転換点〈side/ヴィンセント〉
エルヴェ殿との朝食を終え、我が屋敷へと向かう。
イザベルの毒気を完全に抜くには、やはり数日必要そうだ。傷の具合も油断できない。しかしそれは半分建前で、問題なのは彼の体液の解明だ。解毒方法が分からなければ、彼を娘に同行させるのは危険極まりない。
娘がごねて旅立つと言い出したら、止めるのは難しくなる。今のうちにできる対処は完璧にしておきたい。
ロゼリア=ノクスの街外れ、小高い丘に建つ一軒家。白塗りの煉瓦造りは妻の好み。3階建ての洋館が板についてきたのは最近のことだ。ドラキュラ城には程遠いが、慣れてしまえば快適だ。
「おかえりなさいませぇ~、お父様ぁ」
「うむ、ただいまミューズ」
「あのぉ~、お母様がぁ戻られましたよぉ~」
「そうか」
ゆったりとした二女の口調はいつも私を和ませる。マントをクロークスタンドに掛け、ふとリビングのテーブルに目をやる。置き手紙があった。二女が気づいていない様子を見ると、妻のものに違いない。
『帰ってきたら寝室に来て。待ってるわ♡』
こんなこといつぶりだろうか。朝からお誘いを受けるとは、これは心してかからねばならぬ。こういう時の淫魔リリスは、とにかく終わりがない。屈強な魔族でも音を上げるほどに。私が満足させてやらねばな。
寝室の扉を開ける。てっきり飛びついてくるかと思ったが、ベッドでもじもじと体をくねらせるだけで声も発さない。もう随分と興奮しているのだろう。
「リリス、帰ったぞ」
声に反応してますます身悶えている。
「ね~え、早く来てぇ♡」
布団の中からでも分かる、強烈な色気を帯びた妖艶な声。今日はやけに甘ったくるい。付き合い初めの頃を思い出す。
「まだ風呂に入っていないが……」
「そんなのいいから、来て♡」
焦らすように少しずつ布団をめくる。両手を胸に添え、躰を丸めて恥じらっていた。魅力的な服装も相まって、私を悦ばせる演出を完璧に整えていた。
しかし、演技という雰囲気はなかった。恋人としての原点から夫婦としての現時点まで、すべてを味わい尽くそうとする意思を感じた。
「可愛い下着だ。良く似合っている」
「うふふ♡ こういうの、好き?」
「ああ、好きだ。いや、大好きだ。もっとよく見せてくれ」
「やだ……えっち♡」
舐るように眺め、指で軽くなぞる。触れた部分が震え、漏れた息が耳をくすぐる。その音が私に火をつける。
まるで少女のような恥じらいに、罪悪感が沸き起こる。ちらりと送られる艶めかしい視線が、罪を犯せと煽ってくる。その落差に揺さぶられる。
「あっ、だめ♡」
肩に触れ、耳まで指を走らせた。目をつむって顔を反らす。これは合図だ。首筋と耳を執拗に責める。シーツをぎゅっと握る手が愛らしい。
顎を手繰り寄せ、接吻する。離しては目を合わせ、目を閉じては唇を重ねる。繰り返すほどに彼女の瞳は潤んでいく。
「ごめんなさい、あなた」
「ん? 何を謝る必要がある」
眉間に憂いを寄せ、胸の谷間から何かを取り出した。空の小瓶だった。
「それは、ひょっとして……」
「試さずにはいられなかったの。許して……」
淫魔最高峰と呼び声の高い彼女が、泣き出しそうな目をしていた。空いている方の手で、私の服をくしゃりと掴んだ。
瞳が歪み始めても、視線を真っ直ぐに注いでくる。あらゆる感情を隠そうとせずに、その身の全てで向き合ってくる。
「淫魔なら迷わずそうするだろう。気にすることがどこにある?」
「……どうして怒らないの? こんなの浮気と同じじゃない。昨日のことだってそう。あなた以外の男の言うことを聞いてしまうなんて……」
リリスの頬を伝う雫を、目にした者が他にいるだろうか。音もなく流れる涌き水を、指で掬って頬を撫でた。
「あなた……」
「愛しているリリス。この気持ちは変わらない」
抱き締めて気づく、微かな振動。そこに加わる、大きな拍動。声を殺しているのは、誇りを守ろうとする最後の抵抗なのだろう。
「好き、大好きよ……愛してるわ、あなた。ううん、フィン。今日はそう呼ばせて」
付き合って間もない頃、彼女だけが使った私の呼び名。甘酸っぱい記憶が甦る。
『ヴィンセントってカッコいい響きよね。でも、私は貴方の可愛いところも知ってるんだよ♡』
そう言って彼女が付けた、特別な呼び名だ。
「フィンか、懐かしいな。……今日だけと言わず、好きなときにそう呼んでくれ」
「ほんと? ……ねえフィン、お願いがあるの」
「何だい?」
「私を叱って。そうしないと壊れてしまいそうなの。フィンに上書きしてほしいの。お願い……」
「……分かった」
何を言いたいかは語るべくもなかった。負った傷口に情熱を注ぎ、痛みで塗り替えてでも尊厳を守ろうと言うのだ。ならば遠慮などするわけにはいかない。
「おい、尻軽淫魔。お前誰にケツを振ってきたんだ? よくも帰って来られたものだな!」
「ごめんなさい、フィン。私、だめな女なの」
「どうやらきついお仕置きが必要のようだな。どうしてくれようか」
「ああ……許して。お願い……」
目が訴えていた。手を抜かないでほしいと。
未知の快感に委ねてしまった身を徹底的に痛めつけて。あっけなく侵入を許してしまった心を、徹底的に虐め抜いて、私を助けて――と。
この日、私は鬼となった。




