第33話 読者と作家の距離
窓際の席は、空いていた。
ただ空いているだけなのに、そこにはいくつもの時間が残っているように見えた。
優が音を鳴らした時間。
樹が原稿を広げた時間。
何も言えないまま、誰かの言葉を待っていた時間。
理織は、開店前のCafé Mélodieで、その席を見ていた。
椅子はきちんと収まっている。
テーブルも拭き終えている。
コーヒーカップの跡もない。
それでも、胸の奥にはまだ昨日の声が残っていた。
俺は、あの部屋の外にいたのに。
優の言葉。
静かだった。
責める声ではなかった。
だからこそ、痛かった。
理織はカウンターへ戻り、カップを並べ直した。
自分は樹のアトリエに入った。
資料を整理した。
写真も見た。
それは、ただの手伝いではなかった。
優が入れなかった場所に、自分が入ってしまったということだった。
樹の言葉が止まっているのを見ていられなかった。
それは本当だ。
でも、本当だからといって、誰も傷つかないわけではなかった。
「距離って、難しいな……」
小さく呟く。
読者と作家。
本の中なら、その距離は簡単だった。
本を開けば、樹の言葉に会える。
ページを閉じれば、そこから離れられる。
けれど本の外では、そうはいかない。
言葉を書いた人には、過去がある。
家族がある。
傷つけた誰かがいる。
そして、自分の優しさで傷つけてしまう誰かもいる。
その時、スマホが震えた。
理織は画面を見る。
坂本樹からだった。
«先日はありがとうございました。
原稿を少し書き直しました。
もし差し支えなければ、短い部分だけ読んでいただけませんか。
お店の休憩時間にでも。»
理織は、しばらく画面を見つめた。
休憩時間に……
その言葉に、樹も距離を測ろうとしているのだと分かった。
すぐには返せなかった。
原稿を読む。
それは、資料を分けるよりも近い。
作家が書いたものに触れるということだ。
しかも、まだ誰にも渡されていない言葉に。
自分は編集者ではない。
華のように赤字を入れられる人間でもない。
ただの読者だ。
けれど、読者だからこそ言えることもあるのかもしれない。
理織は、ゆっくり文字を打った。
«お店でなら。
読者として、読ませてください。»
送信する。
すぐに既読がついた。
少しして、返事が来る。
«ありがとうございます。
読者として、お願いします。»
理織はスマホを伏せた。
胸の奥が、静かに揺れている。
近づいている。
それは分かっていた。
だからこそ、間違えてはいけないと思った。
◇
昼過ぎ、優が店に来た。
今日はシフトではない。
けれど、入口のベルが鳴って顔を上げると、優が立っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
理織は少し驚きながらも、いつものように迎えた。
「今日は、大学は?」
「少し早く終わりました」
「そっか」
短いやり取りのあと、少しだけ沈黙が落ちる。
優は窓際の席を見た。
それから、カウンターの方へ歩いてきた。
「店長」
「うん」
「父さんと話しました」
理織は手を止めた。
「……そう」
「アトリエの前で」
理織の胸が小さく痛む。
優は続けた。
「中には、まだ入りませんでした」
「うん」
「でも、扉の前までは行きました」
その言葉を聞いて、理織は息を吐きそうになった。
安心した、とは違う。
簡単に安心していい話ではない。
でも、優が自分の言葉でそこまで行ったことが、ちゃんと伝わってきた。
「教えてくれてありがとう」
理織は言った。
優は少しだけ目を伏せる。
「店長にも、言っておいた方がいいと思ったので」
「うん」
「まだ、うまく言えません」
「うん」
「でも、父さんには言いました」
理織は頷いた。
「すごいね」
優は首を横に振った。
「すごくはないです」
「でも、言ったんだよね」
「……はい」
優は小さく頷いた。
その顔は、まだ痛みを抱えている。
けれど、昨日のように沈んでいるだけではなかった。
扉の前まで行った人の顔だった。
理織は、何かを言いたくなった。
謝罪も。
励ましも。
でも、そのどれも今は少し違う気がした。
「無理に、前みたいにしなくていいから」
理織は静かに言った。
優が顔を上げる。
「ちゃんと距離を測りながらでいいと思う」
「距離」
「うん」
理織は窓際の席を見る。
「近づくことだけが、大事なわけじゃない気がするから」
優は、その言葉をゆっくり受け取るように黙った。
それから、小さく頷いた。
「そうですね」
優は少しだけ笑った。
「俺、まだ店長に普通に話せるか分からないです」
