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ヤンデレ魔族と没落貴族のヤバい生活  作者: 有の よいち
第1部

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31/58

老舗宿

 国境に近い宿場町、サドラ。北部、中心街、港町と分かれるトリノメーアの中で、最も規模が小さい北部に位置している。


 岩山から見えた大陸北端の海岸線は、すぐ隣町のノルフィンのもの。サドラは特産と呼べるものがない、ひっそりとした田舎町。身を隠すには都合がいい。


 ひとまず今夜の宿探しへ。


 人間の姿に変化したラズは、数日前よりも大人びて見えた。気のせいではなく、胸が少し大きくなっている。原因は不明だけれど。


「あのお宿はどうですか?」


 ラズが指差したのは見るからに古い宿屋だった。木枠に煉瓦を嵌め込んだような外観で、2階の外壁に取り付けられたランプが軒先を褐色に照らしていた。


 ガラス戸の外側には木製の扉も付いていて、二重窓になっている。冬は厳しい冷え込みになるサドラの町。古くからの生活の知恵が活きている証拠だ。


「もっと新しい造りの宿でもいいんだよ? 手持ちは十分にあるから」


 実は、出立する直前にボルガからお金を渡されていた。それはストラディバリ家が非常時のために、彼に託していたものだった。手持ちと合わせれば、しばらく衣食住の心配はないほど。


「私はこういった雰囲気の方が落ち着くんです。最近の建家はちょっと苦手で……」


 地域によって流行りに多少の差はあるけれど、最近は白や青など彩色が強めの外観が好まれている。煉瓦や土色の家屋は希少種の部類だ。


「ラズが気に入ったなら、ここにしよう」

「ありがとうございます」


 声に柔らかさが戻っていた。ずっと気を張っていたのか、ほっとした様子に見えた。


 中は意外に明るかった。造りは古いが受付の老人は清潔感のある身なりをしていた。


「ようこそ鸚鳴館(おうめいかん)へ。ご宿泊ですか?」

「はい。ふたりなんですが、空いてますか?」

「ええ、空いております。お食事はそちらの食堂をご利用ください」


 受付のすぐ近くに食堂があった。向かって左側は調理場や職員の詰所になっているらしい。


 右側はすべて客室だという。彫り細工の入った階段が2階へと伸びていて、1階と合わせて10室あるようだ。辺鄙《へんぴ》な町にあるが名の知られた老舗の宿だと、ある宿泊者が言っていた。


 僕たちが案内されたのは2階、北端にある部屋だった。白壁やアンティークの家具が心を和ませてくれる。


「いいお部屋だね。これは当たりかも」

「はい、旦那様。落ち着いていて、素敵です」


 朝には東側の窓のちょうど真ん中に日の出が見えるらしい。恋人達に人気の部屋だと言われて、ふたりして照れてしまった。


 ――ラズはまだ口数が少ない。


 リリスさんに告げられた『僕の体液は猛毒』という話を気にしているのは間違いない。ラズ自身もうすうす気がついていたみたいだった。


 ――ラズの表情は完全には晴れない。


 ずっと何か考え込んでいる。けれど、感情が定まらない様子に気持ちまでは読み取れない。


「今日は疲れたよね。いっぱい飛んでくれてありがとう。僕が何か飲み物を淹れるよ」


 そう言って食器棚に向かおうとすると、ラズは背中に飛びついてきた。僕の服をぎゅっと握り締める。サキュバスの尻尾をくるんと僕の腰に巻き付けて。


「ラズ?」

「旦那様、私……怖いんです」


 彼女の体から微かな震動が伝わってくる。


「何を怖がってるの?」

「私は捨てられてしまうんじゃないかって……」


 そんなこと、するはずない。手放すなんて、考えたくもない。


「どうしてそう思うの?」

「だって、私は淫魔なのに旦那様を満足させてあげられないかもしれない。毒を克服できなければ、私が持っている力なんて無いに等しいです」


 僕にとって、それは重要なことじゃない。でも淫魔としての矜持《きょうじ》を考えれば、ラズにとっては死活問題に違いない。


 肉体の繋がりが一番大事なわけじゃない。精神の繋がりがあってこそ最高の瞬間になるって、僕はそう信じている。けれど、きっとラズは納得しない。


「僕はラズに不満はないよ」

「そんなの嘘です! 脳に刻まれた旦那様の本能が、今の私では欲求を満たせないと訴えたら、私に存在価値なんてありません」


 声が震え出していた。ぐすぐすと泣いているのが分かる。こんなことで泣かないでよ――なんて言葉、ラズは望んでいないだろう。


 僕は腰に巻きついているラズの尻尾を撫でながら、必死で思考を巡らせた。出てきた言葉はごくありふれた言葉だった。


「ねえラズ、僕といっしょに一歩ずつ大人の階段を上がって行こうよ。焦らずに僕たちのペースで……」


 ラズは服を握っていた手をお腹へとまわしてきた。力一杯、抱きついてきた。頭を擦り付けて、まるで甘える子猫みたいだ。


 僕は彼女が喜んでくれたと思っていた。でも実際にそれは半分で、あと半分は違っていた。


 それがひどく残酷な言葉だと、この日の僕は全く気づいてあげられなかった。


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