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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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8/10

第7話 君がいる場所

駅前には、香の歌声が流れていた。

 優は少し離れた場所で足を止めた。

 ストリートピアノの近く。

 人の流れから少し外れた場所に、香は立っている。

 肩からギターを下げ、マイクも使わずに歌っていた。

 周りにいるのは、十人にも満たない。

 立ち止まる人もいれば、何も気にせず通り過ぎていく人もいる。

 それでも香は、俯かなかった。

 目の前にいる一人一人へ届けるように、まっすぐ前を見て歌っている。

 大学で見る香とは違った。

 普段の香はよく笑う。

 軽口をたたき、優の返事を待たずに話を進める。

 けれど、歌っている時だけは、別の顔をしていた。

 誰にも届かないかもしれない。

 立ち止まってもらえないかもしれない。

 それでも歌うことをやめない人の顔だった。

 優は人の輪の後ろに立ち、その歌を聴いた。

 香の声は、決して大きくはなかった。

 けれど、よく通る。

 夜のざわめきの中へ消えず、ひとつの線のように伸びていく。

 歌っているのは、遠くへ行こうとする誰かを見送る歌だった。

 行くなとは言わない。

 夢を諦めろとも言わない。

 ただ、疲れた時には思い出してほしいと歌っている。

 帰りたくなった時、私はここにいる。

 そんな意味の言葉が、静かな旋律に乗っていた。

 優は、鞄の中の文庫本を思い出した。

 帰る場所を失った人は、初めて自分がどこへ帰りたかったのかを知る。

 父の言葉と、香の歌が、どこかで重なる。

 けれど、響き方はまるで違った。

 父の言葉は、動けない人の隣に座る。

 香の歌は、離れていく誰かの背中を追いかける。

 どちらも、誰かに届こうとしていた。

 香が顔を上げた。

 その視線が、人の隙間にいる優を捉える。

 一瞬だけ、香の目が大きくなった。

 すぐに歌へ戻ったが、声が少しだけ柔らかくなった。

 優には、そう聞こえた。

 気のせいかもしれない。

 それでも、香が自分を見つけた瞬間、歌の温度が変わったように感じた。

 最後の音が消える。

 小さな拍手が起こった。

 香は笑顔で頭を下げる。

「ありがとうございました」

 続けてもう一曲歌う。

 優はその場を動かなかった。

 香の声。

 ギターを弾く指。

 歌詞の切れ目で息を吸う音。

 いつも近くにいたはずなのに、知らないものばかりだった。

 香がこれほど真剣に歌っていることも。

 誰かに聴かれることを、これほど恐れていないことも。

 優は、今まで何を見ていたのだろうと思った。

     ◇

 最後の曲を歌い終えると、香はもう一度頭を下げた。

 立ち止まっていた人たちが、少しずつ離れていく。

 香はギターの弦を軽く押さえ、優の方を見る。

 それから、まっすぐこちらへ歩いてきた。

「本当に来てくれたんだ!」

「行くって返しただろ」

「でも、優だから」

「どういう意味だよ」

「来るって言って来ない人じゃないけど、来るって言うまでが長い人」

「意味分からない」

「私は分かってるからいいの」

 香は嬉しそうに笑った。

 歌っていた時の真剣な顔は、もう消えている。

「どうだった?」

「何が」

「歌。そこ聞き返す?」

 優は少し考えた。

「思ってたより、ちゃんと歌ってた」

「それ褒めてないよね?」

「声、通るんだな」

「今さら?」

「大学だと、ちゃんと聴く機会なかったから」

 香は少しだけ口を尖らせる。

「誘ってたのに」

「今日は来ただろ」

「うん」

 その一言だけ、香の声が少し柔らかくなった。

「ちゃんと届いてた」

 優が言うと、香は瞬きをした。

「え?」

