第1話 オムライスの匂いがする店
朝のダイニングには、焼いたパンの香りとコーヒーの匂いが混ざっていた。
坂本優はスマートフォンの画面を眺めていた。
表示されているのは、海外の音楽院が募集している短期留学プログラムの案内ページだった。
期間は三週間。
夏季集中。
レッスン、公開講座、現地での演奏機会あり。
参加費の欄を見て、優は小さく息を吐いた。
「また見てるの?」
向かいから声がした。
顔を上げると、母の坂本華がコーヒーカップを手にこちらを見ていた。
四十五歳。
出版社の編集長。
朝からきちんと整えられた髪に、淡い色のブラウスと細身のジャケット。
黙っていれば近寄りがたいほど綺麗なのに、家では妙に柔らかい表情をする。
「うん」
「留学の?」
「来年の夏、短期でも行けたらと思って」
華は一度だけ頷いた。
「必要なら、費用は出すわよ」
「いい」
優はすぐに返した。
「バイトして、自分で貯めたい」
「バイト、ね」
華は繰り返し、コーヒーを一口飲んだ。
「母さんに出してもらうのが嫌なわけじゃない」
「分かってる」
「ただ、自分のことだから」
「分かってるわ」
それ以上は言わなかった。
華は、優が一度言い出したら簡単には曲げないことをよく知っている。
優もまた、母が何もかも先回りして助けようとする人ではないことを知っていた。
「でも、無理して学業に響かせるのはなし」
「そこまではしない」
「ならいいわ」
華はそう言って、テーブルの端に置いていたタブレットを鞄にしまった。
その横に、厚めの資料ファイルが重ねられている。
表紙には、見慣れた出版社のロゴ。
その下に、打ち合わせ資料らしい文字が並んでいた。
優はパンをちぎる手を止めた。
「……今日、打ち合わせ?」
「ええ」
「父さんの?」
華の指先が一瞬だけ止まった。
けれど、すぐにいつもの調子でファイルを鞄に入れる。
「そう」
「ふうん」
「何か伝えておく?」
「別に」
「そう」
会話は、それで終わった。
華は時計に目をやり、椅子から立ち上がる。
「じゃあ、行ってくるわね」
「いってらっしゃい」
「優も遅刻しないように」
「分かってる」
玄関のドアが閉まる音がした。
ダイニングに、静けさが戻る。
優はスマートフォンの画面を消し、しばらく何も映らなくなった黒い画面を見つめた。
父とは、ここ数年まともに会っていない。
会おうと思えば、会えたのだと思う。
母に頼めば連絡は取れただろうし、父から完全に遠ざけられていたわけでもない。
小学生の頃までは、時々父の家へ行っていた。
広い仕事部屋。
壁一面の本棚。
書きかけの原稿。
飲みかけの冷めたコーヒー。
父は、優が来ると一応笑った。
食事にも連れていってくれたし、誕生日にはプレゼントもくれた。
けれど、どこか遠かった。
同じ部屋にいるのに、父は別の場所にいるようだった。
優の話を聞いているようで、時々ふっと視線が宙へ逃げる。
何かを思いついたのか、急に黙り込む。
そして帰る頃には、机に向かっていることも珍しくなかった。
嫌われていたわけではない。
それくらいは、優にも分かっている。
ただ父は、いつだって作品の方を見ていた。
母よりも。
自分よりも。
家族よりも、物語を選ぶ人だった。
中学に入る頃、優は音楽にのめり込んだ。
レッスン、課題、コンクール。
父の家へ行く回数は自然と減り、気づけば年に数回になっていた。
そしていつからか、それすらなくなった。
優は残っていたパンを口に運び、席を立った。
考えても仕方がない。
今日は、午前から実技の授業がある。
◇
音大の練習棟は、朝からいくつもの音に満ちていた。
ピアノ。
ヴァイオリン。
管楽器のロングトーン。
どこかの部屋から、発声練習の声も漏れてくる。
優は指定されたレッスン室の前で一度息を整え、ドアをノックした。
「どうぞ」
中に入ると、担当講師が譜面を手元に置きながら顔を上げた。
「では、先週の続きから」
「はい」
優はピアノの前に座り、鍵盤に指を置いた。
曲は滑らかに流れた。
大きなミスはない。
音の粒も揃っている。
指もよく動く。
けれど、弾き終えたあと、講師はすぐには何も言わなかった。
短い沈黙のあと、譜面を閉じる。
「技術は十分ある」
「……はい」
「丁寧だし、崩れない。だからこそ、少し物足りない」
優は目を伏せた。
