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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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9/11

第8話 沈黙の先にあるもの

優が目を覚ました時、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。

 枕元に置いたスマートフォンへ手を伸ばす。

 時刻を確認しようとして、画面に表示された通知に指が止まった。

 メッセージが一件。

 送信者の名前を見た瞬間、眠気が消えた。

 父さん。

 届いたのは、深夜二時を過ぎた頃だった。

 優はしばらく通知を開けなかった。

 何年もまともに会話をしていない父からの連絡。

 誕生日に届く短い言葉を除けば、父の方から連絡が来ることはほとんどなかった。

 優はベッドの上で体を起こした。

 迷った末、通知を開く。

『元気か』

 それだけだった。

 優は画面を見つめた。

 何か続きがあるのかと思った。

 けれど、次のメッセージはない。

 元気か。

 今まで聞かなかった人が、どうして今になってそんなことを聞くのだろう。

 大学へ通っている。

 ピアノも続けている。

 短期留学を考えている。

 カフェで働き始めた。

 父の本も読んでいる。

 昨日は、香と人前で音を重ねた。

 話せることは、いくらでもあった。

 けれど、何一つ伝えたくなかった。

 優は返信欄を開いた。

『元気』

 そう打つ。

 たった三文字。

 これなら何も話さなくて済む。

 けれど、送信ボタンを押すことができなかった。

 父の『元気か』と、自分の『元気』。

 それだけで会話を終わらせることが、なぜか嫌だった。

 優は文字を消した。

 空白に戻った返信欄を見つめる。

 返したくないのか。

 返したいのか。

 自分でも分からなかった。

     ◇

 ダイニングへ行くと、華はすでに朝食を終えかけていた。

 テーブルの上にはコーヒーと、開かれたタブレット。

「おはよう」

「おはよう」

 優は椅子に座った。

 トーストを一枚取り、皿に置く。

 スマートフォンをテーブルの端へ置くと、画面が上を向いた。

 華がちらりと見る。

「朝から難しい顔してるわね」

「そう?」

「そう」

 優はバターを塗りながら、何も言わなかった。

 華もすぐには聞かない。

 その沈黙に耐えられなくなったのは、優の方だった。

「父さんから、連絡が来た」

 華の手が止まる。

 けれど、驚いた顔はしなかった。

「そう」

「知ってた?」

「知らないわ」

「母さんが何か言ったんじゃないの」

「優に連絡しなさいって?」

「うん」

「言ってない」

 華ははっきり答えた。

「優がお父さんの本を読んだことは話したけど、連絡するようには言ってないわ」

「やっぱり話したんだ」

「聞かれたから」

 優はスマートフォンを手に取り、画面を華へ向けた。

『元気か』

 華はその短いメッセージを見る。

 少しだけ目を細めた。

「あの人らしいわね」

「これだけだよ」

「そうね」

「何年も何も言わなかったのに」

「そうね」

「元気かって、今さら何なんだよ」

 華はすぐには答えなかった。

 優の苛立ちを否定せず、静かに受け止める。

「あの人には、それだけでも難しかったんでしょうね」

「父さんを庇うの?」

「庇ってないわ」

 華の声は穏やかだった。

「あの人にとって難しかったことと、優が許さなきゃいけないことは別よ」

 優は黙った。

 華はコーヒーカップに手を添えた。

「返したくないなら、返さなくていい」

「でも」

「でも?」

「返さなかったら、また終わる気がする」

 言ってから、優は自分の言葉に気づいた。

 また終わる。

 終わっても構わないと思っていたはずだった。

 父との関係なんて、今さらどうなってもいい。

 そう思っていた。

 けれど、本当に終わらせたいのなら、こんなに迷うはずがない。

 華は優を見た。

「終わらせたくないの?」

「分からない」

「なら、今すぐ決めなくていいわ」

「返事くらい、すぐした方がいいだろ」

「誰が決めたの?」

「普通は」

「何年も黙っていた人に、すぐ返す義務はないでしょう」