「歌。通り過ぎる人もいたけど、立ち止まって聴いてる人もいた」

「……そっか」

 香は視線を落とした。

 上手だったと言われるより、その言葉の方が嬉しかったのかもしれない。

「よかった」

「何が」

「優に、そう聞こえたなら」

 優は返事をしなかった。

 香はギターを抱え直し、さっきまで歌っていた場所を見る。

「大学にも練習室あるだろ」

「あるよ」

「なら、どうしてここで歌うんだ」

「練習室で歌っても、聴きたい人しか聴かないから」

「ここも、聴かない人の方が多い」

「だからいいんだよ」

 香は迷わず答えた。

「聴くつもりがなかった人が、少しでも足を止めてくれたら、その人に届いたってことでしょ」

「通り過ぎられる方が多くても?」

「うん」

「気にならないのか」

「気になるよ」

 香は笑った。

「誰も止まらなかった日は、普通に落ち込むし。今日は下手だったかなって思う」

「それでも続けるんだな」

「続けるよ」

 香は人の流れを見る。

「歌わなかったら、絶対に届かないから」

 その言葉が、優の胸に残った。

 君は誰に向けて弾いている。

 教師に言われた言葉が、頭の中に戻ってくる。

 優は、聴かれることを避けてきた。

 自分の中で音が完成すれば、それでいいと思っていた。

 届かなければ傷つかない。

 評価されなければ、失敗したことにもならない。

 香は違う。

 届かないかもしれない場所で、それでも歌っている。

「優」

「何」

 香がストリートピアノの方を見た。

「一曲だけ、一緒にやらない?」

「無理だ」

「即答」

「合わせたことないだろ」

「さっき私の歌、聴いてたよね」

「聴いてたけど」

「なら合わせられる」

「そんな簡単じゃない」

「優ならできるよ」

「買いかぶりすぎだ」

 香は少しだけ黙った。

 いつものように押し切ろうとはしなかった。

「嫌ならいい」

 そう言ってから、ピアノを見る。

「でも、私は優とやってみたい」

 優は香の横顔を見た。

 冗談ではなかった。

 軽い誘いでもない。

 香は本当に、自分と音を重ねたいと思っている。

 優はストリートピアノへ視線を向けた。

 あの日、理織と出会ったピアノ。

 名前も知らない彼女に、初めて自分の音を聴かれた場所。

 今度は、香が隣にいる。

「一曲だけだからな」

 優が言うと、香の顔が明るくなった。

「うん」

「途中で合わなくなっても知らないぞ」

「合わなくなったら、私が合わせる」

「普通、逆だろ」

「どっちでもいいよ。一緒にできれば」

     ◇

 優はストリートピアノの椅子に座った。

 鍵盤に指を置く。

 何人かが、また足を止め始めている。

 香はピアノの横に立ち、ギターを構えた。

「さっきの曲でいい?」

「構成は」

「二番まで。最後のサビだけ繰り返す」

「キーは」

 香が答える。

 優は頭の中で音を探した。

「最初、ギターだけで入るね」

「ああ」

「途中から来て」

「分かった」

 香は小さく息を吸った。

 ギターの音が鳴る。

 さっきと同じ曲。

 けれど、優には少し違って聞こえた。

 今度は、ただ聴く側ではない。

 香の声がどこへ向かうのかを探し、その隣に音を置かなければならない。

 香が歌い始める。

 優は最初の数小節を黙って聴いた。

 声の高さ。

 ギターの速さ。

 言葉を置く場所。

 香の呼吸を待ち、低い和音を一つ重ねる。

 香の目が、一瞬だけ優へ向いた。

 歌は止まらない。

 優は音数を抑えた。

 香の声が前へ出る時は、邪魔をしない。

 言葉が途切れた時だけ、短い旋律を入れる。

 香が息を吸う。

 その先に置く音を探す。

 事前に合わせたことはない。

 それなのに、次に香がどう歌いたいのか、少しだけ分かる気がした。

 香も、優の音に合わせて歌い方を変えていく。

 語尾を少し伸ばす。

 言葉の間を広げる。

 ギターを弱くして、ピアノへ場所を渡す。

 音の中で、互いに話していた。