「うん」
「でも、話したくないわけじゃないです」
その言葉が、理織にはありがたかった。
同時に、痛かった。
「ありがとう」
理織が言うと、優は少し困ったような顔をした。
「ありがとうって言われることなのかは、分からないです」
その言い方が、樹とどこか似ていた。
理織は少しだけ笑いそうになり、すぐに抑えた。
「そういうところ、似てるね」
「誰とですか」
「……ううん。何でもない」
優は少しだけ眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。
「今日は、帰ります」
「うん。気をつけて」
優は軽く頭を下げ、店を出ていった。
ベルの音が鳴る。
理織は、その背中を見送った。
距離は、まだある。
でも、完全に切れてはいない。
そのことが、今はとても大切に思えた。
◇
閉店後。
Café Mélodieの店内には、深煎りの香りだけが残っていた。
テーブルの上には、コーヒーカップが二つ。
その横に、数枚の原稿が置かれている。
樹は、前より少し小さな鞄で来ていた。
資料は広げていない。
原稿の紙だけ。
コーヒーを置く場所は、ちゃんと残っていた。
「今日は、コーヒーの置き場がありますね」
理織が言うと、樹は少しだけ頭を下げた。
「前回の反省です」
「大きな進歩です」
「はい。まずはそこから」
軽い会話。
けれど、空気は以前より慎重だった。
理織は、原稿の前に座る。
「今日は、店長としてではなく、読者として読みます」
「分かっています」
樹は静かに答えた。
「読者として、お願いします」
理織は頷き、原稿を手に取った。
紙は数枚だった。
文字は整っている。
余白も綺麗だった。
坂本樹の文章だ、と一行目で分かった。
静かで、呼吸が深くて、読む人を急がせない。
迷子になった男が、古い駅にたどり着く場面だった。
男は帰る場所を探している。
けれど、駅名を読めない。
切符も持っていない。
ホームには誰もいない。
ただ、遠くから誰かの声が聞こえる。
帰ってきていい、と言われた気がする。
でも男は、その声の方へ歩き出せない。
理織は、ゆっくり読んだ。
文章は綺麗だった。
何度も読み返したくなるような、静かな力があった。
けれど。
読み終えた時、理織の胸には、少しだけ寂しさが残った。
樹は、黙って待っている。
理織は原稿をテーブルに置いた。
「どうでしたか」
樹が聞いた。
理織はすぐに答えられなかった。
褒めることはできる。
綺麗でした。
好きです。
坂本先生らしいです。
それは、全部本当だった。
でも、それだけではいけない気がした。
今日は、読者として読ませてくださいと言った。
なら、届いたところだけではなく、届かなかったところも言わなければいけない。
「綺麗でした」
理織は言った。
樹は静かに頷く。
「ありがとうございます」
「でも」
理織は原稿に視線を落とした。
「少し、遠い気がしました」
樹の表情が止まる。
「遠い?」
「はい」
理織は言葉を探す。
華のように鋭くは言えない。
赤字を入れることもできない。
でも、読んで感じた寂しさなら言える。
「本当に痛い場所から、一歩離れて書いている気がしました」
樹は黙った。
その沈黙は、傷ついた沈黙だった。
けれど、拒んでいる沈黙ではなかった。
理織は続ける。
「文章は綺麗です」
「……はい」
「でも、綺麗なまま、書いている人だけ先に安全な場所へ行ってしまったみたいで」
自分で言いながら、理織の胸も痛んだ。
樹を責めたいわけではない。
でも、読んでいてそう感じてしまった。
「私は、ここで置いていかれた気がしました」
樹は原稿を見た。
「置いていかれた」
「はい」
理織は頷く。
「男の人が帰れないことは分かるんです。でも、なぜ帰れないのか、その痛みの前で文章が止まっている気がして」
「止まっている」
「隠している、の方が近いかもしれません」
樹は目を伏せた。
その顔に、華の赤字を見た時と似た痛みが浮かんだ。
けれど、少し違っていた。
華の赤字は、逃げ道を塞ぐ言葉だった。
理織の言葉は、置いていかれた読者の声だった。
「華なら」
樹は静かに言った。
「ここに赤字を入れたと思います」
「私は赤字は入れられません」
「ええ」
「でも」
理織は原稿に手を添えた。
「読んでいて寂しくなった場所は言えます」
樹は、ゆっくり理織を見た。
それから、小さく息を吐く。
「赤字がなくても、痛いことを言うんですね」
「すみません」
「いえ」
樹は首を横に振った。
「読者なので、ですね」
理織は少しだけ迷ってから、頷いた。
「はい」