 華はタブレットを閉じた。

「返すなら、優が返したいと思った時に返せばいい」

「母さんなら返す?」

「私とあなたでは違うもの」

「逃げた」

「そうね」

 華は少し笑った。

「でも、これはあなたと父さんの話だから」

 優はトーストを口に運んだ。

 味はほとんど分からなかった。

     ◇

 大学へ着くと、香が練習棟の入口で待っていた。

 優の姿を見つけると、すぐに近づいてくる。

「おはよう」

「おはよう」

「次の曲、考えてきた」

「朝一番に言うことかよ」

「大事でしょ」

「もう次の話なのか」

「昨日、楽しかったでしょ?」

「否定はしない」

 香が足を止めた。

「珍しく素直」

「そうか?」

「うん。いつもなら、別にとか普通とか言うのに」

「普通だった」

「ほら、言った」

 香は笑った。

 けれど、すぐに優の顔を覗き込む。

「何かあった?」

「何で」

「昨日より暗い」

「寝不足なだけ」

「嘘」

「決めつけるなよ」

「じゃあ、本当は?」

 優は答えようか迷った。

 香は父のことを知っている。

 詳しい事情をすべて話したわけではないが、長く会っていないことも、優が父を避けてきたことも知っている。

「父さんから連絡が来た」

 香の表情が変わった。

「おじさんから?」

「うん」

「何て?」

「元気か、って」

「それだけ?」

「それだけ」

 香はしばらく何も言わなかった。

 喜びもしない。

 父と話した方がいいとも言わない。

「返すの?」

「分からない」

「返したくない?」

「それも分からない」

「そっか」

 香は歩き出した。

 優も隣を歩く。

「今すぐ決めなくてもいいんじゃない?」

「母さんにも言われた」

「華さんと意見合った」

「喜ぶところじゃないだろ」

「でも、返さなかったらまた終わるんだよな」

 優が言うと、香は横目で見る。

「終わらせたくないの?」

「分からない」

「分からないばっかり」

「仕方ないだろ」

「うん。仕方ないと思う」

 香は軽く頷いた。

「でも、終わらせてもいいって思ってるなら、そんなに悩まないんじゃない?」

 優は何も言えなかった。

「少しは返したいんじゃない?」

「返したところで、何も変わらない」

「変えなくてもいいんじゃない?」

「何が」

「返事したからって、許したことにはならないでしょ」

 香は優を見る。

「許すのと、返事するのは別だよ」

 その言葉は、思っていたよりも簡単だった。

 簡単だからこそ、優の中に残った。

「香なら返す?」

「私なら?」

 香は少し考える。

「返したいなら返す。返したくないなら返さない」

「それだけ?」

「それだけ」

「適当だな」

「優が難しく考えすぎなんだよ」

 香は先に廊下へ入っていく。

「じゃあ、昼休み。昨日の曲、もう一回合わせようね」

「まだやるって言ってない」

「でも否定もしなかった」

 香は振り返らずに手を振った。

     ◇

 午後の練習室。

 優は一人でピアノに向かっていた。

 譜面を見ながら弾いているのに、何度も同じところで指が止まる。

 間違えているわけではない。

 音は合っている。

 けれど、先へ進まない。

 昨日、香と演奏した時には、音が自然に前へ出た。

 今は一音鳴らすたびに、次へ進むべきか迷っている。

 優は演奏を止めた。

 スマートフォンを手に取る。

 父からのメッセージは、変わらずそこにある。

『元気か』

 短い言葉。

 それなのに、何度見ても重い。

 優はスマートフォンを伏せた。

 再び鍵盤へ指を置く。

 今度は譜面を閉じ、思うままに音を鳴らした。

 低い音。

 その上に、迷うような旋律を重ねる。

 一歩進みかけて、戻る。

 別の道を探して、また同じ場所へ帰ってくる。

 何度弾いても、終わりが見つからない。

 自分の気持ちが、そのまま音になっている気がした。

 行きたい場所はある。

 けれど、そこへ行くことが正しいのか分からない。

 優は鍵盤から手を離した。

 余韻は、すぐに消えた。

     ◇

 夕方、Café Mélodieはいつもより静かだった。

 客は数人。

 コーヒーミルの音と、小さく流れる音楽だけが店内を満たしている。

 優は注文を取り、カウンターへ戻った。

「ブレンド一つです」

「了解」

 理織はカップを準備しながら、優を見る。

