112 自分はよっぽどテンパっているらしい…………。
「……へっ? あれっ、……えっと、ただいま戻りました?」
一気に緊張が高まった室内で、師団長の右手が上がる。
香が振り返れば、扉脇に居ただろう護衛が抜剣し切先を向けていたが、師団長の指示で退室していく。室内には香と師団長の二人が残った。
「香くん、……なぜここにいるのか聞いても?」
いぶかしげな師団長の言葉に香はあわてて言いつのった。
「えっと、あの、その……ですね、あ~、帰ってきました!!」
何とも言えない返しに、何とも言えない空気が流れる。
うわっちゃ~っと、頭をかかえたくなる香に、一時の驚きから復帰した師団長の落ち着いた声が聞こえた。
「よく帰ってきた。変りはないかな?」
「はいっ、すこぶる大丈夫です!!」
思わず直立した香は、優しげな笑みを浮かべた師団長の顔を見て一気に脱力した。
「ではこれまでの経緯を教えてもらおうか」
しかし、穏やかに告げられたその言葉に、香の顔は再度の緊張にこわばった。
師団長に促され、ソファで向かい合い、記憶していることを順に話していく。王都でのパレード後の話には眉を寄せ、記憶を取り戻した湖でのギルベルとのやり取りでは忍び笑いが聞き取れた。
頭をかしげながらも、迷惑でなければこれから砦にいてもいいだろうかと、香は締めくくった。
「私にはそのつもりはないが、中央から要請があった場合、香くんを保護できない可能性がある。それについては?」
「えっと~、ですね、ボクは〝大地の精霊”であるシェスの知識をもらってます。だから、大抵の場所からの脱出もできるし、多くのことに対処できる術を持ってます。だから、王家が何か言ってきても、何とかなると思います」
此処に居るために多少のはったりは必要だとばかりに、香は大口をたたく。実際には熟練の術師相手では不利だろう。香には副師団長であるボートネスどころかユーリックにも勝てる確信はない。しかしそれを言ったら師団長から滞在許可が下りない可能性がある。それは避けたいとばかりに、当初は黙っていようと思ったシェスの知識のことを暴露してしまった。
…………自分は、よっぽどテンパっているらしい。
香は内心へこみながらも師団長の返答を待つ。
師団長は説明に顔を強張らせたのちニヤリと笑った。
「よかろう、自分で最低限の対処ができるならば歓迎する。今、君を野に放っても苦労ののち〝精霊”の怒りを買う可能性のほうが高い。ならば目の届く場所にいてもらったほうが、こちらとしても安心だ。……改めて、これからもよろしく頼む」
「はいっ!!」
さっきの黒い笑みは見なかったことにした香は、飛び上がって返答した。
その後はこれからの対処について相談し、以前と同じギルベルの隣の部屋に落ち着いた。
この部屋を空にしたのは香の感覚ではほんの少しの間だが、実際には半年以上が過ぎていた。
だが、記憶を封印していたころのことはすべて忘れたわけじゃなく、おぼろげに覚えている。だから時間の経過もわかるのだが、この世界で初めて落ち着いた場所に立って、香は何とも言えない感情がこみ上げてきた。いつの間にか濡れたほほに戸惑いながらも、香の顔はすこしづつと緩んでいく。
ゆっくりと見回す自分のエリアは記憶と何ら変わったところはなく、それが余計、香に時間の経過を感じさせない。つい数日前までいた部屋に帰ってきたような感覚は香を戸惑わせる。だが、じんわりと浸み込んでくる温かな気持ちは、この現状を保ってくれたであろう人たちのおかげなのだろう。
香が留守の間、風を通しほこりを払い、部屋を整えてくれていた人がいたからだろう。そう思えば、自分がいない間も忘れられていなかった事が嬉しくて、早く戻らなかったことが申し訳なくって……。
香は濡れたほほを拭いながらゆっくりとイスに腰かけ、部屋を見渡した後パタリと机に伏せる。
「ただいま……」
つぶやいて目を閉じ、ほんの少し夢の世界へと踏み入れた。
~・~・~
フォルハは、日課となってしまった空気の入れ替えのため、開けた窓を閉めようとギルベル達の部屋へ急いでいた。見習いからの伝言で師団長が呼んでいることは知っている。しかし、師団長室へ向かう前に窓を閉めるくらいはいいだろうと足を速めた。
結果、自分の幸運を祝うべきか、不運を呪うべきか迷ってしまった。
ギルベルの部屋の窓を閉め通路に出たフォルハは、隣の扉の隙間から漏れ出る光に目を奪われた。ギルベルの補佐を務める二人の部屋から、光が漏れ出ている。
夕日は自分の背から浴びているから、前の扉から漏れ出ることはない。なのにあふれる光は、フォルハにとって忘れられない記憶と重なっていた。
精霊の光―――。
プレスの術を葬り去った精霊の光。日の光とは全く違う、何とも形容しがたい複雑な光が今、ユーリック・アルバと香の部屋から溢れている。
少し息をのみ気合を入れなおしたフォルハは、ゆっくりと扉を開けた。
覗き込んだ部屋は柔らかな光であふれ、その中心に机に伏した香の姿を見つけた。
ほのかな笑みを浮かべた穏やかな寝顔には、思わずほほが緩む。いくらかほっそりとした感じはあるが、血色もよく体調もよさそうに見えた。そのことに安堵しながらも、香が此処に居ることに頭をかしげる。
香を迎えに行ったはずのギルベルは、たぶん香と会ったかどうかというくらいのはずで……。順調にいったとしても今日この時、香が此処に居ることは時間的に無理がある。
しかし、目の前で穏やかな眠りに笑みを浮かべる香は、フォルハにはまぼろしにも、ましてや偽物にも見えなかった。
フォルハは混乱の極みに達した。
目に見える光景は幻なのか現実なのか……。
現実であれば、香は本物か偽物か……。
本物ならば時間の矛盾は?!
「…………香、くん?」
恐る恐る声をかける。
……身じろぎしない香にそっと手を伸ばし、ゆっくりと肩をゆすった。
……。
…………。
…………、……ふるりと震えたまつげが、ゆっくりと持ち上がる。
フォルハは怯えたように一歩下がりながらも、なおかつ目覚めた香の視界に入るような位置に立っていた。そして彼自身は持ち上がっていく瞼から零れるはちみつ色の瞳に目を奪われていた。