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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第34話 華と理織

 華は、出版社の会議室で原稿を読んでいた。


 昼の打ち合わせが一つ流れ、予定より早く空いた時間だった。


 机の上には、ノートパソコンと赤いペン。


 画面には、樹から送られてきた原稿が開かれている。


 まだ全体の形は整っていない。


 ところどころ空白があり、場面のつながりも粗い。


 それでも、少し前までの原稿とは違っていた。


 言葉が戻ってきている。


 綺麗なだけの文章ではない。


 どこか不格好で、痛みがある。


 華は画面をスクロールしていた手を、ある一文で止めた。


 彼は帰りたかった。けれど、帰っていいと言われるのを、ずっと待っていた。


 華は、その一文をもう一度読んだ。


 指が止まる。


 目元が、わずかに険しくなった。


「……あなた、また危ないところを書いてるわね」


 小さく呟く。


 これはただの小説の一文ではない。


 すぐに分かった。


 優の痛みに近すぎる。


 あの子がずっと待っていたもの。


 来なかった父。


 開かなかった扉。


 入っていいと言われなかった場所。


 その匂いが、文章の奥に残っている。


 華は背もたれに身体を預けた。


 原稿としては悪くない。


 むしろ、戻ってきている。


 坂本樹の言葉が、ようやく呼吸を取り戻し始めている。


 けれど、戻り方が危うかった。


 華は赤いペンを手に取った。


 いつもなら、画面の余白にすぐ書き込む。


 ここは逃げ。


 説明しすぎ。


 本音が遠い。


 そんな言葉を、迷わず入れただろう。


 けれど今回は、ペン先が止まった。


 この一文は、赤字だけで済ませていいものではなかった。


 文章は確かに樹のものだった。


 けれど、その奥に、別の呼吸が混じっている気がした。


 華の赤字とは違う。


 編集者の指示とも違う。


 もっと近くで読んだ誰かの声。


 作家を正すためではなく、読者として置いていかれた場所を伝えた声。


 華は画面を見つめたまま、スマホを取った。


 樹に電話をかける。


 数回の呼び出し音のあと、樹が出た。


『もしもし』


「原稿、読んだわ」


『早いな』


「たまたま時間が空いたの」


『どうだった』


 樹の声には、少しだけ緊張が混じっていた。


 華は画面の一文を見たまま言った。


「文章は戻ってきてる」


『そうか』


「でも、戻り方が危うい」


 電話の向こうで、樹が黙った。


 華は続ける。


「これ、優の言葉から書いたの?」


『そのつもりはない』


「そのつもりがない時ほど、あなたは書くのよ」


 樹は答えなかった。


 華は、その沈黙だけで十分だった。


「優と話したのね」


『……ああ』


「アトリエのこと?」


『扉の前で話した』


「中には?」


『入らなかった。優が、今日はまだいいと言った』


 華は目を閉じた。


 優らしいと思った。


 入れないのではなく、今は入りたくない。


 もしそういう言葉を選んだのなら、あの子は少しだけ自分で立ち直ろうとしている。


 その一方で、樹の原稿はその痛みに近づきすぎている。


「あなた、書くことで整理しようとしてるんじゃないでしょうね」


『整理できるほど、分かっていない』


「なら、なおさら気をつけなさい」


 華は赤いペンを置いた。


「優の痛みは、あなたの原稿の材料じゃない」


 電話の向こうで、樹が息を呑む気配がした。


『分かっている』


「分かっているだけじゃ足りない時があるの」


『……そうだな』


 樹の声は静かだった。


 反論はなかった。


 昔なら、もう少し言葉を重ねたかもしれない。


 これは創作だ。


 直接書いたわけではない。


 人は傷を通してしか書けないこともある。


 そんなふうに、作家らしい言い訳をしたかもしれない。


 でも今の樹は、黙って聞いていた。


 それは進歩なのかもしれない。


 けれど、華は安心できなかった。


「この一文、あなた一人で書いたものじゃないわね」


『書いたのは私だ』


「そういう意味じゃないわ」


 華は画面を見る。


「誰かに読ませたでしょう」


 樹は黙った。


 華はその沈黙で、相手が誰か分かった。


「優のバイト先の店長さん?」


「確か……そう!山瀬さん」


『……読者として、読んでもらった』


「読者として、ね」


 華はその言葉を繰り返した。


 責めるようには言わなかった。


 けれど、自分でも声が冷えたのが分かった。


『華』


「読者って便利な言葉よ」


 華は静かに言った。


「近づきすぎた時にも、そう呼べてしまうから」


 樹は黙った。


 華は窓の外を見る。