「物足りない、ですか」
「綺麗に弾けている。でも、君の音はまだ少し閉じているように聴こえる」
胸の奥に、数日前の声がよぎった。
――ちゃんと、誰かを待っている音でした。
優は鍵盤の上に置いた指を、わずかに握り込む。
「自分では、そこまで意識していません」
「そうだろうね。意識して閉じているというより、開き方が分からないのかもしれない」
講師は責めるような口調ではなかった。
「悪いことではないよ。けれど、留学を考えているなら、今より一歩外へ出る必要はある」
「……はい」
「次回までに、もう一度考えてみて。君が、誰に向けて弾いているのか」
誰に向けて。
優はその言葉を、すぐには受け止めきれなかった。
◇
レッスン室を出ると、廊下の窓から午後の光が差し込んでいた。
優は肩にかけた鞄の位置を直しながら歩き出す。
頭の中では、講師の言葉がまだ残っている。
「優」
背後から呼ばれた。
振り返ると、ギターケースを背負った女子学生がこちらへ歩いてくるところだった。
永山香。
同じ学年の音大生だ。
「終わった?」
「今」
「どうだった?」
「普通」
「それ答えになってないし!」
「聞く意味あった?」
「一応ね」
香は笑って、歩幅を合わせた。
肩までの髪が、動くたびに軽く揺れる。
派手な格好ではないのに、どこか目を引く。
歌う時に人前へ立つことへ慣れているせいか、立ち姿にためらいがない。
「今日もまっすぐ帰るの?」
「たぶん」
「駅前で歌うんだけど、たまには聴きに来てよ」
「気が向いたら」
「それ、来ない人の返事」
「よく分かってるじゃん」
「分かりたくないんだけどね」
香は唇を尖らせるように言ってから、すぐに笑った。
「じゃ、また明日」
「うん」
手を振り、香は階段の方へ向かっていった。
優はその背中を少しだけ見送り、それから掲示板の前で足を止めた。
アルバイト募集。
学内イベント。
演奏会の案内。
留学支援セミナー。
何枚もの紙が重なり合う中で、一枚の求人票が目に入った。
個人経営のカフェ。
夕方以降勤務できる方歓迎。
週三日から。
未経験可。
まかないあり。
店名は、Café Mélodie。
優はしばらくその紙を見つめた。
接客業が特別得意なわけではない。
むしろ、人と必要以上に話すのは疲れる方だ。
それでも、条件は悪くなかった。
授業とも両立できそうで、駅からも近い。
留学資金を貯めるには、少しずつでも動き出した方がいい。
優はスマートフォンを取り出し、求人票に記載された番号を入力した。
◇
面接の日は、よく晴れていた。
指定された住所を頼りに、優は駅前の人通りを抜け、少し落ち着いた通りへ入る。
大通りの騒がしさが遠のき、古い雑貨店や小さな花屋が並ぶ一角に、その店はあった。
木製の扉。
大きすぎない窓。
入口脇に置かれた黒板。
Café Mélodie。
黒板には、丸みのある字でこう書かれていた。
本日のおすすめ
ふわとろオムライス
優はその文字を見て、ふと数日前の声を思い出した。
――卵を買いすぎちゃって。今日はオムライスの日なので。
胸の奥に、かすかな引っかかりが生まれる。
けれど、まさかと思った。
優は扉を開けた。
小さなベルが鳴る。
店内には、コーヒーの香りと、どこか甘い卵の匂いが漂っていた。
木のテーブルが数席。
窓際には二人掛けの席。
壁際の棚には、文庫本や単行本が無造作すぎない程度に並べられている。
奥のスピーカーからは、静かなピアノ曲が流れていた。
初めて来たはずなのに、妙に落ち着く店だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から声がして、女性が顔を出した。
優は、息を止めた。
ベージュのエプロン。
柔らかい笑顔。
ほんの少し驚いた目。
駅前の広場で、自分の演奏を聴いていた人だった。
「あ……」
彼女の方も足を止める。
「……あ」
優も、間の抜けた声しか出なかった。
数秒の沈黙のあと、彼女が先に笑った。
「もしかして、駅前のピアノの人?」
「……オムライスの日の人」
言ってから、少し雑な返しだったかと思った。
けれど彼女は目を丸くしたあと、ふふっと笑った。
「覚えててくれたんだ」
「……印象には残っていたので」
「そっか」
彼女は嬉しそうに頷き、それから少し改まった表情を作った。
