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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第2話 彼女の好きな言葉

初出勤の日、優は授業が終わるとすぐにロッカーへ向かった。

 鞄の中には、筆記用具と楽譜のほかに、カフェの仕事で使うために用意した黒いパンツと白いシャツが入っている。

 理織からは、上に着るエプロンは店で用意すると言われていた。

 ロッカーの扉を閉めたところで、後ろから声がした。

「優」

 振り向くと、ギターケースを背負った永山香が立っていた。

「今日、ストリート立つからピアノ弾いてよ?」

「行けない。バイト」

「え、決まったの?」

「この前言ってたやつ」

「へえ。優が接客業」

「向いてないって言いたい?」

「言ってないよ」

 香は笑いながら、少しだけ間を置いた。

「でも、見てみたいかも」

「何を」

「“いらっしゃいませ”って言ってるところ」

「来るなよ」

「考えとく」

「来る気じゃん」

「どうかな」

 香は楽しそうに肩をすくめた。

「じゃ、初バイト頑張って」

「うん」

「失敗しても、そのまま帰らないでね」

「子どもじゃないんだけど」

「優はたまに、全部一人で抱えるから」

 軽い口調だった。

 けれど、何気なく言われたその一言に、優は少しだけ言葉を失った。

 香はもう気にした様子もなく、手を振る。

「じゃあね」

「……うん」

 彼女の背中を見送りながら、優は鞄の持ち手を握り直した。

 香は、たまに妙なところを見ている。

 本人に自覚があるのかは分からない。

     ◇

 夕方の街は、まだ昼の明るさを少し残していた。

 優は駅から数分歩き、Café Mélodieの前で足を止める。

 木の扉。

 控えめな看板。

 窓の向こうに見える、柔らかな灯り。

 面接で来た時よりも、今日は少しだけ緊張した。

 もう客ではなく、働く側としてこの扉を開けるのだと思うと、妙に落ち着かない。

 優は一度息を整え、扉を開けた。

 小さなベルが鳴る。

「いらっしゃ……あ、坂本くん」

 カウンターの奥から理織が顔を上げた。

 今日もベージュのエプロンをつけている。

「こんばんは。よろしくお願いします」

「うん。よろしく。ちゃんと時間ぴったりだね」

「初日なので」

「初日じゃなくても守ってくれると助かる」

「守ります」

「よし!」

 理織は笑って、カウンターの内側から一枚のエプロンを取り出した。

「これ、坂本くんの分。着けてみて」

「はい」

 受け取ったのは、理織のものより少し濃い茶色のエプロンだった。

 胸元に小さく店名が刺繍されている。

 優はシャツの上からエプロンをかけ、腰の後ろで紐を結ぼうとした。

 けれど、うまく手が回らず、結び目がきれいに作れない。

「……」

「苦戦してる?」

「少しだけ」

「貸して」

 理織は自然に優の後ろへ回った。

 背中側で紐を受け取られ、指先が一瞬だけ近づく。

 たったそれだけのことなのに、優は無意識に背筋を伸ばした。

「そんなに固まらなくても」

「固まってません」

「固まってるよ」

「……慣れてないだけです」

「エプロンに?」

「人に結んでもらうのに」

「そっちか」

 理織は小さく笑いながら手早く紐を結ぶ。

「はい、できた」

「ありがとうございます」

「似合ってる」

「そうですか」

「うん。思ったより店員っぽい」

「それは褒めてますか」

「褒めてる褒めてる」

 理織は軽やかに言って、店内を見回した。

「じゃあ、最初に簡単に説明するね」

「はい」

     ◇

 理織の説明は、分かりやすかった。

 グラスの置き場所。

 水の出し方。

 伝票の使い方。

 注文を聞いた時の書き方。

 食器を下げるタイミング。

 一度に詰め込みすぎず、必要なことだけを順番に教えてくれる。

「レジはもう少し慣れてからでいいよ。今日は注文と配膳、それから片付けを覚えて」

「分かりました」

「分からなくなったら、すぐ聞いて。黙って固まるのが一番困るから」

「……はい」

「今、一瞬図星だった?」

「そういうわけでは」

「ふふ」

 理織はそれ以上突っ込まず、コーヒーカップを棚へ戻した。

 優は内心で、小さく息を吐く。

 理織は話しやすい。

 変に距離を詰めすぎてくるわけではない。

 けれど、こちらが必要以上に身構える前に、自然と空気を緩めてしまう。

 それが、少し不思議だった。

 やがて、扉のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 理織の声と同時に、年配の女性が入ってくる。