その言葉を口にするのは、思ったより重かった。
「読者なので」
樹は原稿を手元へ戻した。
しばらく、文字を見つめている。
理織は、何も言わなかった。
言いすぎたかもしれない。
踏み込みすぎたかもしれない。
でも、今さら取り消すことはできなかった。
読んで、寂しくなった。
置いていかれた。
それは、理織の中に確かにあった感覚だった。
樹はペンを取った。
「ここを、直してもいいですか」
「もちろんです」
「読者の前で直すのは、少し落ち着きませんね」
「見ない方がいいですか?」
「いえ」
樹は少しだけ笑った。
「見ていてください」
理織は息を止めた。
見ていてください。
その言葉が、思ったより近くに聞こえた。
樹は原稿の一行に線を引いた。
元の文はこうだった。
彼は帰る場所を探していた。けれど、その場所の名を呼ぶことができなかった。
樹は少し考え、新しい一文を書いた。
彼は帰りたかった。けれど、帰っていいと言われるのを、ずっと待っていた。
理織は、その一文を見た。
胸の奥が静かに痛む。
優が立った扉の前。
父に、入っていいと言ってほしかった息子。
その影が、文章の奥に見えた気がした。
「近づきましたか」
樹が聞いた。
理織はすぐには答えなかった。
近づいた。
でも、その分、痛くなった。
理織はゆっくり頷く。
「はい」
そして、正直に言った。
「少し、痛くなりました」
樹は書き直した一文を見つめる。
「痛い方が、近いこともあるんですね」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「読者なので、断言はできません」
樹は小さく笑った。
「読者は、案外厳しい」
「華さんほどではありません」
「違う厳しさです」
樹は、原稿を丁寧に揃えた。
その手つきは、前より少し落ち着いていた。
◇
コーヒーは、少し冷めていた。
理織は新しいものを淹れ直そうか迷ったが、樹はそのままカップを手に取った。
「今日は、ありがとうございました」
「読んだだけです」
「それが、助かりました」
樹は原稿を鞄にしまう。
今日は鞄が閉まりにくくなることもなかった。
理織は、その様子を見ながら言った。
「坂本先生」
「はい」
「ひとつだけ、言っておきたいことがあります」
樹は顔を上げた。
理織は、少し緊張しながら続ける。
「今度は、隠さずにいたいです」
樹の表情が静かに変わった。
「優に、ですか」
「はい」
「……そうですね」
樹は深く頷いた。
「私もです」
理織はカップを見つめる。
「だから、今日のことも、必要なら私から話します」
「山瀬さん」
「でも、今すぐ全部言えばいいとも思っていません」
理織は言葉を選ぶ。
「優くんにも、受け取る準備が必要だと思うから」
樹は黙って聞いていた。
「だから、距離を間違えないようにしたいです」
それは、自分に言い聞かせている言葉でもあった。
樹はしばらく黙ったあと、静かに言った。
「読者と作家の距離は、思ったより難しいですね」
理織は少しだけ微笑んだ。
「本の中なら、簡単だったんですけどね」
「本の外では?」
「難しいです」
樹は頷いた。
「私も、そう思います」
二人は、しばらく黙っていた。
沈黙は気まずくはなかった。
けれど、近づきすぎるには危うい沈黙だった。
理織は、あえて席を立った。
「お会計、しましょうか」
「はい」
樹も立ち上がる。
その動きに、少しだけ距離が戻った。
理織はそれでいいと思った。
今は、それでいい。
◇
樹が帰ったあと、理織は窓際の席を片づけていた。
テーブルの上には、冷めかけたコーヒーの跡がある。
原稿はもうない。
赤字もない。
ただ、言葉を読んだ余韻だけが残っていた。
理織は布巾でテーブルを拭く。
赤字は入れなかった。
原稿を直したわけでもない。
ただ、届かなかった場所を伝えただけ。
それでも、樹の文章は少し変わった。
綺麗だった言葉が、少しだけ痛くなった。
その痛みは、きっと樹にとって必要なものだった。
でも、それを自分が言ってよかったのかは、まだ分からない。
理織は窓の外を見る。
夜の街に、人の流れが戻っている。
どこかで優が音に向き合っているかもしれない。
樹は今頃、アトリエで書き直した一文を見ているかもしれない。
華は、その原稿を読んだ時に何と言うのだろう。
読者と作家。
本の中では近い二人も、本の外では近づきすぎてはいけない。
けれど、遠すぎれば言葉は届かない。
その距離を、理織はまだ測りきれずにいた。
窓際の席は、また静かに空いた。
その空席に残った距離だけが、今夜は少しだけ遠く見えた。




