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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第10話 揺らぐ音色

香は、スマートフォンの画面を見つめていた。


『ならよかった』


 自分で送った言葉が、そこに残っている。


 優からの返事は、まだない。


 香はしばらく画面を見ていたが、やがてスマートフォンを伏せた。


 本当は、もっと聞きたかった。


 店長さんは、どんな顔で聴いていたのか。


 優は嬉しかったのか。


 また弾く約束をしたのか。


 聞きたいことは、いくらでもあった。


 けれど、聞けなかった。


 聞いたら、自分が苦しくなると分かっていたから。


「……何やってんだろ、私」


 香は小さく笑った。


 ギターを抱え、ベッドの上に座る。


 膝の上には、歌詞ノート。


 何か書こうとして、ペンを握る。


 でも、出てくる言葉は全部、優へ向かってしまう。


 君の音が誰かへ届くたび

 私は嬉しくて

 少しだけ置いていかれる


 そこまで書いて、香は手を止めた。


 しばらく見つめる。


 そして、勢いよく線を引いた。


「重いな、これ」


 また笑った。


 でも、その笑い声は自分でも少し無理をしているように聞こえた。


 優が変わるのは嬉しい。


 人に聴かれることを怖がっていた優が、自分から誰かに音を届けようとしている。


 それは間違いなく、嬉しいことだった。


 駅前で一緒に演奏した時、香は思った。


 優の音は、もっと外へ出ていい。


 もっと誰かに届いていい。


 そう思ったから、背中を押した。


 なのに。


 その音が向かった先が自分ではないと分かった途端、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 香はギターの弦を軽く鳴らした。


