老舗宿
国境に近い宿場町、サドラ。北部、中心街、港町と分かれるトリノメーアの中で、最も規模が小さい北部に位置している。
岩山から見えた大陸北端の海岸線は、すぐ隣町のノルフィンのもの。サドラは特産と呼べるものがない、ひっそりとした田舎町。身を隠すには都合がいい。
ひとまず今夜の宿探しへ。
人間の姿に変化したラズは、数日前よりも大人びて見えた。気のせいではなく、胸が少し大きくなっている。原因は不明だけれど。
「あのお宿はどうですか?」
ラズが指差したのは見るからに古い宿屋だった。木枠に煉瓦を嵌め込んだような外観で、2階の外壁に取り付けられたランプが軒先を褐色に照らしていた。
ガラス戸の外側には木製の扉も付いていて、二重窓になっている。冬は厳しい冷え込みになるサドラの町。古くからの生活の知恵が活きている証拠だ。
「もっと新しい造りの宿でもいいんだよ? 手持ちは十分にあるから」
実は、出立する直前にボルガからお金を渡されていた。それはストラディバリ家が非常時のために、彼に託していたものだった。手持ちと合わせれば、しばらく衣食住の心配はないほど。
「私はこういった雰囲気の方が落ち着くんです。最近の建家はちょっと苦手で……」
地域によって流行りに多少の差はあるけれど、最近は白や青など彩色が強めの外観が好まれている。煉瓦や土色の家屋は希少種の部類だ。
「ラズが気に入ったなら、ここにしよう」
「ありがとうございます」
声に柔らかさが戻っていた。ずっと気を張っていたのか、ほっとした様子に見えた。
中は意外に明るかった。造りは古いが受付の老人は清潔感のある身なりをしていた。
「ようこそ鸚鳴館へ。ご宿泊ですか?」
「はい。ふたりなんですが、空いてますか?」
「ええ、空いております。お食事はそちらの食堂をご利用ください」
受付のすぐ近くに食堂があった。向かって左側は調理場や職員の詰所になっているらしい。
右側はすべて客室だという。彫り細工の入った階段が2階へと伸びていて、1階と合わせて10室あるようだ。辺鄙な町にあるが名の知られた老舗の宿だと、ある宿泊者が言っていた。
僕たちが案内されたのは2階、北端にある部屋だった。白壁やアンティークの家具が心を和ませてくれる。
「いいお部屋だね。これは当たりかも」
「はい、旦那様。落ち着いていて、素敵です」
朝には東側の窓のちょうど真ん中に日の出が見えるらしい。恋人達に人気の部屋だと言われて、ふたりして照れてしまった。
――ラズはまだ口数が少ない。
リリスさんに告げられた『僕の体液は猛毒』という話を気にしているのは間違いない。ラズ自身もうすうす気がついていたみたいだった。
――ラズの表情は完全には晴れない。
ずっと何か考え込んでいる。けれど、感情が定まらない様子に気持ちまでは読み取れない。
「今日は疲れたよね。いっぱい飛んでくれてありがとう。僕が何か飲み物を淹れるよ」
そう言って食器棚に向かおうとすると、ラズは背中に飛びついてきた。僕の服をぎゅっと握り締める。サキュバスの尻尾をくるんと僕の腰に巻き付けて。
「ラズ?」
「旦那様、私……怖いんです」
彼女の体から微かな震動が伝わってくる。
「何を怖がってるの?」
「私は捨てられてしまうんじゃないかって……」
そんなこと、するはずない。手放すなんて、考えたくもない。
「どうしてそう思うの?」
「だって、私は淫魔なのに旦那様を満足させてあげられないかもしれない。毒を克服できなければ、私が持っている力なんて無いに等しいです」
僕にとって、それは重要なことじゃない。でも淫魔としての矜持を考えれば、ラズにとっては死活問題に違いない。
肉体の繋がりが一番大事なわけじゃない。精神の繋がりがあってこそ最高の瞬間になるって、僕はそう信じている。けれど、きっとラズは納得しない。
「僕はラズに不満はないよ」
「そんなの嘘です! 脳に刻まれた旦那様の本能が、今の私では欲求を満たせないと訴えたら、私に存在価値なんてありません」
声が震え出していた。ぐすぐすと泣いているのが分かる。こんなことで泣かないでよ――なんて言葉、ラズは望んでいないだろう。
僕は腰に巻きついているラズの尻尾を撫でながら、必死で思考を巡らせた。出てきた言葉はごくありふれた言葉だった。
「ねえラズ、僕といっしょに一歩ずつ大人の階段を上がって行こうよ。焦らずに僕たちのペースで……」
ラズは服を握っていた手をお腹へとまわしてきた。力一杯、抱きついてきた。頭を擦り付けて、まるで甘える子猫みたいだ。
僕は彼女が喜んでくれたと思っていた。でも実際にそれは半分で、あと半分は違っていた。
それがひどく残酷な言葉だと、この日の僕は全く気づいてあげられなかった。




