第9話 君への旋律
朝、優はスマートフォンの画面を見つめていた。
父とのメッセージが、そこに残っている。
『元気か』
『元気。大学もピアノも続けてる』
『そうか。よかった』
たった三通。
それだけで、何かが変わったとは思えなかった。
父を許したわけではない。
会いたいと思ったわけでもない。
それでも、何年も止まっていたものが、ほんの少しだけ動いたことは確かだった。
優は画面を閉じる。
机の上には、父の文庫本が置かれている。
その隣には、昨日まで何度も聴き返していた録音データ。
父の文章から生まれた旋律。
香と人前で重ねた音。
そして、理織に聴かせたいと思った音。
優はスマートフォンを鞄に入れた。
まだ形にはなっていない。
曲と呼べるほど整ってもいない。
けれど、その音には行き先がある。
そう思っただけで、胸の奥が少し落ち着かなかった。
◇
大学へ着くと、香はすでに練習室の前にいた。
ギターケースを壁に立てかけ、スマートフォンを見ながら何かを口ずさんでいる。
優に気づくと、顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
「じゃあ、昨日の続きやろう」
「昨日の続きって何だよ」
「曲。まだ完成してないでしょ」
「完成させる話だったか?」
「私の中ではそうなってる」
「勝手に決めるな」
「でも来たじゃん」
香は楽しそうに笑った。
優はため息をつきながら、練習室の扉を開ける。
室内にはアップライトピアノが一台。
窓から差し込む午前の光が、鍵盤の上に細く伸びている。
香は椅子に座らず、ギターを構えた。
「昨日のキーでいい?」
「ああ」
「今日は最初から入って」
「分かった」
香が弦を鳴らす。
昨日、駅前で歌っていた曲。
遠くへ行こうとする誰かを見送る歌。
優はその旋律に合わせて、静かに鍵盤へ指を置いた。
昨日よりも、音は自然に出た。
香の呼吸を待つ。
歌詞の隙間へ、短い音を置く。
昨日、路上で探りながら弾いたものが、今日は少しだけ形になっている。
香の声が伸びる。
優はその下を支えるように、和音を重ねた。
曲の途中で、香が少しだけ歌い方を変えた。
優もそれに合わせる。
言葉は交わさない。
それでも、次にどこへ行きたいのかが、少しずつ分かる。
最後の音が消えると、香はギターの弦を押さえた。
「うん」
「何だよ」
「優、昨日より音が優しい」
「そうか?」
「うん」
香はギターを抱えたまま、優を見る。
「昨日は私に合わせてくれてたけど、今日は誰かに聴かせる準備してる音だった」
優の指が鍵盤の上で止まる。
「そんなの分かるのかよ」
「分かるよ」
「適当に言ってるだろ」
「言ってない」
香は少しだけ目を細めた。
「店長さん?」
「何でそうなるんだよ」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
優は視線を鍵盤へ落とした。
否定したかった。
けれど、完全には否定できなかった。
理織に聴かせたいと思っている。
香と重ねた音も。
父の文章から生まれた旋律も。
自分の中でまだ名前のない音も。
それを理織に聴いてほしいと思っている。
香はそれ以上、からかわなかった。
「聴かせたい人がいるなら、聴かせた方がいいよ」
「別に、そんな大げさなものじゃない」
「大げさじゃなくてもいいじゃん」
「まだ完成してない」
「完成してからじゃないと届かない音なんて、つまらないよ」
香は軽くギターを鳴らした。
「歌わなかったら届かない。弾かなかったら、もっと届かない」
優は何も言えなかった。
駅前で聞いた、香の言葉を思い出す。
歌わなかったら、絶対に届かないから。
香はいつだって、届かないかもしれない場所へ声を投げている。
優とは違う。
けれど、今の優には、その強さが少し分かる気がした。
「……考えとく」
「それ、やるってことだよね!」
「違う」
「否定が弱い」
「うるさい」
香は笑った。
けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ違う色が混ざったように見えた。
優はそれに気づきかけて、気づかないふりをした。
◇
夕方、Café Mélodieのドアを開けると、カウンターの奥から理織の声がした。
「いらっしゃい。じゃなくて、お疲れ様」
「まだ間違えるんですね」
「坂本くん、たまにお客さんみたいな顔で入ってくるから」
「どんな顔ですか」
「コーヒー飲みに来ました、みたいな顔」
「働きに来てます」
「はい。助かります」
理織は笑いながら、エプロンを指差した。
優は着替えを済ませ、店内へ戻る。
