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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第4話 開かれた扉

その夜、優は父の本を読んでいた。

 読みたいと思ったわけではない。

 父を理解したいと思ったわけでもない。

 ただ、理織が大事にしているものを、何も知らないままでいるのが嫌だった。

 それだけだった。

 机の上には、開いたままの文庫本。

 隣には、冷めかけたコーヒー。

 部屋の中は静かで、ページをめくる音だけがやけに大きく聞こえた。

 最初の数行を読むだけで、指先が固くなった。

 父の言葉だ。

 そう思うたびに、胸の奥が重くなる。

 けれど、読みにくい文章ではなかった。

 むしろ、静かに入ってくる。

 派手な言葉はない。

 強く励ますような文章でもない。

 悲しみを消してくれるわけでもない。

 ただ、そこにいる。

 傷ついた人の隣に、何も言わずに座るような言葉だった。

 それが、余計に嫌だった。

 認めたくなかった。

 父の文章が、誰かに届く理由を。

 理織がこの本を何度も読み返した理由を。

 優は一度、本を閉じようとした。

 けれど、指は表紙まで戻らなかった。

 ページの中に、ある一文があった。

 ――帰る場所を失った人は、初めて自分がどこへ帰りたかったのかを知る。

 優は、その一文からしばらく目を離せなかった。

 意味を考えたくなかった。

 自分に重ねたくもなかった。

 それでも、胸の奥のどこかが小さく痛んだ。

 だったら。

優は思った。

父さんは、知ろうとしたのかな。

僕と母さんが、どこへ帰りたかったのかを。

 机の上の文字は、何も答えなかった。

     ◇

 翌朝、目覚ましの音で目を覚ました時、頭が少し重かった。

 結局、どこまで読んだのかはよく覚えていない。

 途中で何度も同じページを読み返し、何度も止まった。

 分かったことがあるとすれば、ひとつだけだった。

 父の本は、思っていたよりも読めてしまった。

 それが、腹立たしかった。

 ダイニングへ行くと、華がすでにコーヒーを飲んでいた。

「おはよう」

「おはよう」

 優は椅子に座り、トーストに手を伸ばす。

 華は一目見ただけで、少しだけ眉を上げた。

「寝不足?」

「少し」

「本でも読んでた?」

 優の手が止まった。

「……まあ」

「そう」

 華はそれ以上、聞かなかった。

 トーストを口に運びながら、優は母の横顔を見た。

 華は分かっているのかもしれない。

 自分が何を読んだのか。

 なぜ、寝不足になるまで読んでしまったのか。

 けれど、踏み込んではこない。

 そういう人だった。

「読み慣れない本は、疲れるわよ」

「そういう問題じゃない」

「そう」

 華は短く答え、コーヒーを飲んだ。

 その何も聞かない優しさが、今は少しだけありがたかった。

     ◇

 大学へ向かう電車の中でも、優の頭には昨夜の一文が残っていた。

 帰る場所を失った人は、初めて自分がどこへ帰りたかったのかを知る。

 父は、どういうつもりであの一文を書いたのだろう。

 誰に向けたのか。

 何を思っていたのか。

 そんなことを考えている自分に気づき、優は軽く舌打ちした。

 考えたくない。

 なのに、考えてしまう。

 父の言葉を読むことは、父を許すことではない。

 そう思うのに、胸の中は落ち着かなかった。

 午前の講義は、ほとんど上の空だった。

 ノートは取っている。

 講師の話も耳には入っている。

 けれど、心のどこかが別の場所にあった。

 昼過ぎ、廊下を歩いていると、ギターケースを背負った香が前からやってきた。

「優」

「何」

「顔、眠そう」

「普通」

「うそ……」

「何でも見抜いた気になるなよ」

「見抜いたんじゃなくて、顔に出てる」

 香は少しだけ顔を近づけるようにして、優を見た。

「昨日、バイト遅かったの?」

「八時くらい」

「じゃあ寝不足の理由にならないね」

「ならないって決めるなよ」

「他に何かあった?」

「別に」

「ふうん」

 香はそれ以上聞かなかった。

 けれど、納得していない顔だった。

「今日もバイト?」

「うん」

「じゃあ、今日も路上誘うのやめとく」

「毎回誘う気だったのか」

「当たり前でしょ。優の音色聴いたら絶対みんな足止めるのに」

「そういうのは香がやればいい」

「私は歌う人。優は奏でる人」

「勝手に決めるな」

「じゃあ、いつか自分で決めて」

 香はそう言って、軽く手を振った。

「初バイト二日目、頑張って」

「うん」

 香は廊下の向こうへ歩いていった。

 優はその後ろ姿を見送りながら、ふと自分の鞄の重さを意識した。

 中には、昨夜読んだ文庫本が入っている。

 家に置いてくるつもりだった。

 持ち歩く理由なんてない。

 それなのに、出る直前、なぜか鞄に入れてしまった。

 読み終えたかったわけじゃない。

 父の本を持っていたかったわけでもない。

 ただ、置いていけなかった。

     ◇

 夕方、優はCafé Mélodieの前に立った。

 昨日よりは緊張していない。

 けれど、別の落ち着かなさがあった。

 理織に会う。

 そう思うと、鞄の中の文庫本が少しだけ重くなる。

 扉を開けると、ベルが鳴った。

「お疲れさま、坂本くん」

 カウンターの奥で理織が顔を上げる。

「お疲れさまです。今日もよろしくお願いします」

「よろしく。……眠そうだね」

「少しだけです」