 言葉を交わすよりも自然に。

 優は鍵盤を見ながら、香の声を聴いた。

 香の歌は、誰かに届くことを恐れていなかった。

 だからなのかもしれない。

 自分の音も、少しずつ前へ出ることができた。

 誰のために弾いているのか。

 その答えを、優はまだ言葉にはできなかった。

 けれど、その時の音は、確かに香のいる場所へ向かっていた。

 最後のサビに入る。

 香の声が強くなる。

 優はその声を支えるように和音を広げた。

 ギターとピアノ。

 香の歌。

 三つの音が、駅前の夜へ流れていく。

 最後の言葉が終わる。

 優はすぐには鍵盤から手を離さず、短い余韻を残した。

 音が消える。

 一瞬の静寂。

 それから、拍手が起こった。

 先ほどよりも多くの人が立ち止まっていた。

 優は顔を上げる。

 香がこちらを見て、笑っている。

「ほら、届いた」

「香の歌がな」

「優の音も」

「俺は合わせただけだ」

「一緒に届けたんだよ」

 香は迷わず言った。

 優は否定しようとした。

 けれど、言葉が出なかった。

 一緒に届けた。

 その言葉が、思っていたよりも深く残った。

     ◇

 二人で機材を片づけた。

 香のギターケースを閉じ、譜面を鞄にしまう。

 優は手伝おうとしたが、香は慣れた手つきで作業を終えた。

「いつも一人でやってるのか」

「うん」

「大変だな」

「慣れたよ」

「帰りも?」

「一人」

「危なくないのか」

 香が手を止める。

「心配してくれてる?」

「普通に聞いただけだ」

「そういうことにしとく」

「理織さんみたいなこと言うな」

 名前が先に口から出た。

 自分でも、少し意外だった。

「理織さん?」

 香が聞き返す。

「店長」

「名前で呼んでるんだ」

「店長の名前くらい知ってるだろ」

「ふうん」

「何だよ」

「別に」

 香はギターケースを背負った。

 いつもの笑顔に戻っている。

 けれど、その奥で何かを考えているようにも見えた。

「帰るか」

「うん」

 二人は駅へ向かって歩き始めた。

 夜の人通りは、少しずつ減っている。

「次は最初から最後までね」

「次がある前提なのか」

「今日できたんだから、次もできるでしょ」

「練習は必要だろ」

「それ、次もやるってこと?」

「そうは言ってない」

「でも否定もしなかった」

「勝手に決めるな」

 香は楽しそうに笑った。

 少し歩いたところで、その声が静かになる。

「今日、来てくれて嬉しかった」

 優は香を見る。

 香は前を向いたままだった。

「……うん」

「それだけ?」

「何て返せばいいんだよ」

「優らしいからいいけど」

 香はそう言って、少しだけ歩く速度を上げた。

 優はその隣を歩いた。

 近すぎず、遠すぎない距離だった。

     ◇

 家へ戻り、自室の灯りをつける。

 鞄を机の横へ置き、優はベッドに腰を下ろした。

 耳の奥には、まだ香の歌が残っている。

 ピアノの音も。

 自分一人では、きっとあんなふうには弾けなかった。

 香がいたから、音が前へ進んだ。

 スマートフォンを開く。

 昼間に録音した、父の文章から生まれた旋律が残っている。

 再生しようとした時、メッセージが届いた。

 理織からだった。

『友達の歌、ちゃんと聴けた?』

 優は少し迷ってから返信した。

『はい。少しだけ一緒に弾きました』

 すぐに既読がつく。

『それは聴いてみたかったな』

 優は画面を見つめた。

 香と重ねた音を、理織にも聴かせたい。

 そう思った自分に、少し驚いた。

 父の言葉から生まれた旋律。

 香と一緒に届けた音。

 それを聴いてみたいと言う理織。

 いくつもの音が、まだ優の中で重なっている。

 優はスマートフォンを伏せた。

 香がいる場所で、僕の音は初めて行き先を持った。

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