「今日は返事が半拍遅いね」

「半拍?」

「うん」

「そんなに遅くないです」

「遅いよ。坂本くん、考え事してる時、返事が半拍ずれるから」

「いつから分かるようになったんですか」

「店長だから」

「関係あります?」

「たぶん」

 理織は笑い、コーヒーを淹れ始める。

 その後も、優が大きな失敗をすることはなかった。

 ただ、手が空くたびにスマートフォンが気になった。

 父から新しいメッセージが来るはずはない。

 自分が返していないのだから、当然だった。

 客足が途切れると、理織がカウンターの端にコーヒーを置いた。

「休憩しようか」

「まだ大丈夫です」

「今日は大丈夫に見えないから」

「顔に出てます?」

「半拍分だけ」

 優は諦めて、カウンター席へ座った。

 理織は向かい側に立ち、自分のカップにもコーヒーを注ぐ。

「何かあった?」

 優はカップを見つめた。

 父のことを言えば、坂本樹との関係を隠し続けるのが難しくなる。

 だから、名前は出せない。

「長く連絡を取ってなかった人から、急にメッセージが来たんです」

「そうなんだ」

「返した方がいいのか、分からなくて」

 理織は理由を尋ねなかった。

 誰からとも聞かない。

「返したくないの?」

「分かりません」

「なら、返したくないわけでもないんだね」

 香と似たことを言われ、優は顔を上げた。

「今日、それ二人目に言われました」

「同じことを?」

「少し違いますけど」

「じゃあ、その人も坂本くんのことをよく見てるんだね」

「大学の同級生です」

「昨日、一緒に演奏した子?」

「はい」

 理織は少しだけ口元を緩めた。

「いい友達だね」

「勝手なところがありますけど」

「坂本くんには、そのくらいがちょうどよさそう」

「店長まで」

 理織は楽しそうに笑った。

 優はコーヒーを一口飲む。

「店長なら、どうしますか」

「私?」

「長く話してなかった人から、急に連絡が来たら」

 理織はすぐには答えなかった。

 カップを両手で包みながら、少し考える。

「相手が何を望んでるかより、自分が何を伝えたいかを考えるかな」

「伝えたいことが分からなかったら?」

「分かるところまででいいんじゃない?」

「分かるところまで」

「うん」

 理織は優を見る。

「全部伝えようとすると、何も言えなくなることもあるから」

 その言葉に、優は父の短いメッセージを思い出した。

 元気か。

 あれが、父に今言えるすべてだったのだろうか。

 何年も黙っていた理由にはならない。

 何もなかったことにもできない。

 けれど、あの三文字を書くまでに、父も迷ったのかもしれない。

「一言でも、本当に伝えたいことなら、それでいいと思うよ」

「一言で何か変わりますか」

「変わらないかもしれない」

 理織は静かに答えた。

「でも、一言もなければ、何も始まらないこともある」

 香の言葉が重なる。

 歌わなかったら、絶対に届かないから。

 父の言葉も、香の歌も、理織の言葉も。

 少しずつ形を変えながら、優の胸へ入ってくる。

「すぐに返さなくてもいいと思うけどね」

 理織は付け加えた。

「坂本くんが、自分で選べばいいよ」

「はい」

「半拍遅れても、返事は返事だから」

 優は少しだけ笑った。

     ◇

 仕事を終え、家へ戻る。

 華はまだ帰っていなかった。

 優は自室へ入り、鞄を机の横に置いた。

 本棚の前に立つ。

 父の文庫本を取り出し、読みかけのページを開く。

 目に入ったのは、何度も思い返した一文だった。

 ――帰る場所を失った人は、初めて自分がどこへ帰りたかったのかを知る。

 優はその文字を見つめた。

 父は、自分と母がどこへ帰りたかったのかを知ろうとしたのだろうか。

 父自身は、どこへ帰りたかったのだろう。

 そして自分は。

 父との関係を、本当にこのまま終わらせたいのだろうか。

 答えは出なかった。

 許せたわけではない。

 父の本を読んだからといって、過去が変わるわけでもない。

 あの日の空いた席は、今も優の中に残っている。

 それでも。

 父から届いた言葉を、何も返さずに閉じてしまうことにも違和感があった。

 優は本を閉じた。

 スマートフォンを手に取る。

 メッセージ画面を開く。

『元気か』

 その下には、まだ何もない。

 優は返信欄に文字を打った。

『元気』

 指が止まる。