「あら、理織ちゃん。新しい子?」

「うん。今日から入ってくれる坂本くん」

「そうなの。よろしくね」

 女性は優に向かってにこやかに笑った。

「……よろしくお願いします」

「じゃあ坂本くん、最初いってみようか」

 理織が小声で言う。

「はい」

 優は伝票を持って席へ向かった。

「ご注文、お決まりでしょうか」

「いつものブレンドと、今日は甘いものも少し欲しいわ」

 “いつもの”と言われても、優には分からない。

 一瞬だけ思考が止まりかける。

 その時、カウンターの方から理織の声が届いた。

「シフォン、半分にしておく?」

「そうしてもらえると嬉しいわ」

「かしこまりました」

 理織が自然に補足し、優に目配せする。

 優はすぐに伝票へ書き込み、厨房側へ戻った。

「あの……ありがとうございました」

「初日だからね。少しずつ覚えれば大丈夫」

「はい」

「それに、あの人は毎週木曜の夕方に来てくれる常連さん。ブレンドと、甘いものを少しだけ。覚えておくと喜ばれるよ」

「分かりました」

 理織は、ただ注文を覚えているのではなかった。

 その人が何を頼むのかだけでなく、どんなふうに過ごしたいのかまで分かっているように見えた。

 女性がコーヒーを口にし、ほっとしたように笑う。

 理織はそれを見て、ほんの少しだけ満足そうに目を細めた。

 優はその横顔を見ながら思った。

 この店が落ち着くのは、内装のせいだけではないのかもしれない。

     ◇

 その後も何組か客が訪れた。

 近所で働いているらしい会社員。

 本を読みながらゆっくり紅茶を飲む女性。

 小学生くらいの子どもを連れた母親。

 優はまだ動きがぎこちない。

 水を置く位置に迷い、伝票を一度書き直し、空いた皿を下げるタイミングも何度か理織に目で確認した。

 それでも理織は急かさなかった。

「大丈夫。今ので合ってる」

「そのカップはこっちでいいよ」

「焦らなくていい。ちゃんと見えてるから」

 短い言葉で、必要な時だけ支えてくれる。

 それがありがたかった。

 忙しさが少し落ち着いた頃、店内には静かなピアノ曲が流れていた。

 優はカウンター脇でグラスを拭きながら、理織がドリップポットを傾ける姿を見ていた。

 お湯が細く落ちる。

 ふくらんだコーヒーの粉から、深い香りが立つ。

 理織の動きには迷いがない。

 急いでいるのに、雑にはならない。

 一杯を受け取る人の時間まで大切にしているようだった。

「坂本くん」

「はい」

「見すぎ」

「……すみません」

「怒ってないよ」

 理織は笑いながら、抽出を終えたカップをトレーに乗せる。

「コーヒー、興味ある?」

「少し」

「じゃあ、そのうち教えるね」

「いいんですか」

「もちろん。うちで働くなら、覚えて損はないし」

「お願いします」

「素直だね」

「普通です」

「またそれ」

 理織は可笑しそうに笑った。

 優は何となく視線を逸らす。

 けれど、口元が少し緩みそうになるのを抑えられなかった。

     ◇

 閉店が近づき、最後の客が帰ったあと、店内は一気に静かになった。

 理織は入口の札を「CLOSE」に替え、優に声をかける。

「初日、お疲れさま」

「お疲れさまでした」

「思ったより動けてたよ」

「思ったより、ですか」

「うん。もっと固まるかと思ってた」

「……そんなに頼りなく見えますか」

「少しだけ」

 理織は悪びれずに言い、奥の厨房へ向かった。

「まかない食べていく?」

「え」

「求人票に書いてたでしょ。まかないありって」

「いいんですか」

「もちろん。初出勤の日くらい、ちゃんと食べて帰って」

 しばらくして、理織が皿を持って戻ってきた。

 黄色い卵に包まれた、ふわとろのオムライス。