 ビルの隙間から、午後の光が差していた。


 明るいはずなのに、どこか冷たい光だった。


「山瀬さんに会うわ」


『華』


「止めるの?」


『いや』


 樹の声は低かった。


『止める資格はない』


「そうね」


 華は電話を切った。


 そして、もう一度原稿を見た。


 彼は帰りたかった。けれど、帰っていいと言われるのを、ずっと待っていた。


 編集者として、樹の原稿に影響を与えた読者を見ておく必要がある。


 母親として、優の近くにいる人を見ておく必要がある。


 そして個人的にも。


 華はそこまで考えて、目を伏せた。


 個人的な理由には、まだ名前をつけないでおくことにした。


     ◇


 Café Mélodieのベルが鳴ったのは、昼下がりだった。


 店内は少し落ち着いていた。


 ランチの客が帰り、夕方の客が来る前の、短い空白の時間。


 理織はカウンターでカップを拭いていた。


「いらっしゃいませ」


 顔を上げた瞬間、理織は少しだけ動きを止めた。


 入ってきた女性は、背筋がまっすぐ伸びていた。


 派手な服装ではない。


 けれど、柔らかいだけの人ではないと、一目で分かった。


 短く整えられた髪。


 落ち着いた目。


 店内を見渡す視線は、客のものというより、何かを確認する人のものだった。


 女性は理織を見る。


「突然ごめんなさい」


 その声は静かだった。


「樹の原稿のことで、少し確認したいことがあって来ました」


 理織の指が、カップを持ったまま止まった。


「原稿、ですか」


「坂本華です」


 理織の胸が、小さく跳ねる。


 坂本華。


 優の母。


 樹の元妻。


 そして、樹の担当編集。


 何度も名前だけは聞いていた人が、今、目の前にいる。


 華は続けた。


「優の母で、樹の担当編集でもあります」


 理織はカップを置き、姿勢を正した。


「山瀬理織です」


「知っています」


 その一言で、店内の空気が少し締まった。


 責められているわけではない。


 けれど、軽く流せる空気でもなかった。


 理織は席を案内しようとした。


「お好きなお席へどうぞ」


 華は店内を見た。


 本棚。


 窓際の席。


 隅に置かれた電子ピアノ。


 黒板に書かれた本日のおすすめ。


 そして、坂本樹の本が並ぶ棚。


 華の視線は、最後に窓際の席で止まった。


「あそこが、あの人の席?」


 理織はすぐに答えられなかった。


「決まっているわけではありません」


「でも、そこに座るのね」


 理織は否定できなかった。


「……はい」


 華は窓際には座らなかった。


 少し離れた、店全体が見える席に腰を下ろした。


 理織は水を運ぶ。


「ご注文は」


「深煎りを」


 理織はわずかに目を上げた。


 樹と同じ注文だった。


 華はその反応に気づいたように、少しだけ口元を緩める。


「昔から、あの人は苦いものを飲みたがるの」


 水のグラスに指を添えながら、華は言った。


「甘いものから逃げるみたいに」


 理織は何も言えなかった。


 その一言だけで、華が樹を長く見てきた人だと分かった。


 理織は深煎りを淹れた。


 いつもより、手元に意識が向いた。


 湯を注ぐ音。


 立ち上がる香り。


 カップに落ちる黒い液体。


 その一つ一つが、今日は少しだけ重く感じた。


 カップを華の前に置く。


「お待たせしました」


「ありがとう」


 華は一口飲んだ。


 それから静かに頷く。


「美味しいわ」


「ありがとうございます」


 理織は少しだけ頭を下げた。


 華はカップを置く。


「先に、用件を言うわね」


「はい」


「あの人が、あなたに原稿を読んでもらったと言っていたから」


 理織の胸が小さく痛んだ。


「はい」


「担当編集としては、樹の原稿に影響を与えた人を知っておきたかった」


 華は理織を見た。


「母親としては、優の近くにいる人を見ておきたかった」


 理織は、すぐに返事ができなかった。


 華の言葉は、冷静だった。


 けれど、逃げ場がなかった。


「個人的には……」


 華は少しだけ間を置いた。


 理織が顔を上げる。


 華は静かに微笑んだ。


「そこは、まだ言わないでおくわ」


 その微笑みは、優しいのに、どこか痛かった。


 華は続けた。


「あなたを責めに来たわけじゃないの」


 理織は息を止めた。


「でも、何も言わずにいるつもりもない」


「……はい」


 理織は向かいに座らなかった。


 立ったまま聞くのも違う気がした。


 華はそれに気づいたように、向かいの椅子を見た。


「座ってもらえる?」


「はい」


 理織は静かに腰を下ろした。


 テーブルを挟んで、華と向き合う。


 樹と向き合った時とは違う緊張があった。


 華は、優の母としてそこにいた。


 同時に、樹の言葉を誰より近くで見てきた編集者としてもいた。


