忠告
「彼の体液は……猛毒よ」
僕は言葉の意味が理解できなかった。
(たかが人間の、僕の体液が猛毒?)
ちらりとラズを見た。驚いた表情のまま息をするのも忘れているようだった。
沈黙が続いた――。
風が止んでいる。けれど空はひたすら青く、雲は悠然と流れていた。この場所に杭を打たれて空だけが回転しているみたいに。
ラズは呼吸を取り戻し、ぜえぜえと苦しそうに喘いでいる。僕は聞いた。
「毒って……どういうことですか?」
「そうねえ……。簡単に言えば、強烈な媚薬ってとこかしらね」
「媚薬?」
「ええ。少なくとも私達サキュバスにとっては、ね。他の魔族は分からないけれど、摂取しようものなら無事では済まないと思うわ」
聞いたことのない話だった。
バンパイアに大蒜や十字架が有効と言われるように、魔族にはそれぞれ苦手なものがあることは有名だ。だけど、人間の体液が猛毒の媚薬になるなんて初耳だ。
「私もねえ、三千年以上も生きてきて、初めてのことで驚いてるのよ」
「えっ、そうなんですか?」
前例がないのも驚きだけれど、淫魔の年齢には更に驚かされた。
それは別として――ラズは僕のことを特殊個体かもしれないと言っていたけれど、ここでその真実味が一気に増してきた形だ。
「ラズちゃんは気づいていたかしら?」
彼女は首を振るでもなく、ただ俯いていた。リリスさんは小さくため息をついた。
「それなら上出来よ。ママが言いたいこと、分かるわよね?」
「……私は彼から離れない。絶対に離れたくない。克服してみせるもん」
「ラズちゃん、それは難しいわよ? ちょっとだけふたりの様子を見ていたけれど、唾液や汗を啜るだけでひどく乱れていたじゃない」
「なっ! お母様、見てたの?」
リリスさんはラズの前で両手を合わせて「ごめんね」と言ったが、彼女はぷくっと頬をふくらませている。
「ひどい! 実の娘のそういうとこ、普通見たりする?」
「私たちはサキュバスよ? エッチなことしてるところぐらい見るのは普通じゃない?」
「信じられない! 私はお姉様たちとは違うって何度も言ってるじゃない!」
親子喧嘩が始まってしまった。にしても、何て内容なんだろう。ひとまず、他に誰も来る気配のない場所で良かった。
「あのねラズちゃん、ママはあなたが心配なのよ。たったの90年だけど、毎日気が気じゃなかったわ。だから覗きたくもなるのよ」
「そんなの言い訳じゃない! 私の体はともかく、彼のも見たってことでしょ?」
「怒るとこ、そこなの? まあ、見たけれど……」
「もう帰って!」
僕の体について、なんかしれっと話している。ふたりはそんなことお構い無しだけれど。
「もお~、それくらい良いでしょ? 許してラズちゃん。ほら、私の裸も見せるから♡」
「ちょっとお母様、何してるの? あ、旦那様は見ちゃダメです!」
ラズは必死でリリスさんの裸体を隠そうとしたけれど、時すでに遅く――。たわわで張りのある胸を、僕はしっかり目撃してしまった。
「これでおあいこでしょ? それに、彼ったら可愛いんだもん。ママ気に入っちゃった♡」
「ダメ! 旦那様に近づかないで!」
僕とリリスさんの間に立ちはだかるラズ。その姿をリリスさんは不敵な笑みで見つめている。
「ふ~ん。旦那様、ねえ。ラズちゃんたらドM体質なの~?」
「……そ、そんなんじゃないし!」
「ええ~? でも、うれしそうにしてたじゃない?」
「からかわないでったら! もう早くどっか行ってよ!」
なぜか安心して見ていられる喧嘩だな、と思った。サキュバス同士の会話なんてもちろん初めて聞くけれど、内容はともかく雰囲気は人間と変わらないな、と感じた。
「まあ、忠告はしたわよ。彼と最後までするときは十分に気を付けるのよ」
「お母様! 何てこと言うの?」
「ああ、あとね、お口でするのはやめといた方がいいわよ。彼のアレは触れるだけでも危険だと思うから」
「ちょ、ちょっと……もう!」
ぷんぷん怒るラズがやたら愛おしい。怒った表情も好きだな。――じゃなくて、本当にとんでもない会話だ。およそ親子の会話とは思えない。
サキュバスならでは――なのかな。
「じゃあ、またね~♡」
リリスさんは投げキスをして去っていった。竜巻にでも襲われたような気分だ。情報量が多すぎて何から聞いたらいいか分からない。
聞ける内容とはいえないけれど――。
僕らはしばらく黙り込んでしまった。ラズも何から話すべきか探っている。
風向きが変わった。崖を登ってくる風は生ぬるいけれど強い。日も傾き始めている。そろそろ先を急いだ方が良さそうだ。
「ねえラズ、詳しい話は後にしよう」
怒りの収まった彼女は静かに「はい」とだけ答え、僕を抱き締めて空へと舞った。
かなりの高さを飛んでいる。これなら鳥獣と見分けはつかないだろう。ラズは森が見えれば低く飛び、集落が見えれば高く飛んだ。
いくつかの森を越え、夕陽が視界を赤く染める。僕の体温を示すかのように、どんどん濃さを増していった。
「旦那様、もう少しで到着します」
淡々とした声だった。感情の抜けた、事務的に読み上げるだけ話し方。
けれどそれは、夜には一変した――!