「ちゃんと寝ないと、接客中にコーヒーと水を間違えるよ」

「それはしません」

「なら安心」

 理織は笑い、エプロンを指さした。

「昨日よりは自分で結べそう?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

「今日はできます」

 優はエプロンを着け、後ろで紐を結んだ。

 少し時間はかかったが、昨日よりはうまくいった。

「お、成長」

「エプロンで成長扱いされても」

「小さな成長は大事だよ」

 理織はそう言って、注文票を整えた。

「今日は昨日より少し忙しくなるかも。無理せず、分からなかったら呼んで」

「はい」

     ◇

 二日目の仕事は、初日よりも少しだけ体が動いた。

 水を出す。

 注文を聞く。

 空いた皿を下げる。

 テーブルを拭く。

 ひとつひとつは単純なのに、客の流れが重なると一気に頭を使う。

 それでも、昨日よりは周りが見えていた。

 夕方、常連らしき男性が入ってきた。

 優は少しだけ迷ったあと、水を出しながら言った。

「ご注文がお決まりでしたら、お呼びください」

「じゃあ、アメリカンとパンケーキを」

「焼き上がりまで少々お時間をいただきますが、大丈夫でしょうか」

「大丈夫だよ」

「かしこまりました」

 カウンターに戻ると、理織が小さく拍手する真似をした。

「ちゃんと注文取れた!」

「優秀」

 理織は笑いながら、パンケーキを焼き始めた。

 その何気ないやり取りが、少しだけ心地よかった。

 父の本を読んだことも、

 その言葉に引っかかっていることも、

 この店の中では少しだけ遠くなる気がした。

 けれど、完全には消えない。

 理織が本棚の前を通るたび、優の視線は自然とそこへ向いた。

 あの文庫本が、変わらず棚に並んでいる。

 鞄の中にも、同じ本がある。

 それだけで、胸の奥が落ち着かなくなった。

     ◇

 閉店後、店内には洗い終えた食器の音だけが残っていた。

 優が最後のテーブルを拭いていると、理織がカウンター席に腰を下ろした。

「坂本くん」

「はい」

「昨日の本、気になった?」

 優は手を止めた。

 理織は、昨日と同じ文庫本を手元に置いていた。

「……少し」

「読んでみた?」

 優は一瞬、迷った。

 読んだと言えば、理織はきっと嬉しそうにする。

 けれど、その本の作者が自分の父だとは言えない。

 言えば、何かが変わってしまう気がした。

「……少しだけ」

「え、本当に?」

 理織の顔がぱっと明るくなった。

 その反応に、優はかえって困った。

「全部じゃないです」

「それでも嬉しいな」

「そんなにですか」

「うん。好きな本を誰かが少しでも読んでくれるのって、嬉しいよ」

 理織は文庫本の表紙を撫でる。

「どうだった?」

「……まだ、よく分かりません」

「正直」

「すみません」

「謝らなくていいよ。無理に好きって言われるより、その方がいい」

 理織は少し考えるように視線を落とした。

「あの人の小説ってね、無理に前を向けって言わないところが好きなんだ」

「前を向けって言わない?」

「うん。頑張れとか、大丈夫とか、そういう言葉じゃなくて。

 動けない日があっても、その日ごと置いていかない感じがする」

 優の胸に、昨夜読んだ一文が浮かんだ。

 帰る場所を失った人は、初めて自分がどこへ帰りたかったのかを知る。

 理織が言っていることが、少しだけ分かる気がした。

 それがまた、嫌だった。

 そんな言葉を書ける人が、

 どうして自分には何も言えなかったのだろう。

 どうして母には、届かなかったのだろう。

「坂本くん?」

「……はい」

「難しかった?」

「難しいというか」

「うん」

「少し、引っかかりました」

 それは本当だった。

 理織は小さく頷いた。

「引っかかる本って、悪くないと思う」

「そうですか」

「うん。すぐ忘れる本より、ずっといい」

 理織はそう言って、柔らかく笑う。

「坂本くんにも、いつか刺さる一冊があったらいいね」

 優は答えられなかった。

 刺さる一冊。

 自分にとって坂本樹は、好きな作家でも、救ってくれた言葉の人でもない。

 父親だった。

 そして、その事実を理織は知らない。

 知られたくない。

 そう思った。

 知られたら、理織は自分を見る目を変えるかもしれない。

 坂本樹の息子として見るかもしれない。

 父のことを聞いてくるかもしれない。

 彼女の中にいる“好きな作家”と、

 自分の中にいる“家族より作品を選んだ父”が、

 同じ人間だと気づいてしまうかもしれない。

 それが、怖かった。

「……そうですね」

 優は、ようやくそれだけを返した。

     ◇

 帰り支度を終え、優は鞄を肩にかけた。

「今日もお疲れさま」

「お疲れさまでした」

「昨日より動けてたよ」

「エプロン以外で成長しましたか」

「したした。ちゃんと」

 理織は笑った。

「じゃあ、気をつけて帰ってね」

「はい。失礼します」

 店を出る直前、優は一度だけ鞄に手を添えた。

 中には、父の文庫本が入っている。

 理織は気づいていない。

 そのことに、少しだけほっとしている自分がいた。

 優は外に出て、夜の空気を吸った。

 読み終えたかったわけじゃない。

 持ち歩きたかったわけでもない。

 ただ、その本を置いてくることが、なぜかできなかった。

 父の本は、鞄の中で静かに重かった。

 まるで、まだ返事をしていない手紙みたいに。

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