただって、嫌だったのでしょう? 辛かったでしょう? 苦しかったでしょうっ? なのにどうしてよ、ねえ!」
女が悲痛な声を上げる。
それが癪に障り、彼女はうろんげな眼差しを向けた。その視線はひどく鋭い。
それに怯えた女は、怒りの矛先を向けられる前に、とそそくさとどこかへ行ってしまった。
周りに誰もいなくなったことを確認し、彼女は再度ぷかりぷかりと揺れる。
「……誰が、助けてくれなんて言ったのよ」
彼女は体を折り曲げ、忌々しげにつぶやいた。
人魚は、女系の一族だ。
生物としてはひどく欠陥しているが、海神が男神ゆえにそのように生まれたのだという。
しかしそれでは繁殖できない。
ゆえに彼女たちはそれ相応歳になれば陸へ上がり、人間の男から子種を得るのだ。
人間の血を飲めば、人魚は人としての足を得る。陸を自由に動けさえすれば、後は簡単だ。その魔性の声さえあれば、どんな男でも簡単に虜にできる。
人魚たちはそのようにして、一族の血を繋いできた。
その中でも彼女は、とても異質だった。
女ばかりの世界に飽き、陸に興味を持っていたのだ。そして、自身とまるで違う男という生き物に、関心を抱いていた。
陸へ上がれる年齢になった瞬間、彼女がどれほど喜んだことか。
そんなこと、仲間には口が裂けても言えまい。皆とても嫌がっていたからだ。されど繁殖のためとなれば、仕方あるまい。
そんな仲間たちにまぎれて陸へ上がることになった彼女は、わざと網にかかり陸へあがったのだ。
そこで出会ったのが、ひとりの男だった。そう、当主である。
彼は彼女を見た瞬間、ひどく嬉しそうにその表情を緩めた。
彼女の目から見ても、とても優れた見目をしていた男。そんな彼が一体どうして彼女に惚れたのか、いまだに分からない。
されど彼女は、ひとりの男からの激しい愛を浴びてとても幸せだった。
そう。海に戻ることなど、どうでもよくなるくらいには。
ただただ、与えられる感情があたたかく優しく。彼女の空っぽの心に落ちてゆく。
彼女にとって当主からの愛は、それほどまでに心地良いものだったのだ。
されど、彼は当主。仕事が忙しくなれば、彼女にばかり構っていられなくなる。朝、昼、夜の逢瀬が朝、夜に減らされたのは、出会ってから一年と少しが過ぎた辺りでだ。
その唐突な変化に耐え切れず、彼女は寂しさのあまり歌を歌ってしまった。
聞いた者を呼び寄せる、甘やかな歌を。
それに呼び寄せられ現れたのは、庭師だった。
彼は当主とはまた違う形で、彼女を愛してくれた。見たことのないものをくれ、彼女を楽しませてくれたのだ。
それがまた楽しくて、嬉しくて。彼女は何度も、庭師を呼んでしまった。
それが、当主の逆鱗に触れることになるとも知らず。
そして、すべてが終わってしまったのだ。
仲間たちがこぞって、余計なことをしたせいで。
彼女は一度くるりと回ると、ため息をこぼした。そして自身の住処に戻るために、長い尾ひれを揺らす。
水の中を行くたびに、純白の髪がなびいた。
彼女の住処は、深海の岩場にある。
ひとり分がようやく入れるその間を縫えば、その奥に磯巾着の寝台があった。
そこに身を横たえ、彼女は自らの腹を抱える。少しばかり膨らんだ腹が見えた。
「……ふ、ふふ」
片手で優しくさすり、彼女は思わず笑みを浮かべた。
――人魚は、人間の男から子種をもらい繁殖する。
そう。彼女の腹には既に、子が宿っていた。
愛おしい男たちの子種を受け宿った、愛おしい子が。
そのことがたまらなく嬉しく、思わず笑みが漏れる。
どちらの子どもが宿っていても、彼女は嬉しいのだ。
だってどちらも、本当の意味で愛していたのだから。
人魚に、人間の価値観はない。ゆえに二人を愛することに、ためらいなどあるはずもなかった。
彼女は、男たちの愛に溺れていた。
そしてそろそろであろう。
そう思い、彼女は自身の住処に戻ってきた。
磯巾着の群れに顔を埋め、彼女は疼く腹を抑える。とても甘美な痛みだった。そう。はじめて体を重ねたときのような、そんな満ち足りた痛み。
「ん……っ」
思わず、鼻から抜けるような声が漏れてしまった。しかしそれでも、彼女は歯を食いしばり腹に力を込める。
ぽこぽこと、いくつもの気泡が口から漏れていった。
岩場から、人魚の甘やかな声が漏れ聞こえる。
――彼女が卵を産み終えたのは、それから半刻ほど経ってからであった。
息も絶え絶えになりながら、しかし彼女の唇は喜びで歪んでいる。
そして産み落とした卵を抱きかかえ、そっと頬ずりした。少しばかり柔らかい、弾力のある感触がある。
ああ、これが、あの人たちの子どもなのね。
生まれ落ちた卵は、十日後に孵化する。
人魚はその間岩場の住処にこもり、それに力を注ぎ続けるのだ。
食料である真珠をひとつ口に運び、歯の奥で噛み潰す。
そして、卵に口づけを落とした。
「ふふふ……早く大きくなってね?」
***
十日間。
十日間卵に力を込め続けるのは、なかなかの労力であった。
他の女たちが嫌がり、時には根を上げ、卵を捨ててしまう理由がよく分かる。確かにこれは、きつい。
しかしそのつらさも、愛おしい人との間にできた子どもだということですべて掻き消されていた。
「みんなも、愛する人を見つけて子を成せば良いのにね……」
そのほうがずっと、生産的だ。好きでもない男の子種をもらって、何が楽しいのか。
そう思い、彼女は肩で息をしながら笑う。胸の奥から、よく分からない感情がにじみ出た。それが愉悦だということを、彼女は知らない。
ぼこぼこと、口から泡が漏れ出た。
残っている最後の真珠を噛み潰し、彼女は最後の力を振り絞る。
――ドクン。
卵が呼応するように揺れたのは、そんなときだった。
驚き目を見開くと、卵の外殻が割れ始めているのが伺えた。それは孵化の瞬間だ。
喜びのあまり満面の笑みを浮かべ、彼女は部屋の中でくるりと回る。
卵の外殻はみるみるうちに割れ、なんとかして這い出そうともがいているのが見て取れた。
「頑張って……!」
拳を握り締め、彼女は声をあげる。
瞬間、卵が割れた――
そこから現れた人魚を見て、彼女は目を見開く。
その顔は、本当に驚いていて。
金色の瞳を丸くする。
しかし直ぐに破顔すると、彼女は両手を広げ抱き締めた。
「おかえりなさい」
その日、人魚の世界ではじめて、男の人魚が生まれた。
しかも、二人。
その異質とも言える快挙に、他の女たちはこぞって彼女から事情を聞き出した。
しかし彼女はつっけんどんとした態度のまま、
「あなたたちに、分かるわけないじゃない」
と言ったという。
まだ小さいが、その顔立ちは彼女の愛した男たちの面影を宿していた――
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