 音は部屋の中で小さく揺れる。


 優の音も、今こんなふうに揺れているのだろうか。


 それとも、もう迷わず誰かへ向かっているのだろうか。


 香は消した歌詞を指でなぞった。


 黒く塗りつぶしたはずの言葉は、まだそこに残っていた。


     ◇


 翌朝、大学の練習棟で優を見つけると、香はいつも通り手を振った。


「おはよう」


「おはよう」


「昨日、どうだった?」


「何が」


「とぼけない。店長さんに聴かせたんでしょ」


 優は少しだけ視線を逸らした。


「少しだけな」


「届いた?」


「……たぶん」


「そっか」


 香は笑った。


 昨夜、送ったメッセージと同じやり取り。


 けれど、直接聞くと、思ったより胸にくる。


 優は理織のことを思い出したのか、少しだけ表情を柔らかくした。


 香はそれを見逃さなかった。


「いい顔してる」


「してない」


「してるよ」


「してないって」


「うん。してる」


 香は笑いながら、ギターケースを持ち直した。


 本当は、もう少し聞きたかった。


 どんな音を弾いたのか。


 理織が何と言ったのか。


 優がどう思ったのか。


 でも、その全部を聞くには、少しだけ勇気が足りなかった。


「じゃあ、練習しよ」


「朝から元気だな」


「優が眠そうなだけ」


「普通だろ」


「普通って言う人ほど普通じゃないんだよ」


 香は先に練習室へ入った。


 いつもの調子。


 いつもの声。


 いつもの笑顔。


 そう見えるように。


     ◇


 練習室には、午前の光が入っていた。


 優はピアノの椅子に座り、香はギターを構える。


 曲は、駅前で一緒に演奏したあの歌だった。


「昨日のキーでいいよね」


「ああ」


「今日は二番の後、少し間を空けたい」


「分かった」


「そこ、優のピアノだけ入れて」


「どれくらい」


「四小節くらい」


「了解」


 香が弦を鳴らす。


 優がそれに合わせて、低い音を重ねる。


 最初は悪くなかった。


 香の声も出ている。


 優のピアノも、自然についてくる。


 けれど、曲が進むにつれて、香は自分の歌が少しだけ前へ出すぎていることに気づいた。


 焦っている。


 歌が、ほんの少し急いでいる。


 優を置いていくように。


 いや、違う。


 優に置いていかれないように。


「ごめん、もう一回」


 香は途中で歌を止めた。


 優が鍵盤から手を離す。


「今のでよかっただろ」


「よくない」


「どこが?」


「私の歌が、少し急いでた」


「そうか?」


「そう」


 香はギターの弦を押さえたまま、息を吐く。


「もう一回。今度はちゃんと待つ」


「待つ?」


「うん。音を」


 優は少し不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。


 もう一度、最初から合わせる。


 香は意識してゆっくり歌った。


 優のピアノを聴く。


 昨日、理織に聴かせた音が、そこに少し残っているような気がした。


 前より柔らかい。


 前より、誰かの時間を急かさない。


 香は歌いながら、その音の奥に理織の店の空気を感じた。


 コーヒーの香り。


 閉店後の静けさ。


 誰かを待ってくれるような明かり。


 まだ見たことのないその光景が、優の音の中にある。


 香は胸の奥が小さく揺れるのを感じた。


 最後まで歌い終える。


 優が短い余韻を残して、手を止めた。


「今度はよかったんじゃないか」


「うん」


「何だよ、その間」


「今日の優の音、店長さんっぽい」


 優は眉を寄せた。


「音に人っぽいとかあるのか」


「あるよ」


「どういう意味だよ」


「優にはまだ分かんないだろうけど」


「悪かったな」


「悪口じゃないよ」


 香は笑った。


 けれど、本当は冗談ではなかった。


 優の音に、理織の気配が混ざっている。


 それは、優が理織へちゃんと音を届けた証拠なのかもしれない。


 香が背中を押した音が、ちゃんと届いた証拠。


 だから嬉しい。


 嬉しいはずなのに、少しだけ苦しかった。


「でも」


 優が鍵盤を見たまま言った。


「香のおかげかもな」


「え?」


「人に聴かせること、前より怖くなくなった」


 香の胸が、一瞬だけ強く鳴った。


 思ってもみなかった言葉だった。


 嬉しかった。


 自分が優の何かを変えられたのだと思えた。


 でも、その喜びはすぐに別の痛みと重なった。


 自分が背中を押したから、優は理織へ向かっていった。


「じゃあ、もっと感謝してよね」


 香はいつもの調子で言った。


「してるだろ」


「足りない」


「どれだけ要求するんだよ」


「一生分?」


「重いな」


「冗談だよ」


 香は笑った。


 それから、優に聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。


「……私にも、ちゃんと届いてるから」


「何か言った?」


「何でもない」


 香はギターをケースへしまう。


 優には、届かなかった。


 歌なら届くのに。


 音なら届くのに。


 たった一言の本音だけが、優には届かなかった。


     ◇


 夕方、優はCafé Mélodieへ向かった。


 ドアを開けると、コーヒーの香りが優を迎える。


 理織はカウンターの中でカップを並べていた。


「お疲れ様」


「お疲れ様です」


「今日は余裕あるね」


「昨日、そんなに慌て

てました?」


「ちょっとだけ。考え事しながら来た顔だった」


「すみません」


「責めてないよ」


 理織は笑った。


「昨日の音、まだ残ってる気がする」


 優は少しだけ足を止めた。


「音が、ですか?」


「うん。閉店後の店に、まだ少し」


「そんなわけないじゃないですか」


「あるよ。たぶん」


「たぶんですか」


「うん。私の中には残ってる」


 優は何も返せなかった。