「あなたは、あの人の言葉が好きなのね」


 華が言った。


 理織は迷わなかった。


「はい」


「樹のことは?」


 その問いには、すぐに答えられなかった。


 樹の言葉。


 書けない樹。


 アトリエで資料に埋もれていた樹。


 原稿の一文を書き直した樹。


 そのすべてが、理織の中で重なっていた。


「まだ、分かりません」


 理織は正直に答えた。


 華は目を細める。


「分からないなら、余計に気をつけた方がいいわ」


「はい」


「言葉を書いた人間は、言葉ほど綺麗じゃない」


 その言葉は、静かだった。


 けれど、強かった。


 理織は頷く。


「それは、少し分かった気がします」


「少し?」


「はい」


 理織は手元を見た。


「私は、坂本先生の言葉に救われました。だから、その言葉を書いた人を、どこかで綺麗なまま見ていたんだと思います」


 華は黙って聞いている。


「でも、実際に会った坂本先生は、書けなくて、迷っていて、後悔していて」


 理織は言葉を選んだ。


「それでも、言葉が嫌いになったわけではありませんでした」


 華の表情は変わらなかった。


 でも、理織の言葉を軽く聞き流してはいないことは分かった。


「そう」


 華は短く言った。


「あの人は、弱い人よ」


 理織は顔を上げた。


 華は、窓際の席を見る。


「弱いくせに、弱さを文章にすると強く見える」


 華の声には、怒りだけではないものがあった。


 諦め。


 理解。


 それでも捨てきれない何か。


「だから厄介なの」


 理織は何も言えなかった。


 華はコーヒーを一口飲む。


「あなたの前では、あの人は書けない自分でいられるのかもしれない」


 理織の胸が小さく揺れた。


「それは、あの人にとって救いになると思う」


 救い。


 その言葉は、理織の中に静かに落ちた。


 でも、華はすぐに続けた。


「でも、救いは時々、人を甘やかすわ」


 理織は唇を結んだ。


 反論はできなかった。


 自分が樹を救いたいと思った時、その中に本当に厳しさがあったのか。


 ただ、書けない樹を見ていられなかっただけではないのか。


 樹に必要とされることに、自分が救われていたのではないか。


 そう思うと、胸が痛んだ。


「あなたが樹を救うのは、あなたの自由よ」


 華は、理織をまっすぐ見た。


「でも、その救いで優を傷つけるなら、私は黙っていない」


 理織は息を呑んだ。


 それは、責める言葉ではなかった。


 境界線を引く言葉だった。


 母親の言葉だった。


「分かっています、とは言えません」


 理織は言った。


 華の目が、少しだけ動く。


「分かっていたつもりで、足りなかったので」


 優の顔が浮かぶ。


 あの部屋の外にいたのに、と言った時の優。


 悲しみを怒りにできず、置き場所をなくしていた優。


「私は、優くんの音を聴いていたつもりでした」


 理織は続けた。


「でも、痛みまでは、ちゃんと聴けていませんでした」


 華はしばらく黙っていた。


 その沈黙は、理織を測るようでもあり、自分の中の何かを押さえるようでもあった。


「そうね」


 華はやがて言った。


「分かっているつもりの人が、一番危ないこともあるわ」


「……はい」


「でも」


 華はカップを見つめた。


「今の言葉が言えるなら、まだ立ち止まれるわ」


 理織は少しだけ目を伏せた。


 許されたわけではない。


 認められたわけでもない。


 それでも、完全に拒まれたわけでもなかった。


 その距離が、華らしいと思った。


「華さんは」


 理織は、気づけばそう聞いていた。


「坂本先生のことを、今も見ているんですね」


 言ってから、踏み込みすぎたと思った。


 けれど、華は怒らなかった。


 少しだけ笑った。


「担当編集だから」


「それだけですか」


 華は一瞬黙った。


 その沈黙に、理織は答えを見た気がした。


「それだけで済んでいたら、もっと楽だったでしょうね」


 華の声は、少しだけ遠かった。


 けれど、すぐに表情を戻す。


「でも、私はもうあの人の帰る場所にはならない」


 理織は息を呑んだ。


 華は続ける。


「だからといって、誰がなってもいいとは思っていない」


 その言葉には、嫉妬とは違う重さがあった。


 華は樹を手放している。


 でも、どうでもいいわけではない。


 樹がどこへ帰るのか。


 誰の前で弱さを見せるのか。


 そのことに、まだ痛みを覚えている。


 理織には、それが分かった。


「私は」


 理織は、自分の手元を見た。


「坂本先生を救いたいと思っているのかもしれません」


 口にした瞬間、違う気もした。


 救いたい。


 それは本当だ。


 でも、それだけではない。


「でも、それだけではない気もします」


 華は何も言わずに聞いている。


