性癖
ほんの少し強く噛む。すると――。
「あうっ……だ、だめ♡」
ラズが乱れる。崩れ落ちるように体のバランスを失って、僕へと倒れかかる。
「声が出ちゃったね。はい、おしまい」
「そ、そんなぁ……。もっとお~♡」
ラズが僕の服を掴む。とろんとした目がうるうると揺れてこの先を欲しがっている。僕はその望みをおあずけにする。
「案内の途中だったね。さ、行こうか」
「うう……。かしこまりました」
泣き出しそうな表情でしぶしぶ応じてくれた。
廊下の突き当たりに大きな扉が見えた。魔族の絵らしき彫刻が施された、重厚な茶褐色の扉だ。
ラズがノックをすると、ひとりでに扉が開いた。長いテーブルが奥へと続き、いくつもの燭台が並んでいた。
奥から姿を見せたのはヴィンセントさんだった。給仕らしき魔族を数名従えている。
「エルヴェ殿、怪我の具合はどうかな?」
「はい、おかげさまで」
ヴィンセントさんは頷くと、食事の席へと案内してくれた。ラズは小瓶を届けに行くと言い残して退出してしまった。
「人間に合わせた食事の準備が間に合わず、大変申し訳なかった。その分良い食材にてもてなす故、お許しいただきたい」
「そんな、僕のためにご準備いただいて誠に恐縮です。ありがたくご馳走になります」
僕の返答にヴィンセントさんは目を細めた。
席には純金製のカトラリーが並んでいた。置かれていた皿も焼目のきめが細かく、かなり上等な品なのがひと目で分かった。
「妻と娘が大変ご迷惑をおかけした」
「いえいえ迷惑なんて……。熱烈な歓迎をお受けしたと感じております」
一瞬返答に困ったけれど、差し障りなく答えられたと思う。昨日の出来事についてヴィンセントさんはどこまで知っているのだろう。
「まあ、そう畏まらず楽にしてくれ。ウチの娘の未来の旦那様として是非もてなしたい」
何を言われたのかすぐには理解できなくて、躊躇ってしまった。ラズの言っている旦那様とは別の意味なのは分かったけれど――。
サラダとスープをはじめ、フルコースの料理が運ばれてきた。でも、僕はその後何を出されたか正直あまりよく覚えていない。
なぜなら――。
「聞けば、そなたは身寄りがないらしいな。エルヴェ殿さえ良ければ、ウチに婿に来ぬか」
「え?」
「娘はそなたに夢中だ。全てを捧げると申しておる。妻もそなたの替えは利かぬと、いたくご執心だ」
唐突で頭がついていかない。どう返したらいいか見当もつかない。豪華な食事が並んだけれど、味なんてよく分からなくなった。
悪い気はしない。ラズとの日々が保証されるなら間違いなくいい話だと思う。だけどそれは僕が魔族だったら、の話だ。
「人間が魔界に住まうなど奇異なことと思うかもしれない。だが、前例がないわけではないのだ。どうだろう、考えてはくれぬか?」
「えっと……」
(前例がある? 人間がここに住んだことが?)
そんなことより僕を凍りつかせたのは、次に放たれたヴィンセントさんの言葉だった。
「エルヴェ殿、娘を散々可愛がっておいて何の責任も取らんとは……まさか言わんだろう?」
圧を感じた。断れば殺す、そんな雰囲気の。縮み上がる僕にヴィンセントさんは続けた。
「ふたりは互いの性癖の相性が至極抜群であるとのこと。良い話だと思うのだがね」
「失礼ながら、実の父親である貴方様がそのようなことを認めてよろしいのですか?」
「うん? というと?」
「形式的とはいえ、娘さんは奴隷と称して、人間である僕に調教されることを望んでいます。魔族の誇りに関わるのではありませんか?」
何とか言葉を返す。強気に出過ぎたかもしれない。ところが、反応は驚くほど穏やかなものだった。
「娘は立派なサキュバスだ。まだ未熟かもしれんが、妻も一人前と認めている。ゆえに、性癖に意見を差し挟む余地はない。娘が望んだ幸せならば、私は祝福せねばならん」
ひょっとしてヴィンセントさんは娘に甘いタイプなんだろうか。話の内容から察するに、リリスさんの意見が大きい様子だけれど。
そもそもリリスさんがヴィンセントさんに昨日のことを話したと考えるのが自然だ。僕とラズは淫魔四女帝リリスのお墨付きを得た、ということらしい。
「僕は娘さんとずっと一緒に居たいと思っています。ですが、返答にはもう少しお時間をいただけませんか? まだ出会って数日、娘さんのことをもっとよく知りたいんです」
「うむ、確かに性急な話であった。では、結婚を前提に交際をする、ということでよろしいか?」
こんな展開、思いも寄らなかった。戸惑いはしたけれど、答えはするりと出た。
「はい。構いません」