 理織はカウンター越しに優を見る。


「あの曲、名前はあるの?」


「まだないです」


「じゃあ、できたら教えて」


「完成したら、ですか」


「完成してなくてもいいよ」


 理織はカップを棚に戻しながら言った。


「坂本くんが、名前をつけたくなったら」


「名前をつけたくなったら」


「うん。曲って、名前がつくと少し特別になる気がするから」


 優は昨日弾いた旋律を思い出した。


 父の言葉から始まり、香の歌に背中を押され、理織へ向かって鳴った音。


 まだ完成していない。


 けれど、名前をつけるなら。


 それは、誰への曲なのだろう。


「考えておきます」


「楽しみにしてる」


 理織は嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見ると、胸の奥が少し落ち着かなくなる。


 昨日と同じだった。


 誰かに期待されることが、怖くない。


 理織に楽しみにされることが、嫌ではない。


 むしろ、次の音を探したくなる。


「その曲」


 理織がふと思い出したように言う。


「友達と弾いた音も入ってるんだよね」


「はい」


 優は頷いた。


「香がいなかったら、たぶん弾けなかったです」


「香さん、っていうんだ」


「あ」


 優は言ってから気づいた。


 理織の前で、香の名前を出したのは初めてかもしれない。


「大学の同級生です」


「大事な友達なんだね」


 理織は穏やかに言った。


 優は少し考える。


「はい。たぶん、かなり」


「そっか」


 理織はそれ以上、踏み込まなかった。


 ただ少しだけ、優を見る目が柔らかくなった。


「いいね。音楽でつながれる友達がいるの」


「店長にもいますか?」


「昔はいたかな」


「今は?」


「今は、コーヒーと本とオムライスが友達」


「寂しい言い方ですね」


「お客さんもいるから大丈夫」


 理織は笑った。


「それに、最近は閉店後に弾いてくれる子もいるし」


 優は視線を逸らした。


「まだ一回だけです」


「一回目があるなら、二回目もあるかもしれないでしょ」


「みんなそれ言いますね」


「みんな?」


「いえ」


 優はエプロンの紐を結び直し、仕事に入った。


 理織の言葉が、胸に残っていた。


 名前をつけたくなったら。


 曲に名前をつけることは、その音の行き先を認めることのように思えた。


     ◇


 その頃、樹は出版社の打ち合わせ室にいた。


 向かいには華が座っている。


 机の上には、修正された原稿が置かれていた。


「この場面、良くなったわ」


 華がページをめくりながら言った。


「主人公がちゃんと逃げずに言葉にしている」


「まだ足りない気がする」


「足りないと思えるなら、前よりいい」


 樹は黙って原稿を見る。


 赤字で書かれた華の言葉が、まだいくつも残っている。


 ――沈黙で済ませない。

 ――ここは言わせる。

 ――相手に届かせる。


 その言葉を見るたび、優へのメッセージを思い出す。


『元気。大学もピアノも続けてる』


 樹はあの短い文章を、何度も読み返していた。


 大学もピアノも続けている。


 優の今を、自分はほとんど知らない。


 知ろうとしなかった。


 いや、知りたいと思っても、聞くことから逃げていた。


「華」


「何?」


 樹は少し迷った。


 原稿ではなく、優のことを聞く。


 それがひどく難しいことに感じられた。


「優は、どんな音を弾く」


 華の手が止まる。


 ゆっくりと顔を上げた。


「聴きたいの?」


 樹はすぐには答えられなかった。


「……分からない」


「分からない?」


「聴く資格があるのかも、分からない」


 樹は視線を落とす。


「けれど、知りたい」


 華は何も言わなかった。


 怒ることも、笑うこともしなかった。


 ただ、しばらく樹を見ていた。


「あの子の音は、あなたが思っているより静かよ」


「静か」


「でも、逃げているわけじゃない」


 華は原稿を閉じた。


「誰かに無理に届こうとはしない。でも、ちゃんと届く場所を探している音」


 樹はその言葉を受け止めた。


 届く場所を探している音。


 自分の言葉は、どこへ届こうとしていたのだろう。


 読者へ。


 物語へ。


 それとも、あの時、置いてきてしまった家族へ。


「いつか聴けるかしらね」


 華が言った。


 樹は答えなかった。


 答える資格があるのかも、まだ分からなかった。


     ◇


 夜、香は部屋でギターを抱えていた。


 昼間、優に言えなかった言葉が、まだ胸に残っている。


 私にも、ちゃんと届いてるから。


 聞こえなかったのか。


 聞こえないふりをしたのか。


 たぶん、優は本当に聞こえていなかった。


 そういうところが優らしい。


 そう思うと、少しだけ笑えた。


 少しだけ、泣きたくもなった。


 香は歌詞ノートを開く。


 昨日、消したページ。


 黒く線を引いた言葉の下に、もう一度ペンを置いた。


 君の音が誰に向かっていても

 私には分かる

 その音が、少しずつ優しくなっていること


 書いたあと、香はしばらくその文字を見つめた。


 消さなかった。


 消せなかったのではない。


 今日は、消さなかった。


 優の音が誰かへ届くことを、香は嬉しいと思っている。


 それは嘘ではない。


 でも、その嬉しさの隣にある寂しさも、もうなかったことにはできなかった。


 香はギターを鳴らす。


 まだ曲にはならない。


 けれど、音は確かに揺れていた。


 優の音を揺らしたのは、きっと自分だ。


 そう思えることが、香の小さな誇りだった。


 けれど今、その音に揺らされているのも、自分だった。


 香の中で、歌にするにはまだ早い感情が揺れていた。


 それは嫉妬と呼ぶには優しく、恋と呼ぶには少しだけ怖かった。


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