第5話 伝えきれない言葉
坂本樹は、窓の外を見ていた。
出版社の会議室は、ひどく静かだった。
机の上には、赤字の入った原稿が置かれている。
ページの端には付箋が何枚も貼られ、華の細い文字が余白を埋めていた。
「後半、逃げたでしょう」
向かいに座る華が言った。
樹は窓から視線を戻す。
「逃げたつもりはない」
「なら、分かっていないのね」
「何を」
「主人公が何を恐れているのかを」
華は原稿を一枚めくった。
「この場面、本当なら彼は彼女に言葉をぶつけるはずよ。それなのに、あなたは風景描写で誤魔化した」
「誤魔化してはいない」
「雨が降る。窓が曇る。遠くで電車が走る」
華は淡々と読み上げる。
「綺麗だけど、何も言ってない」
樹は黙った。
言い返せなかった。
華は昔から、樹が隠したものを見つけるのが上手かった。
原稿の中でも。
現実の中でも。
「書き直す」
「そうして」
華は原稿を閉じた。
会議室の隅には、ほとんど手をつけられていないコーヒーが置かれている。
湯気はもう消えていた。
華がそちらを見る。
「また冷たくなるまで忘れてたの?」
「飲んでるよ」
「最初の一口しか飲んでないでしょう」
樹はカップを手に取った。
口をつける。
冷たかった。
「冷めてるな…」
「でしょうね」
華は小さく息をつき、内線電話に手を伸ばした。
「コーヒーをもう一杯お願い。」
「このままで良いから…」
「どうせまた長くなるから必要よ」
その言い方に、樹は何も返さなかった。
夫婦だった頃から変わらない。
華は樹の生活を管理しようとはしない。
ただ、放っておけば樹が何を忘れるのかを知っている。
食事。
時間。
約束。
そして、ときどき人の気持ちまで。
◇
新しいコーヒーが運ばれてくるまでの間、華は次の資料を取り出した。
「刊行時期は秋で進めるわ」
「君に任せるよ」
「またそれ」
「編集者の君を信頼してるから」
「あっ、もちろん、人としてもね……」
「便利な言葉ね」
華の口元が、わずかに緩む。
その言葉に、樹は少しだけ眉を寄せた。
「違うかい?」
「ありがと……」
華は資料を揃え直した。
打ち合わせは、いつも通りだった。
樹が書く。
華が読む。
足りないものを指摘する。
離婚しても、その関係だけは変わらなかった。
華は樹の作品を誰よりも早く読み、誰よりも厳しく直す。
樹もまた、華の言葉だけは無視しなかった。
それが仕事だからなのか。
それとも、もう少し別の理由が残っているのか。
二人とも、口にはしなかった。
新しいコーヒーが置かれ、担当者が部屋を出ていく。
樹はカップに手を伸ばした。
今度は温かい。
しばらく沈黙が続いた。
樹は原稿の端を指で押さえながら、何気ない口調で言った。
「優は、どうしてる」
華の手が止まった。
けれど、驚いた様子は見せない。
「気になるなら、自分で聞けばいいでしょう」
「それができるなら尋ねたりしないよ」
「そうね」
華は資料から目を上げた。
「元気よ」
「大学は」
「ちゃんと通ってる」
「ピアノは続けてるのか」
「あの子の音は心に触れる……」
「あなたの言葉と同じで……」
樹はコーヒーを飲んだ。
優が音楽を続けていることに、少しだけ安心した。
けれど、その安心を表情には出さなかった。
「来年、短期留学を考えてるみたい」
樹の指が止まる。
「留学?」
「三週間のプログラム。夏にね」
「聞いてない」
「聞かれてないもの」
華の言葉は静かだった。
責める調子ではない。
それが、かえって樹には痛かった。
「費用は」
「私が出すと言ったけど、自分でも貯めたいんですって」
「なら、俺が出す」
華はすぐには答えなかった。
樹を見る。
「そういう話じゃないの」
「分かってる」
「いいえ。分かってたら、最初にお金の話はしないわ」
「じゃあ、どうすればいい」
「それを私に聞くの?」
樹は黙った。
華はため息をつかなかった。
怒りもしなかった。
「優は、自分の音楽くらい、自分で選びたいのよ」
「選ばせてる」
「あなたが何もしないことと、選ばせることは違うわ」
樹は視線を落とした。
華の前では、言葉が足りなくなる。
正確には、言葉を選びすぎて何も言えなくなる。
書く時は違った。
人の悲しみも、怒りも、孤独も、いくらでも文章にできた。
なのに、自分のことになると途端に分からなくなる。
「アルバイトも始めたわ」
「優が?」
「カフェで働いてる」
「接客を?」
「意外でしょう」
「……少し」
樹は、カウンターの向こうに立つ優を想像した。
愛想よく笑う姿は、うまく浮かばなかった。
けれど、客の注文を真剣に聞く顔なら、少しだけ想像できた。
「どこの店だ」
「知らない」
「母親なのに?」
「全部を知ってるわけじゃないわ」
華はそう言ってから、少しだけ目を細めた。
「あなたよりは知ってるけど」
樹は返せなかった。
◇
華は原稿を鞄にしまいかけて、ふと手を止めた。
「そういえば」
「何だ」
「優、あなたの本を読んだみたい」
樹の視線が上がった。
「どの本を」
華は呆れたように笑った。