その日の店は、ほどよく忙しかった。
満席ではない。
けれど、途切れない。
常連の男性がブレンドを頼み、窓際の席では、恋人らしい二人がケーキを分け合っている。
カウンターには、仕事帰りらしい客が一人。
優は注文を取り、料理を運び、空いた皿を下げた。
理織はいつものように、店全体をよく見ている。
客のカップが空く少し前に声をかけ、迷っている客にはおすすめを伝える。
その動きは、音楽のようだった。
強く出るところ。
引くところ。
待つところ。
優は、カウンターの中で動く理織を見ながら、ふと鍵盤のことを考えた。
理織のために弾くなら、どんな音がいいのだろう。
父の文章から生まれた静かな旋律。
香の歌に触れて前へ進んだリズム。
この店にある、コーヒーの香りと柔らかい灯り。
それらを全部混ぜたら、どんな音になるのだろう。
「坂本くん」
「はい」
「今、半拍どころじゃなく遅かったよ」
「あ、すみません」
「考え事?」
「少し」
「昨日の続き?」
理織にそう聞かれて、優は少しだけ動揺した。
「……まあ、そんな感じです」
「そっか」
理織はそれ以上聞かなかった。
ただ、楽しそうに目を細めた。
◇
閉店時間を過ぎると、店内は急に静かになった。
最後の客を見送り、理織がドアの札を裏返す。
優はテーブルを拭き、椅子を整えた。
照明は少し落としてある。
昼間よりも、店の奥行きが深く見えた。
コーヒーの香りが、まだ店内に残っている。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
理織はカウンターの中で、マグカップを二つ出した。
「飲む?」
「いいんですか」
「今日、頑張ってたから」
「いつも頑張ってます」
「今日は半拍遅れながら頑張ってた」
「それ、褒めてます?」
「半分くらい」
理織は笑い、コーヒーを注いだ。
優はカウンター席へ座る。
閉店後のCafé Mélodieは、昼間とは違う場所のようだった。
客の声が消えた分、カップを置く音や、理織の足音がよく聞こえる。
理織は向かい側ではなく、隣の席に座った。
少しだけ距離が近い。
「そういえば」
「はい」
「友達と弾いた曲って、どんな感じだったの?」
優の手が止まった。
「駅前で弾いた曲ですか」
「うん。聴いてみたかったなって言ったでしょ」
「はい」
「録音とか、ないの?」
優はスマートフォンを取り出しかけて、止まった。
「……録ってないです」
「そっか。残念」
理織は本当に残念そうに言った。
その声を聞いた時、優の中で何かが動いた。
香の言葉が浮かぶ。
弾かなかったら、もっと届かない。
優はカップを置いた。
「……弾きましょうか」
理織が瞬きをする。
「え?」
「短くなら」
「今?」
「はい」
「ここで?」
「ここで弾けるなら」
理織は少し驚いた顔をしたあと、店の隅へ視線を向けた。
そこには、古い電子ピアノが置かれている。
黒いカバーがかけられ、上には小さな観葉植物が乗っていた。
「音、あまり良くないよ?」
「大丈夫です」
「鍵盤も少し重いかも」
「それも大丈夫です」
「本当に?」
「聴かせたいのは、音質じゃないので」
言ってから、優は自分で少し驚いた。
理織も、少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり笑った。
「じゃあ、聴かせてください」
理織は丁寧にそう言った。
冗談ではなく、客のように。
優は立ち上がり、ピアノの前へ向かった。
観葉植物を横へ移し、カバーを外す。
鍵盤にそっと指を置いた。
確かに、音は良くない。
駅前のストリートピアノとも、大学の練習室のピアノとも違う。
少し軽く、少し乾いている。
けれど、それでも音は鳴る。
優は目を閉じた。
最初に浮かんだのは、父の文章だった。
帰る場所を失った人は、初めて自分がどこへ帰りたかったのかを知る。
そこから生まれた、静かな旋律。
次に、香の歌が重なる。
遠くへ行こうとする誰かを見送る歌。
そして、今。
閉店後のカフェ。
隣で静かに聴こうとしている理織。
優は、最初の音を鳴らした。
低く、静かな音。
その上に、細い旋律を置く。
父の言葉から始まった音だった。
けれど、もう父の言葉だけの音ではなかった。
香の歌に触れて、少し前へ進んだ。
誰かに届かせるための呼吸を覚えた。
そして今、この店の静けさの中で、理織へ向かっている。
優は急がなかった。
音を詰め込まない。
言葉を探すように、一つずつ置いていく。
理織がいつも客の前にコーヒーを置く時のように。
誰かの時間を急かさないように。
けれど、置いた音が消えてしまわないように。
短い旋律だった。