「じゃあ、今日は面接で来てくれた坂本くん?」
「はい。坂本優です」
「山瀬理織。この店の店長をしてるの。よろしくね」
「よろしくお願いします」
優は軽く頭を下げた。
山瀬理織。
ようやく、あの時の女性に名前がついた。
「こっち座って」
「はい」
案内されたのは、カウンターに近い二人掛けの席だった。
理織は向かいに座り、優が持ってきた履歴書に目を落とす。
「音大なんだ」
「はい」
「ピアノ?」
「主に」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「あの日、ただの趣味の人には見えなかったから」
優は答えに詰まった。
理織は履歴書を見ながら、穏やかな声で続ける。
「アルバイトを探してる理由は?」
「留学の費用を少しでも貯めたくて」
「音楽の?」
「はい。まだ決まったわけじゃないですけど、来年の夏に短期で行けたらと思ってます」
「いいね」
理織は素直にそう言った。
「自分で貯めるんだ」
「全部は無理でも、出せるところは自分でと思ってます」
「そっか」
理織は少しだけ表情を柔らかくした。
「うちは忙しい時間帯もあるし、楽な仕事ばかりじゃないけど、大丈夫?」
「大丈夫です。接客は慣れていませんけど、覚えます」
「真面目だね」
「普通です」
「そういうところも含めて、真面目だと思う」
優は視線を少し落とした。
褒められるのは、苦手だ。
どう返せばいいのか分からなくなる。
「でも」
理織が言った。
「私は、そういう人は嫌いじゃないよ」
優は思わず顔を上げた。
理織は深い意味などないように笑っている。
「この前の曲、またどこかで弾いたりするの?」
「……あれは、曲ってほどのものじゃないです」
「そう?」
「その場で、なんとなく弾いただけなので」
「私は好きだったけどな」
優の指先が、膝の上でわずかに動いた。
「寂しかったけど、ちゃんと温度があったから」
その言葉は、あの日と同じように、まっすぐ優の中へ入ってきた。
何か返さなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。
「……ありがとうございます」
結局、それだけを口にした。
理織は少しだけ目を細めた。
「うん」
それから履歴書を閉じる。
「じゃあ、ぜひうちで働いてください」
「……本当に?」
「本当に。シフトの希望も合いそうだし、受け答えもちゃんとしてるし」
そこで一度言葉を切り、理織は悪戯っぽく笑った。
「それに、またあの曲が聴ける機会もあるかもしれないしね」
「仕事中に弾く予定はないです」
「そこは交渉次第かな」
「交渉するんですか」
「するかも」
理織は平然と言い、優はわずかに困った顔をした。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
初出勤の日程や持ち物の説明を受け、優は席を立つ。
その時、ふと壁際の本棚に目が向いた。
何冊もの小説が並んでいる。
表紙の色も、版型もさまざま。
その中に、一冊だけ妙に見覚えのある文庫本があった。
駅前で、理織が胸に抱えていたものと同じ装丁。
優の視線に気づいたのか、理織が声をかけた。
「本、好き?」
「……いえ」
「そうなんだ。あれはほとんど私の趣味。お客さんが自由に読めるように置いてるの」
「そうですか」
優はそれ以上、聞かなかった。
聞く理由もない。
そう思った。
けれど、その文庫本の表紙だけが、なぜか頭の隅に残った。
「じゃあ、来週からよろしくね、坂本くん」
「はい。よろしくお願いします」
店を出ると、外の空気が少しだけ明るく感じられた。
優は駅へ向かって歩きながら、スマートフォンを取り出す。
ちょうど母からメッセージが届いていた。
『面接、どうだった?』
優は立ち止まり、短く打ち込む。
『受かった。
たぶん、悪くない店。』
送信してから、自分の口元がわずかに緩んでいることに気づいた。
頭に浮かぶのは、店の中に漂っていたオムライスの匂い。
柔らかい声。
そして、あの日の言葉。
――ちゃんと、誰かを待っている音でした。
あの店で働くことが、僕の音を変えていく。
そして、止まっていた時間にまで触れていく。
そんなことを、この日の僕はまだ考えもしなかった。




