第6話 言葉の旋律
昼休みの練習室には、優一人しかいなかった。
窓の外から、ほかの学生たちの話し声がかすかに聞こえてくる。
ピアノの蓋は開いていたが、優の指は鍵盤に触れていなかった。
譜面台の端には、一冊の文庫本が置かれている。
父の本だった。
昨日までなら、大学へ持ってきたこと自体に落ち着かなさを感じていた。
けれど今は、鞄の中に入っていることが少しずつ当たり前になり始めている。
それが良いことなのかは、分からなかった。
優は本を手に取り、読みかけのページを開いた。
物語は、故郷を離れた男が、十年ぶりに生まれ育った町へ戻る場面に差しかかっていた。
男は駅を降りても、すぐには歩き出さない。
変わってしまった町を見ながら、ただ立ち尽くしている。
派手な出来事は何もない。
それなのに、優はページをめくる手を止められなかった。
短い一文のあとに、少し長い文章が続く。
そして、また短い言葉が置かれる。
その繰り返しに、不思議な流れがあった。
言葉と言葉の間に、わずかな沈黙がある。
優は、指先で文章を追った。
まるで、休符のようだった。
音を鳴らさないことで、次の音を待たせる。
その間があるから、次の一音が胸に入ってくる。
文章にも、同じものがあるのかもしれない。
優はそう思った。
意味だけではない。
長さ。
間。
呼吸。
父の文章には、音があった。
そのことに気づいた瞬間、優は本から目を離した。
認めたくなかった。
言葉がうまいことは、もう知っている。
多くの人が父の本を読む理由も、少しずつ分かり始めている。
けれど、その文章を綺麗だと思ってしまうことは、別だった。
優は文庫本を閉じた。
そのままピアノへ向き直る。
指を鍵盤の上に置いた。
何かを弾くつもりはなかった。
ただ、さっき読んだ文章の流れが、頭の中に残っていた。
低い音を一つ鳴らす。
少し間を置いて、同じ音をもう一度。
そこへ、静かに和音を重ねる。
男が駅に立っていた。
帰ってきたはずなのに、帰る場所を見つけられずにいる。
優の指が、ゆっくりと鍵盤の上を動いた。
短い旋律だった。
同じ音を繰り返しながら、少しずつ形を変えていく。
進もうとするたび、元の場所へ戻ってくるような音。
優は途中で指を止めた。
音が消える。
静かな練習室に、余韻だけが残った。
父の言葉から、音が生まれた。
その事実に気づいた途端、続きを弾くことができなくなった。
「今の、何?」
背後から声がした。
優が振り返ると、練習室の扉が少し開いていた。
その隙間から、香が顔を覗かせている。
「いつからいたんだよ」
「最後の方だけ」
香は扉を開け、ギターケースを背負ったまま中へ入ってきた。
「今の曲、初めて聴いた」
「曲じゃない」
「でも、優が弾いたんでしょ」
「思いついただけ」
「それを曲って言うんじゃないの?」
香はピアノの横まで来ると、譜面台に置かれた文庫本に気づいた。
「珍しい」
「何が」
「優が小説読んでる」
「悪いか」
「悪くないよ。意外なだけ」
香は本の表紙を見た。
「坂本樹」
優の肩がわずかに固くなる。
「おじさんの…本…だよね……」
「うん……」
「ずっと避けてたよね、おじさん…お父さんの事……」
「……嫌いだったわけじゃない……」「知ろうとしなかっただけかも……」
「お互いに……」
香は優の顔を見た。
何かを感じたのかもしれない。
けれど、それ以上は聞かなかった。
代わりに、さっきの旋律を思い出すように小さく首を傾げる。
「今の音、いつもと少し違った」
「何が」
「誰かに話しかけてる感じがした」
優は眉を寄せた。
「そんなつもりはない」
「そう?」
「ただ弾いただけだ」
「ただ弾いただけね……?」
香は笑った。
「優って、自分の音のことになると急に分からないふりするよね」
「分からないふりなんてしてない」
「じゃあ、分かってないんだ」
「どっちでもいいだろ」
「よくないけど、今日はいいや」
香は腕時計を見る。
「次、講義あるから行くね」
「ああ」
扉へ向かいかけて、香が振り返る。
「今日、駅前で歌うから」
「また?」
「またって何。私の活動だよ」
「今日はバイト」
「終わってからでもいいじゃん」
「遅くなる」
「少しだけでも」
優は答えなかった。
香はそれを断りとは受け取らなかったらしい。
「じゃあ、あとで連絡する」
「勝手に決めるなよ」
「来るかどうか決めるのは優でしょ」
香はそう言って、練習室を出ていった。
扉が閉まる。
優はもう一度、鍵盤へ向き直った。
けれど、さっきの旋律を弾き直すことはできなかった。
◇
夕方、Café Mélodieへ着くと、理織は店の前に置かれた黒板を書き直していた。
本日のケーキ。
おすすめのコーヒー。
小さな音符の絵。
「お疲れさまです」
優が声をかけると、理織が振り返った。
「お疲れさま。ちょうどよかった」
「何ですか」
「この音符、変じゃない?」
理織は黒板の端を指さした。
音符らしきものは描かれているが、少しだけ形が歪んでいる。
「変ではないです」