「坂本先生の言葉に、私は救われました」


 理織は言った。


「だから、今度は私が少しでも返せたらと思いました」


 言葉にすると、綺麗すぎる気がした。


 理織は首を横に振る。


「でも、それが本当に誰かのためなのか、自分のためなのか、分からなくなる時があります」


 華は、理織を見つめた。


 厳しい目だった。


 でも、冷たくはなかった。


「分からないなら、立ち止まりなさい」


「はい」


「立ち止まることは、逃げることとは違うわ」


 その言葉は、理織の胸に深く沈んだ。


 優にも言えそうな言葉だった。


 樹にも言えそうな言葉だった。


 そして、自分にも必要な言葉だった。


「あなたがあの人の読者でいたいなら、それでもいい」


 華は続けた。


「でも、読者のままではいられないところまで来ているなら、自分でそれを分かっていなさい」


 理織は答えられなかった。


 読者でいたい。


 その方が安全だった。


 でも、もうそれだけではないことを、自分でもどこかで分かっていた。


 華はコーヒーを飲み干した。


「ごちそうさま」


「ありがとうございます」


 理織は立ち上がる。


 会計を済ませる間、華はもう一度店内を見た。


 窓際の席。


 本棚。


 電子ピアノ。


 華の視線が、電子ピアノで少し止まった。


「あの子、ここで弾いたのね」


「はい」


「そう」


 華の声が少しだけ柔らかくなった。


「この店は、優にとっても大事な場所なのね」


 理織は頷いた。


「そうだと思います」


「なら、守ってあげて」


 華は理織を見た。


「樹からも」


 理織は胸が詰まった。


 華はすぐに言葉を足す。


「もちろん、あなた自身からも」


「……はい」


 華は財布をしまい、ドアへ向かった。


 その前に、窓際の席を見た。


「あの席、あの人には少し優しすぎるかもしれないわね」


 理織は何も言えなかった。


 華は続ける。


「でも、優にも必要だったのね」


 その一言で、華が店を否定していないことが分かった。


 理織は深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


 華はドアを開ける。


 ベルが鳴る。


 午後の光の中へ、華の背中が出ていった。


     ◇


 華が帰ったあと、理織はしばらく動けなかった。


 店内は静かだった。


 窓際の席は空いている。


 華が座った席には、カップの跡が残っていた。


 樹が残す跡とは違う。


 優が残した音とも違う。


 けれど、その跡もまた、この店に何かを残していた。


 理織は布巾を手に取り、テーブルを拭いた。


 編集者としては、樹の原稿に影響を与えた人を知っておきたかった。


 母親としては、優の近くにいる人を見ておきたかった。


 個人的には、まだ言わない。


 華が言わなかった部分が、理織の胸に残っていた。


 言葉を書いた人間は、言葉ほど綺麗じゃない。


 あなたが樹を救うのは、あなたの自由よ。


 でも、その救いで優を傷つけるなら、私は黙っていない。


 私はもうあの人の帰る場所にはならない。


 だからといって、誰がなってもいいとは思っていない。


 華の言葉が、一つずつ胸に残っていた。


 理織は窓際の席に立つ。


 午後の光が、店の床に落ちている。


 木洩れ陽のような光だった。


 柔らかくて、静かで、触れたものを少しだけ温める。


 自分は、そんなものになりたかったのかもしれない。


 誰かを急がせず、少し休ませる場所。


 樹にとっても。


 優にとっても。


 けれど、木洩れ陽は時々、影の深さを見落とす。


 華は違った。


 月灯りのような人だと思った。


 優しく包むというより、隠していたものを静かに浮かび上がらせる人。


 冷たくて、澄んでいて、嘘を許さない光。


 理織は、華の座っていた席を見る。


 あの人は、樹を手放している。


 でも、見ていないわけではない。


 優を守りながら、樹の危うさも見ている。


 そして、自分の危うさも見抜いた。


「読者でいるだけなら……」


 理織は小さく呟いた。


 こんなに苦しくはなかった。


 本を閉じれば、距離は戻せた。


 けれど、本の外で出会ってしまった人たちは、ページを閉じても消えてはくれない。


 樹の言葉。


 優の音。


 華の視線。


 それらが、Café Mélodieの中で静かに重なっている。


 華の言葉は、月の雫のように、理織の胸に落ちていた。


 冷たくて、澄んでいて、触れた場所をはっきりと浮かび上がらせる。


 その光の中で、理織は知った。


 自分はもう、ただの読者ではいられない。


 けれど、何者になればいいのかも、まだ分からなかった。

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