 上には赤いケチャップが、気負わない線でかかっている。

 店に入った時から漂っていた甘い匂いが、目の前でさらに濃くなった。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 優はスプーンを手に取り、一口すくった。

 卵は柔らかく、内側のチキンライスは優しい味だった。

 派手ではない。

 けれど、食べた瞬間に肩の力が少し抜ける。

「どう?」

 理織がカウンター越しに尋ねる。

「……美味しいです」

「今、何秒考えた?」

「ちゃんと味わってから言おうと思っただけです」

「なら合格」

「合格なんですか」

「うん。適当に言われるより嬉しい」

 理織は満足そうに笑った。

 優はもう一口食べる。

「オムライス、好きなんですか」

「好き。作るのも、食べるのも」

「前も言ってましたよね。オムライスの日って」

「覚えてたんだ」

「印象に残ったので」

「よく言うなあ、坂本くん」

「何がですか」

「印象に残ったって」

「……便利なので」

「そういう言い方、嫌いじゃないよ」

 理織は笑い、カップに入ったコーヒーを一口飲んだ。

「でも、オムライスっていいでしょ」

「そうですね」

「ちゃんと手をかけた分だけ、少しだけ嬉しくなれる感じがして」

 優は皿の上の黄色い卵を見る。

 確かに、この料理には妙な安心感がある。

 子どもの頃を思い出すほどは甘くない。

 けれど、誰かに作ってもらったことそのものが、味の一部になっている気がした。

「この店に合ってると思います」

「ほんと?」

「はい」

「それは嬉しいな」

 理織は少し照れたように笑った。

 その笑顔を見て、優はなぜか目を逸らした。

     ◇

 片付けを終えると、時計は夜の八時を少し回っていた。

「今日はここまでで大丈夫。初日から遅くまでありがとう」

「いえ」

「疲れた?」

「少し」

「正直でよろしい」

 理織はカウンター席に腰を下ろし、一冊の文庫本を手に取った。

 その本を見た瞬間、優は足を止めた。

 駅前の広場で理織が胸に抱えていた本。

 面接の日、本棚で見かけた本。

 同じ装丁だった。

「その本」

 優は思わず口にしていた。

 理織が顔を上げる。

「ん?」

「前にも持ってましたよね」

「ああ、駅前で会った時?」

「はい」

「うん。よく読むの」

「好きなんですか」

 理織はすぐには答えなかった。

 文庫本の表紙に指先を滑らせ、少し考えるように目を伏せる。

「好き、というより……大事、かな」

「大事?」

「この人の言葉に、何度か助けられたから」

 優の胸に、小さなざらつきが生まれた。

 何となく、聞かない方がいい気もした。

 けれど、聞かずにはいられなかった。

「有名な作家なんですか」

「うん。有名だよ」

 理織は穏やかに答える。

「坂本樹っていう人」

 その名前を聞いた瞬間、優の呼吸が止まった。

 理織は気づかない。

 いつもの柔らかい表情のまま、本を胸元に寄せる。

「知ってる?」

「……名前だけは」

「あ、坂本くんも坂本だもんね。ちょっと偶然」

「……そうですね」

 自分の声が少し遠く聞こえた。

 理織は本の表紙を見つめながら、静かに笑う。

「私、この人の本が本当に好きなんだ」

 優は何も言えなかった。

「たぶん、人生で一番」

 その一言が、胸の奥に沈んでいく。

 自分と母には届かなかった父の言葉が、

 目の前のこの人を救っていた。

 それを知ったばかりの優には、

 まだその気持ちを何と呼べばいいのか分からなかった。

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