「その言い方は、変だと思ってる人の言い方だよ」
「音符には見えます」
「ほら、やっぱり」
理織は笑いながらチョークを置いた。
「坂本くん、代わりに描いて」
「絵は得意じゃないです」
「音楽やってるから、音符を描くのも上手とは限らない?」
「限りません」
「じゃあ、このままでいいや」
理織は満足したように黒板を立て直した。
店内に入ると、優はエプロンを身につける。
今では後ろの紐も迷わず結べるようになっていた。
「今日は早いね」
「講義が一つ休講になったので」
「じゃあ、休憩もちゃんと取れそうだね」
「昨日も取りました」
「五分だけ座るのは休憩とは言わないよ」
理織はそう言いながら、カウンターの上に伝票を並べた。
「今日は空いてる時間に休んで。まだ慣れてないんだから」
「はい」
店は夕方になると、仕事帰りの客や学生で少しずつ混み始めた。
優は注文を取り、コーヒーを運び、空いた食器を下げる。
まだ動きに迷うことはある。
それでも、最初ほど周りが見えないわけではなかった。
常連客の顔も少しずつ覚え始めている。
六時を過ぎた頃、客足が一度落ち着いた。
「坂本くん、休憩してきて」
「まだ大丈夫です」
「大丈夫なうちに休むの」
理織はカウンターの端を指さした。
「コーヒー入れるから、座って」
「ありがとうございます」
優はエプロンを外さず、そのままカウンター席に座った。
理織がコーヒーを置く。
「今日はブラックでいい?」
「はい」
「大人だね」
「二十歳です」
「そういう意味じゃないよ」
理織は笑い、仕事へ戻ろうとした。
優は鞄から文庫本を取り出す。
その気配に気づいたのか、理織が振り返った。
「あ」
「何ですか」
「本当に読んでる」
「疑ってたんですか」
「途中で諦めるかもしれないとは思ってた」
「まだ最後まで読んでません」
「うん。それでもいいよ」
理織は優の隣の席に腰を下ろした。
「無理に好きにならなくていいからね」
「分かってます」
「でも、持ち歩くくらいには気になってるんだ」
優は本を見た。
「家に置いていけなかっただけです」
「それは気になってるってことじゃない?」
「違います」
「そういうことにしておく」
理織は楽しそうに笑った。
優は本を開く。
数行読んだところで、理織が尋ねた。
「何か気になったところ、あった?」
「気になったところ?」
「文章でも、場面でも。何でも」
優はすぐには答えなかった。
父の文章が心に残ったとは言いたくない。
けれど、何も感じなかったわけでもない。
「……文章に、呼吸がある気がしました」
「呼吸?」
「短い言葉のあとに、少し間があるというか」
優は本のページを指でなぞる。
「次の文章が入ってくるまでの、休符みたいなものがある気がして」
理織は目を丸くした。
「休符」
「音楽をやってるから、そう感じるだけかもしれません」
「坂本くんは、文章も音で読むんだね」
「そんなつもりはないです」
「でも、面白い」
理織は優の手元を覗き込む。
「どの辺?」
「この辺です」
優がページを指さすと、理織が顔を近づけた。
二人の肩が触れそうになる。
優はわずかに身を固くした。
理織は気づかず、文章を目で追っている。
「本当だ」
「何がですか」
「坂本くんに言われてから読むと、音がある気がする」
理織の髪から、ほのかに甘い香りがした。
優は視線をページへ戻した。
「私は意味ばかり読んでたな」
「普通はそうだと思います」
「でも、言葉にも旋律があるのかもね」
その言葉に、優は昼間の練習室を思い出した。
父の文章から生まれた、短い旋律。
「……あるのかもしれません」
理織が優を見る。
「何かあった?」
「今日、少しだけ弾きました」
「何を?」
「その本を読んでたら、音が浮かんで」
理織の表情が明るくなる。
「曲を作ったの?」
「作ったというほどじゃありません」
「録音してないの?」
「少しだけなら」
優はスマートフォンを取り出した。
自分で聴き直すつもりはなかった。
それでも、練習室を出る前に短く録音していた。
なぜ残したのか、自分でも分からなかった。
「聴かせて」
「短いですよ」
「うん」
優は音量を下げ、録音を再生した。
店内に、小さなピアノの音が流れる。
低い音が一つ。
間を置いて、同じ音。
そこへ静かに和音が重なる。
理織は何も言わず、耳を傾けていた。
十数秒で、音は途切れた。
「終わりです」
理織はすぐには口を開かなかった。
もう一度、聴くように目を閉じている。
「これ、その本を読んで浮かんだの?」
「はい」
「不思議」
「何がですか」
「言葉から、音が生まれたんだね」
理織は文庫本へ目を落とす。
「私が何度も読んだ言葉が、坂本くんの中ではこんな音になるんだ」
「人によって違うと思います」
「だからいいんじゃない?」
理織は柔らかく笑った。
「坂本くんにしか聴こえない旋律なんだよ」
その言葉が、優の胸に残った。
父の文章を読んで生まれた音。
それは父のものなのか。
それとも、自分のものなのか。