 これだけでは、何も伝えていない気がした。

 消す。

『父さんの本を読んだ』

 そこまで打って、また止まる。

 それを今伝えれば、父は何を思うのだろう。

 喜ぶのか。

 理由を聞くのか。

 それとも、何も言えなくなるのか。

 優は文字を消した。

『留学を考えてる』

 消す。

『カフェで働いてる』

 消す。

『昨日、人前でピアノを弾いた』

 それも消した。

 伝えられることはたくさんある。

 けれど、全部を話す準備はできていない。

 優はしばらく空白を見つめた。

 香の言葉を思い出す。

 許すのと、返事するのは別。

 理織の言葉を思い出す。

 分かるところまででいい。

 優は、もう一度文字を打った。

『元気。大学もピアノも続けてる』

 読み返す。

 父を許す言葉ではない。

 会いたいと伝える言葉でもない。

 ただ、今の自分について、本当に言えることだけを書いた。

 優は送信ボタンの上に指を置いた。

 一度、目を閉じる。

 そして押した。

 メッセージが画面の右側へ移動する。

 送ってしまった。

 胸の奥が、わずかに速くなる。

 返事をしただけだ。

 それ以上の意味はない。

 そう思おうとした。

 けれど、何年も止まっていた場所へ、自分から言葉を置いたことだけは確かだった。

     ◇

 その頃、樹は書斎で原稿を直していた。

 華から戻された原稿には、赤い文字が並んでいる。

 ――ここで逃げない。

 ――主人公に言わせる。

 ――沈黙で済ませない。

 樹は何度も同じ段落を書き直していた。

 文章は整っていく。

 けれど、まだ何かが足りない。

 主人公が本当に伝えたい言葉を、樹自身が見つけられずにいた。

 机の上で、スマートフォンが震えた。

 樹の手が止まる。

 画面を見る。

 優からの返信だった。

『元気。大学もピアノも続けてる』

 樹は動かなかった。

 一度読む。

 もう一度読む。

 何度読んでも、文字は変わらない。

 優が返してくれた。

 大学へ通っている。

 ピアノも続けている。

 知っていたはずのことなのに、優自身の言葉で届いたことが、胸の奥へ静かに沈んでいく。

 樹は返信欄を開いた。

『そうか』

 打ってから、見つめる。

 冷たすぎる気がした。

 消す。

『安心した』

 それも違う気がした。

 何年も何もしてこなかった父親が、安心したと言う資格があるのだろうか。

 消す。

『今度、演奏を聴きたい』

 指が止まる。

 幼い優の発表会。

 空いた席。

 行くと約束しながら、行かなかった自分。

 今さら演奏を聴きたいと言うことは、簡単ではなかった。

 樹はそれも消した。

 空白の画面を見つめる。

 伝えたいことは、いくらでもあった。

 元気でよかった。

 音楽を続けていてよかった。

 留学を考えているなら応援したい。

 本を読んでくれたことも、本当は嬉しい。

 けれど、どの言葉も今の自分には大きすぎる気がした。

 樹は長い時間をかけて、短い文章を打った。

『そうか。よかった』

 何度も読み返す。

 これで足りるとは思わなかった。

 それでも、今伝えられる言葉はこれしかなかった。

 樹は送信ボタンを押した。

     ◇

 優のスマートフォンが震えた。

 送ってから十分も経っていなかった。

 画面に父からの返信が表示される。

『そうか。よかった』

 優はその言葉を見つめた。

 たったそれだけ。

 やはり、父は言葉が足りない。

 何万人もの人を救う文章を書けるのに、息子へ送る言葉はこんなにも短い。

 けれど、以前なら感じなかったものが、今は少しだけ見える気がした。

 この言葉を書くまでに、父も何度か消したのかもしれない。

 何を送ればいいのか分からず、画面の前で止まっていたのかもしれない。

 それは想像にすぎない。

 父を許す理由にもならない。

 何も解決していない。

 発表会の日も、失った時間も戻ってこない。

 それでも。

 長い間、二人の間にあった沈黙の中へ、短い言葉が一つずつ置かれた。

 優は返事を打たなかった。

 今夜は、これでいいと思った。

 父との間にある沈黙は、まだ消えていない。

 ただ、その夜。

 その沈黙の先から、確かに父の言葉が返ってきた。


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