第3話 あの人の言葉……
「私、この人の本が本当に好きなんだ」
理織は文庫本を胸元に寄せたまま、静かに笑った。
「たぶん、人生で一番」
その言葉を聞いた瞬間、優は何も返せなくなった。
坂本樹。
彼女が何度も読み返し、
この人の言葉に助けられたと言った作家。
それは、優の父だった。
自分と母には届かなかった言葉を、
理織は大切そうに抱えている。
その事実が、胸の奥に小さな棘のように引っかかった。
「坂本くん?」
理織の声で、優はようやく意識を戻した。
「……すみません」
「どうしたの?」
「いえ。少し、考え事をしてました」
「そっか」
理織はそれ以上追及しなかった。
けれど、優の様子を気にかけるように少し首を傾げる。
「坂本くんは、本あまり読まないの?」
「読む時は読みます」
「樹先生の本は?」
「……ちゃんとは」
「もったいないなあ」
理織は冗談めかして言ったが、目元は柔らかかった。
「もちろん、好みは人それぞれだけどね。私はすごく好き」
「……そうなんですね」
「うん」
理織は文庫本の表紙に視線を落とす。
「この本、しんどい時に何度も読み返したんだ」
優の指先が、わずかに強張った。
「しんどい時?」
「うん。何も変わらない日が続いて、どうしていいか分からなくなった時」
理織は、詳しくは語らなかった。
過去を説明するような話し方でもなかった。
ただ、事実としてそうだったのだと、静かに口にした。
「この人の言葉って、不思議なんだよね」
「不思議?」
「書いた人は、こっちのことなんて何も知らないのに。
どうして、今の自分に必要な言葉を置いていってくれたんだろうって思う時がある」
理織は少し笑った。
「私は、何度かそれに救われた」
優は、返す言葉を見つけられなかった。
父の本を、まともに読んだことはない。
表紙を見ただけで、胸の奥が重くなった。
数ページめくっても、そこに並ぶ言葉が父のものだと思うだけで、先へ進めなくなった。
それなのに理織は、
その言葉に救われたと言う。
優にとっては、家族よりも作品を選んだ父の言葉。
理織にとっては、苦しい日々の中で手を伸ばせた言葉。
同じものを見ているはずなのに、まるで違う。
「坂本くん?」
「あ……はい」
「ごめん。疲れてるのに長々話しちゃった」
「いえ」
「好きなものの話になると、ついね」
理織は少しだけ照れたように笑った。
その表情が、なぜか優の胸に残る。
「……いいと思います」
「何が?」
「好きなものを、そうやって話せるのは」
理織は少し意外そうに目を丸くし、それからふっと笑った。
「ありがとう」
その一言が、妙にやさしく聞こえた。
「今日はもう帰って大丈夫だよ。初日から遅くまでお疲れさま」
「はい。ありがとうございました」
「また次のシフトでね」
「失礼します」
優は軽く頭を下げ、Café Mélodieを後にした。
◇
夜の空気は少し冷たかった。
優は駅へ向かって歩きながら、何度も理織の言葉を思い返していた。
――この人の言葉に、何度か助けられたから。
――どうして、今の自分に必要な言葉を置いていってくれたんだろうって思う時がある。
そんなふうに、父の本を読む人がいることくらい知っていた。
書店に行けば平積みになっている。
新刊が出れば広告が出る。
ネットでは感想も流れてくる。
父の本を好きな人は、たくさんいる。
でも、それはずっと遠い場所の話だった。
顔も知らない誰かが父の本を褒めていても、
優には関係ないと思えた。
けれど理織は違う。
あの人が、あの柔らかな声で、
父の言葉に救われたと話した。
そのことだけが、妙に引っかかる。
優は歩きながら、無意識に鞄の持ち手を握りしめていた。
父の言葉を読むことは、
父を認めることのような気がしていた。
作品を優先した父を。
母よりも、自分よりも、物語を選んだ父を。
だから、読まなかった。
読まずにいれば、
自分の中で父を遠ざけていられる気がしていた。
けれど。
理織が大事にしているものを、
何も知らないままでいるのも、少し違う気がした。
◇
家に帰ると、リビングの灯りがまだついていた。
華はソファに座り、膝の上にタブレットを置いて何かを読んでいる。
テーブルの上には、飲みかけの紅茶と赤いペンが一本。
「おかえり」
「ただいま」
「初日はどうだった?」
「思ったより疲れた」
「でも、辞めたい顔ではないわね」
華はタブレットから目を上げ、少しだけ笑った。
「……悪くはない」
「そう」
「店長も、ちゃんとしてる人だった」
「それはよかった」
華はまた画面へ視線を戻した。
優は自分の部屋へ向かおうとして、ふと足を止める。
「母さん」
「なに?」
「父さんの本って、そんなにいいの?」
華の指が、画面の上で静かに止まった。
すぐには答えず、優の方を見る。
「急にどうしたの?」
「別に」
「誰かに勧められた?」
「……店長が、好きらしい」
「父さんの本を?」
「うん」
華は少しだけ意外そうに眉を上げたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「そう。あの人の読者は多いからね」
「母さんも、今でもそう思う?」
「作家として?」
「……うん」
華は迷わなかった。
「思うわ。今も、本物だと思ってる」
その答えは、予想していたはずなのに、優の胸に小さく響いた。
「そんなに?」
「そんなに」
華はタブレットをテーブルに置く。
「あの人は、夫や父親としては……不器用だったけれど」
そこで一度、言葉を選ぶように間を置いた。
「書くことに関してだけは、昔から変わらないの」
「……知ってる」
「そうね」
華は静かに頷いた。
それ以上、父の話を続けようとはしなかった。
優も、何を聞きたいのか自分で分からなかった。
理織が父の本を好きだったこと。
母が今でも父を作家として認めていること。
その二つが、頭の中でうまく整理できないまま重なっている。
「初出勤で疲れたでしょう。早く休みなさい」
「うん」
「明日も授業あるんでしょ」
「ある」
「ならなおさら」
優は小さく頷き、自室へ向かった。
◇
部屋の灯りをつける。
ベッド。
机。
楽譜の積まれた棚。
ピアノの練習用に書き込んだ譜面。
いつもの部屋だった。
けれど、その夜は、部屋の隅に置かれた小さな本棚がやけに目に入った。
父の本は、そこに数冊だけある。
華が昔、置いていったもの。
父から送られてきたもの。
何かの折に手元へ残ったもの。
どれも、ほとんど開いていない。
優は本棚の前に立った。
表紙を見ただけで、少し胸が重くなる。
昔と変わらない。
それでも、その中の一冊に手を伸ばした。
理織が持っていた文庫本と同じ表紙。
何度も目にしてきたはずなのに、
こうして自分から手に取るのは初めてだった。
優は机に座り、本を開く。
最初のページ。
作者名。
タイトル。
そして、本文。
文字が並んでいるだけなのに、しばらく視線を落とせなかった。
父の言葉だと思うと、指先まで固くなる。
けれど、理織はこの本を何度も読み返した。
しんどい時に、そこから何かを受け取った。
それが何だったのか、
少しだけ知りたいと思った。
読んでみたいと思ったわけじゃない。
父を理解したいと思ったわけでもない。
ただ、理織が大事にしているものを、
何も知らないままでいるのが嫌だった。
優はゆっくりと、最初の一行へ視線を落とした。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
それでも、その夜の優は、
本を閉じなかった。