完成した曲ではない。
それでも、今の優に弾けるものは、そこに全部入っていた。
最後の音を鳴らし、指を止める。
余韻は長くなかった。
ピアノの音は、すぐに店内へ溶けて消えた。
優はゆっくり息を吐いた。
理織は何も言わなかった。
カウンター席に座ったまま、じっと優を見ている。
沈黙が少し長くなる。
「……変でしたか」
「ううん」
「じゃあ」
「言葉にするのが、少しもったいなかっただけ」
理織は静かに言った。
優は返す言葉を失う。
理織はカップを両手で包んだまま、少し考えるように視線を落とした。
「坂本くんの音って、誰かを急がせないね」
「急がせない?」
「うん」
理織は顔を上げる。
「立ち止まってもいいって言われてるみたいだった」
優の胸が、小さく揺れた。
その言葉に、覚えがあった。
父の小説を読んだ時、理織は救われたと言っていた。
進めない自分を、責めなくていいと思えたと。
今、理織は優の音に、似たものを感じている。
それは嬉しかった。
同時に、少し怖かった。
父の言葉に恋をしていた人が、自分の音にも同じものを見ている。
その事実が、優の中でうまく整理できなかった。
「それ、父の小説にも……」
言いかけて、止まる。
理織が首を傾げた。
「お父さん?」
優は鍵盤から手を離した。
「いえ。何でもないです」
「そう?」
「はい」
言えなかった。
自分が坂本樹の息子だとは。
理織が大切にしている言葉を書いた人が、自分の父だとは。
言えば、何かが変わる。
理織の優を見る目も、父の本を見る目も。
そして、自分の音の意味も。
優には、まだその変化を受け止める準備がなかった。
理織は無理に聞かなかった。
ただ、優の音が消えた店内を見渡し、少し嬉しそうに言った。
「また、聴かせて」
「今の曲をですか?」
「今のでも、違う曲でも」
「店で?」
「うん」
理織は笑う。
「閉店後なら、私がお客さんになれるし」
「店長が客なんですか」
「うん。一番前の席で聴く」
優は視線を逸らした。
たぶん、顔が熱くなっていた。
「……考えときます」
「それ、弾いてくれるって事だよね!」
「みんな同じこと言いますね」
「みんな?」
「いえ」
理織は不思議そうにしたが、すぐに笑った。
「じゃあ、楽しみにしてる」
その言葉が、優の胸に残った。
誰かに聴かれるのが怖かった。
けれど、理織に楽しみにされることは、嫌ではなかった。
むしろ、次に弾く音を考えている自分がいた。
◇
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
優は駅へ向かって歩きながら、スマートフォンを確認する。
香からメッセージが届いていた。
『聴かせた?』
優は足を止めた。
『何を』
すぐに返事が来る。
『音』
優は思わず周囲を見る。
もちろん、香が近くにいるわけではない。
『何で分かるんだよ』
『分かるよ』
短い返事。
香らしい。
優は少し迷ってから、返信した。
『少しだけ弾いた』
しばらく既読がつかなかった。
駅へ近づく頃、画面が光る。
『そっか』
それだけだった。
優は画面を見つめる。
『何だよ』
少し間が空いて、次のメッセージが届く。
『届いた?』
優は閉店後の店内を思い出した。
理織が黙って聴いていた時間。
言葉にするのがもったいない、と言った声。
一番前の席で聴く、と笑った顔。
優は返信する。
『たぶん』
今度は、すぐに返事が来た。
『ならよかった』
その文字を見て、優は少しだけ引っかかった。
いつもの香なら、もっとからかってくる気がした。
店長さん喜んだ?
とか、顔赤くなった?
とか。
けれど、そのメッセージは静かだった。
優は何か返そうとして、やめた。
香が何を思っているのか、まだ分からなかった。
◇
家に帰り、自室の灯りをつける。
鞄を置き、優は机の前に座った。
父の文庫本がある。
その横に、スマートフォンを置く。
メッセージ画面には、父との短いやり取りと、香とのやり取りが残っている。
そして、理織に聴かせた音が、まだ指先に残っている。
誰かに聴かれるのが怖かった。
評価されることも。
期待されることも。
届かなかった時に、自分の音が無意味になるような気がすることも。
けれど、聴かれることと、聴かせたいと思うことは違う。
優は今日、それを知った。
父の言葉から始まった旋律。
香の歌に背中を押された音。
そして、理織へ向かって鳴らした短い曲。
それはまだ、完成していない。
けれど、誰に向かっているのかだけは、もう分かっていた。
あの夜、カフェの隅で鳴らした短い旋律は、誰かに聴かれるためではなく、理織に聴いてほしくて生まれた音だった。