「そこ、重要なところ?」
「気になるだろう」
「タイトルまでは聞いてないわ」
「今更どうして?」
「知らない」
「聞かなかったのか」
「聞いても答えないでしょうね」
華は椅子の背にもたれた。
「働き始めた店の店長が、あなたの本を好きなんですって」
「店長が」
「ええ。大切にしてる本らしいわ」
樹は何も言わなかった。
優が自分の本を読んだ。
その事実が、胸の奥に静かに沈んでいく。
嬉しいのかどうか、自分でも分からない。
ただ、なぜか落ち着かなかった。
「その人が好きだから読んだのか」
「たぶんね」
「俺の本だからじゃなく」
「それを期待してたの?」
「そういう意味じゃない」
「なら、いいでしょう」
華は樹を見た。
「きっかけが何でも、本を開いたことには変わりないわ」
樹はコーヒーカップに視線を落とす。
優がどんな顔で自分の本を読んだのか、想像した。
嫌そうな顔をしただろうか。
途中で閉じただろうか。
何か一つでも残ったのだろうか。
「何か言ってたか」
「『父さんの本って、そんなにいいの?』って」
樹の眉が、わずかに動いた。
「それだけ?」
「それだけ」
「華は何て答えた」
「本物だと思ってるって」
樹は華を見る。
「今も?」
「作家としてはね」
華は迷わず言った。
「そこは今も変わらないわ」
樹は視線をそらした。
褒められた気はしなかった。
華の言葉には、いつも続きがある。
それを聞かなくても分かった。
「父親としては?」
「聞きたい?」
「……いや」
「そう」
会議室に沈黙が戻る。
華は原稿を鞄に入れた。
「優は、あなたの言葉が嫌いなわけじゃないと思う」
樹は顔を上げなかった。
「分かってる」
「なら、何を嫌ってるかも分かってるでしょう」
華の声は静かだった。
樹の中に、古い光景が浮かんだ。
小さな舞台。
白いシャツを着た優。
客席に並ぶ椅子。
一つだけ空いた席。
樹がそこに座るはずだった。
その日、樹は書斎にいた。
あと一行。
あと一場面。
そう思っているうちに、時間が過ぎた。
気づいた時には、発表会は終わっていた。
完成した原稿の横で、携帯電話が何度も光っていた。
華からの着信。
それから、短いメッセージ。
――もう来なくていい。
樹は目を閉じた。
「あの子は覚えてるわ」
「俺も覚えてる」
「覚えてるだけじゃ、何も変わらない」
「分かってる」
「あなた、さっきからそればかりね」
華の言葉に、樹は苦く笑った。
「今さら、何を話せばいい」
「それも私に聞くの?」
「言葉が出ない」
「あなたが?」
華の目が少しだけ鋭くなる。
「知らない人に向ける言葉なら、いくらでも書けるのにね」
「知っている相手ほど、言葉は難しい」
「難しいからって黙っていた結果が、今でしょう」
樹は何も言えなかった。
華は立ち上がった。
「原稿、来週までに」
「ああ」
「逃げないで書いて」
「分かってる」
華は鞄を肩にかけ、扉へ向かう。
その背中に、樹は声をかけた。
「華」
華が振り返る。
「優は……俺のことを、まだ嫌ってるか」
華はしばらく樹を見ていた。
「それを確かめるのも、あなたの役目でしょう」
それだけ言って、部屋を出ていった。
◇
夜、樹は一人で家へ戻った。
玄関の灯りをつける。
返事はない。
当然だった。
靴を脱ぎ、まっすぐ書斎へ向かう。
壁一面の本棚。
机の上には、書きかけの原稿。
窓際には、読み終えていない資料が積まれている。
昔とほとんど変わらない部屋だった。
変わったのは、ここに誰も来なくなったことくらいだ。
樹は机に座った。
華から返された原稿を開く。
赤字が目に入る。
――ここで逃げない。
――主人公に言わせる。
――沈黙で済ませない。
樹はペンを持った。
しばらく原稿を見つめる。
けれど、文字は出てこなかった。
代わりに、華の言葉が浮かぶ。
優、あなたの本を読んだみたい。
樹はペンを置いた。
スマートフォンを手に取る。
連絡先から、優の名前を探す。
すぐに見つかった。
画面を開く。
最後のやり取りは、三年前だった。
『誕生日おめでとう』
『ありがとう』
それだけ。
その前も、似たようなものだった。
短い言葉。
途切れた会話。
樹は入力欄に指を置いた。
『留学を考えていると聞いた』
打ってから、消した。
『本を読んだそうだな』
それも消した。
『アルバイト、頑張っているらしいな』
違う気がした。
消す。
しばらく考えてから、
『元気か』
と打った。
画面の中に、四文字が並ぶ。
それだけなのに、送信ボタンを押せなかった。
今さら何を聞くのか。
元気だったら、何だというのか。
元気でなかったら、自分に何ができるのか。
樹は入力した文字を見つめ続けた。
やがて、それも消した。
空白の入力欄だけが残る。
樹はスマートフォンを伏せた。
机の上には、書き直すべき原稿がある。
原稿なら、何度でも書き直せる。
失敗した一文も、間違えた場面も、消してやり直せる。
けれど。
何万人もの読者に届く言葉を書けても、
たった一人の息子に送る言葉だけが、樹には書けなかった。




