追撃
水の音に風の音、虫の声さえも耳に入らなくなった。ただ、僕の視界にはラズだけがいた。
どれほどの時間、茫然としていただろう。
「い……いま、なんて?」
高鳴る胸を押さえながら、僕はラズに聞いた。心臓がありえない速さで拍を刻んでいる。
「旦那様、と申し上げました」
彼女の様子もおかしい。呼吸を荒げ、恍惚の表情で僕を見つめている。そして、指で唇を何度もなぞり、ときどき舌で舐って見せた。
色っぽいなんてもんじゃない。僕も呼吸が狂い出す。身体中が熱くてたまらない。
何とか息を整える。
「……ちょっと待って。君と僕は出会ったばかりだよ? それなのに……旦那様、なんて……」
「貴方様以外には考えられません。ようやく私は……理想の旦那様を見つけました」
先ほどまでのあまりの恐怖に、ラズは冷静さを失っている。そうに違いない。
ああ、あれだ、恐怖のドキドキを恋のドキドキと勘違いするという、吊り橋効果というやつだ。
僕が思考を巡らしている、そのとき――。
「ん?」
ラズの顔がすぐ側に。僕の唇は塞がれていた。
(これってもしかして……)
僕の肩をぎゅっと掴んで、唇を押しつけてくる。離れようとしない。
「んん!?」
抵抗を試みる。ラズの腕をほどこうする。けれども彼女は許してくれない。余計に強く唇を押しつけてくる。
――だめだ。何も考えられない。
止められない。麻薬に酔わされる感覚というのは、こんな感じなのだろうか。
根こそぎ思考を奪われて、あっけなく僕はキスに酔わされた。僕から彼女の唇を求め、互いの欲望を確かめ合う。
「ああ、旦那様……もっと、もっと下さい」
興奮で頭がくらくらする。旦那様だなんて、僕が彼女を奴隷にしたみたいじゃないか。いけない、やはりこんなこと。
しかし、ラズの魅力には抗えなかった。ああ、これはきっと夢だ、夢なんだ。
――だからもう、何の遠慮もいらないんだ。
腰を引き寄せて、僕はそのまま強く彼女を抱き締めた。
僕の理性は焼き尽くされた。お返しとばかりに彼女は僕の背中を強く引き寄せる。例えようのない感覚が体を走り抜けていった。
「困りますねえ、商品に手を出されては」
熱病は瞬時に冷めた。
(しまった、何をやってるんだ僕は!)
声の主は、奴隷商の頭目だった――いや、違う。頭には羊に良く似た二本のツノが生えていた。月明かりに黒く鈍く光っている。この男、魔族だったのか。
「まあ、その女はある程度調教済みのようですから、口で遊ぶ程度なら大目にみますがね」
他の連中も続々と姿を現した。
「やってくれたな小僧。どんな目に遭わせてやろうか」
「オレの腕、切った。許さない」
大男に獣人と、恐ろしい形相で睨みつけてきた。頭目が不敵に笑いながら言う。
「いたぶり殺す前に、この小僧に見世物の手伝いをさせるとしよう」
「おお、さすがはお頭。で、何をさせるんです?」
ラズが僕の胸に縋りつく。微かな振動が伝わってくる。
「貴族様の前で下着を破かせ、乳房をまさぐらせる。小娘を十分に喘がせてから、小僧の手で股を開かせて貴族様に味見をしてもらう、というのはどうだ?」
聞くなり男達が歓声を上げた。醜い笑い声が広がる。
「そりゃあいい。助けたはずの女を目の前で犯される、最高の見世物じゃないですか!」
「冗談じゃない! そんなこと死んでもやらないぞ!」
ラズを凌辱するなんて、絶対にさせない。
「無理矢理にでもやってもらいますよ? 私の魔法でおまえの体を操ってやろう。抵抗できないように、今から全員で適度に痛めつけて差し上げましょう」
立ち上がろうとした瞬間、僕の体は宙に浮いていた。獣人の仕業だった。残った片腕で、まるで小石のように軽々と僕を投げ飛ばしたのだ。落ちてきたところに、巨大な拳が僕の腹を襲った。
「うっ! ……ぐああ」
内臓を抉る衝撃。拳で腹を突き破られたような感覚。
「嫌ああ!」
ラズの悲鳴が聞こえる。でも、ひどく遠くから聞こえた気がした。
(情けない……。嫌だ。ラズを酷い目に遭わせたくない……)
地面に叩きつけられた僕を、連中はにやにやと見下ろす。そこに頭目は追い打ちをかけるように、僕に無慈悲な言葉を投げかけてきた。
「小僧、良いことを教えてやろう。この小娘は調教されてはいるものの、前の所有者というのが変わり者でな。まだ……生娘なのだよ」
「なに?」
「おまえにはその生娘が絶望する様を特等席で見せてやろう。今回の客人はそのような趣向を好まれる方だ。散々おもちゃにされるのを見届けるといい」
(何か手はないのか……何か……)
「おまえはその後で存分になぶり殺してやろう」
くそっ、どうしたらいいんだ――。