まだ分からなかった。
「店長は」
「うん?」
「この本に助けられたって言ってましたよね」
理織の表情が、少しだけ変わった。
「言ったね」
「その時、何があったんですか」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
「すみません。言いたくなければ」
「大丈夫」
理織はそう言って、カウンターの奥を見た。
客はいない。
コーヒーメーカーの低い音だけが店内に響いている。
「この店を始める前、会社員だったんだ」
「そうなんですか」
「うん。普通に働いて、普通に給料をもらって、普通に生活してた」
「辞めたかったんですか」
「最初は、そうでもなかったかな」
理織は少し考えるように指を組んだ。
「仕事が嫌いだったわけじゃないの。でも、気づいたら毎日、誰かが求める自分でいることばかり考えてた」
「誰かが求める自分」
「上司が喜ぶ私。周りに心配をかけない私。ちゃんとしてる私」
理織は小さく笑った。
「周りから見たら、何も困ってなかったと思う。仕事もあったし、普通に暮らしてたから」
「でも、違った?」
「うん」
理織は窓の外へ目を向けた。
「自分の人生なのに、自分がどこにもいない気がしたんだ」
優は何も言えなかった。
いつも明るく笑う理織からは、想像していなかった言葉だった。
「それで、この本を?」
「その頃に読んだの」
理織は文庫本を手に取る。
「この本は、頑張れって言わなかった。前を向けとも言わなかった」
表紙を撫でながら、静かに続ける。
「ただ、立ち止まってる私も、そこにいていいって言ってくれた気がした」
「それで会社を辞めたんですか」
「すぐには辞めてないよ」
理織は笑った。
「本を一冊読んで、人生が全部変わったわけじゃない。そんなに簡単じゃないから」
「そうですよね」
「でも、自分が何を好きだったのか、少しずつ考えるようになった」
理織は店内を見回した。
「コーヒー。本。音楽。それからオムライス」
「最後だけ少し違いませんか」
「大事だよ、オムライス」
理織は真面目な顔で言ったあと、笑った。
「好きなものを一つずつ集めてたら、この店になったの」
優も店内を見た。
本棚。
静かに流れる音楽。
コーヒーの香り。
壁に飾られた小さな絵。
それらはすべて、理織が選んだものだった。
「店長にも、そういう時があったんですね」
「あるよ。私を何だと思ってたの?」
「いつも平気そうな人」
「それ、褒めてる?」
「はい。」
「褒められてるんだ。」
理織は笑った。
優も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
父の言葉を知りたくて、本を開いたはずだった。
けれど今は、理織のことをもっと知りたいと思っている。
彼女がどんな時間を過ごし、何に迷い、何を選んでこの場所にいるのか。
そのことが、父の文章よりも気になり始めていた。
その時、優のスマートフォンが震えた。
画面には、香の名前が表示されている。
『今日、駅前で歌う。暇なら聴きに来て。今度こそ』
優は画面を見つめた。
「友達?」
理織が尋ねる。
「大学の同級生です」
「ライブ?」
「路上で歌ってます」
「へえ。すごいね」
「何度か誘われてるんですけど」
「行ってないの?」
「時間が合わなくて」
嘘ではなかった。
けれど、本当の理由はそれだけではない。
香の歌を聴けば、自分も何かを返さなければならない気がしていた。
彼女はいつも、優のピアノを聴きたいと言う。
それなのに優は、香の音へ向き合うことをどこか避けていた。
「今日も行かないの?」
「まだ決めてません」
理織は少し不思議そうに優を見る。
「その人、坂本くんの音を聴きたいって言ってくれる人なんでしょ」
「たぶん」
「なら、その人の音も聴きに行った方がいいんじゃない?」
優はスマートフォンへ視線を落とした。
香の言葉を思い出す。
――私は歌う人。優は奏でる人。
優は短く返信した。
『少しだけなら行ける』
ほとんど間を置かず、返事が来た。
『絶対来て』
その文面を見て、理織が笑う。
「楽しみにされてるね」
「そうみたいです」
「じゃあ、今日は早く上がっていいよ」
「でも」
「今はお客さんも少ないし、片づけは私一人でもできるから」
「それは悪いです」
「じゃあ、次のシフトで少し多めに働いて」
「分かりました」
「素直でよろしい」
理織は立ち上がった。
「友達の歌、ちゃんと聴いてきて」
「はい」
◇
仕事を終え、優は駅へ向かった。
夜の空気は少し冷たかった。
鞄の中には、父の本がある。
スマートフォンには、その言葉から生まれた短い旋律が残っている。
駅へ近づくにつれ、ギターの音が聞こえてきた。
その音に重なるように、香の歌声が夜の街へ流れている。
強くはない。
けれど、誰かに届くことを恐れていない声だった。
優は足を止めず、その歌声へ近づいていく。
言葉にも、旋律がある。
その夜、優はそれを確かめるように、香の歌う場所へ向かった。




