第32話 父と息子の境界線
翌日、優は大学の練習室にいた。
鍵盤の前に座っている。
譜面台には、何も置いていない。
弾きたい曲がなかった。
弾かなければいけない曲も、今は遠く感じた。
優は、そっと鍵盤に指を置く。
一音。
低い音が鳴る。
昨日、駅前のストリートピアノで鳴らした音に似ていた。
哀しみを含んだ音。
どこへも向かわない音。
その音が消えるのを待ってから、優は次の音を探した。
けれど、指は動かなかった。
哀しみは、音にしたはずだった。
でも、音にしたからといって、消えるわけではなかった。
「今日も止まってるね」
背後から声がした。
振り返らなくても、誰かは分かった。
「香」
「うん」
香はギターケースを肩から下ろし、練習室の端に置いた。
それから、優の隣ではなく、少し離れた椅子に座った。
近すぎない。
でも、離れすぎない。
昨日から、香はその距離を分かってくれている。
「分かる?」
優が聞くと、香はすぐに頷いた。
「分かるよ。昨日、あんな顔してたし」
「そんな顔してた?」
「してた」
「そっか」
優は鍵盤を見た。
白と黒の並びが、いつもより冷たく見えた。
香は少しの間、何も言わなかった。
それから、静かに聞いた。
「で、言うの?」
「誰に?」
「お父さんに」
優は答えなかった。
香は責めるような顔をしていない。
でも、逃がしてくれる顔でもなかった。
「店長さんには言ったんでしょ」
「うん」
「じゃあ、次はお父さんじゃない?」
「何を言えばいいか分からない」
優は正直に言った。
「言いたいことが多いのか、何もないのかも分からない」
「昨日言ってたじゃん」
香は、まっすぐ優を見る。
「入れてほしかったのかもしれないって」
優は息を止めた。
昨日の夜、自分が口にした言葉。
あの部屋に入りたかったのかな。
父さんに、入っていいって言ってほしかったのかもしれない。
言った時には、自分でも半分しか分かっていなかった。
でも、時間が経つほど、その言葉は胸の奥で形を持ち始めていた。
「言えるかな」
「知らない」
香は昨日と同じように即答した。
優は思わず香を見る。
香は肩をすくめる。
「でも、言わないと、また音が止まるよ」
「もう止まってる」
「じゃあ、余計に」
香の声は軽い。
でも、その軽さの下に、ちゃんと心配があった。
優はスマホを取り出した。
父とのトーク画面を開く。
そこには、昨日届いたメッセージが残っている。
山瀬さんに資料整理を手伝ってもらった。
原稿が少し進んだ。
いずれ、お前にもちゃんと話したい。
優はしばらく画面を見つめた。
それから、ゆっくり文字を打つ。
«少し話せますか。
アトリエのことを。»
送信ボタンの上で、指が止まった。
本当に送るのか。
送れば、父と話すことになる。
話せば、また傷つくかもしれない。
でも、送らなければ、昨日の一音はそのまま沈んでいくだけだ。
優は、息を吸った。
送信する。
画面に文字が並ぶ。
既読は、まだつかない。
優はスマホを伏せた。
香が言う。
「送れたじゃん」
「送っただけだよ」
「送らないよりは、ずっといいよ」
優は小さく頷いた。
鍵盤に視線を戻す。
まだ、音は出そうになかった。
でも、沈黙だけではなくなった気がした。
◇
樹はアトリエにいた。
机の前に座り、開いたノートパソコンを見つめている。
画面には、数行の文章があった。
けれど、続きを書けずにいた。
机の上には、理織が作った余白が残っている。
華の赤字原稿をまとめたファイル。
写真の箱。
使うか分からない取材メモ。
それらが、前より少し整った場所に置かれていた。
部屋はまだ散らかっている。
けれど、散らかったままでも、どこに何があるのか少しだけ分かるようになっていた。
樹は写真の箱を見た。
幼い優が、ピアノの前に座っている写真。
華が撮った写真。
自分がそこにいなかった日の写真。
その箱を開ける勇気は、今日はなかった。
スマホが震えた。
樹は画面を見る。
優からだった。
«少し話せますか。
アトリエのことを。»
樹は、しばらく動けなかった。
ついに来た。
そう思った。
来るべき言葉だった。
それでも、胸の奥が重くなる。
優がこの話を避けて通れないことも、自分が避けてはいけないことも分かっていた。
分かっているのに、画面を見る指が止まっていた。
樹は返信欄を開く。
すまない。
そう打った。
けれど、すぐに消した。
謝ることは簡単だった。
いや、簡単ではない。
けれど、謝ることで自分が先に言葉を置いてしまえば、優の言葉を聞く場所を狭めてしまう気がした。
華の声が蘇る。
まず聞きなさい。
優の話を。
あなたの言葉じゃなくて、あの子の言葉を。
樹は、ゆっくり打ち直した。
«分かった。
私も聞きたい。»
送信する。
すぐに、優から返事が来た。
«アトリエの前で話したいです。
中には、まだ入れません。»
樹は、その文を何度も読んだ。
中には、まだ入れません。
その言葉が、扉の前に立つ優の姿を見せた。
樹は、短く返す。
«分かった。
外で待っている。»
送ったあと、樹は立ち上がった。
部屋を見渡す。
この部屋に、優を呼ばなかった。
呼ぼうともしなかった。
仕事場だから。
原稿があるから。
締切があるから。
そんな理由を並べれば、いくらでも言える。
けれど本当は、自分が父親であることを、この部屋に入れたくなかったのかもしれない。
樹は扉を見る。
その向こうに、息子が来る。
中には入らずに。
扉の外で。
樹は、鍵を手に取った。
◇
Café Mélodieでは、理織がシフト表を見ていた。
優は今日は入っていない。
樹も来ていない。
窓際の席は空いていた。
その空席が、いつもより広く見える。
理織は、カウンターの中で手を止めた。
昨日の優の声が、まだ残っている。
俺は、あの部屋の外にいたのに。
あの言葉を思い出すたび、胸の奥が痛んだ。
自分は、樹のアトリエに入った。
資料整理をした。
写真を見た。
それは、ただの手伝いではなかった。
優が入れなかった場所に、自分が入ってしまったということだった。
理織はスマホを見た。
優に連絡したい気持ちがあった。
大丈夫?
昨日はごめんね。
ちゃんと話したい。
いくつもの言葉が浮かんでは消える。
でも、今は違う気がした。
これは、自分が入っていい時間ではない。
樹と優が、父と息子として向き合わなければいけない場所だ。
理織はスマホを伏せた。
「今度は、私が入る場所じゃない」
小さく呟く。
窓際の席を見る。
そこには誰もいない。
けれど、そこに残ったものは、まだ消えていなかった。
◇
夕方。
優は、樹のアトリエがある建物の前に立っていた。
駅から少し離れた、静かな通り。
古いマンション。
理織が三日前に来た場所。
優は見上げる。
三階の廊下に、薄い明かりが見えた。
あそこに、父の部屋がある。
自分の知らない父の場所。
理織が入った場所。
自分がずっと外にいた場所。
胸の奥が、また冷えそうになる。
けれど、優はその場を離れなかった。
階段を上がる。
一段ずつ。
足音が、思ったより大きく響いた。
三階。
廊下の奥。
扉の前で、樹が待っていた。
部屋の中ではない。
外で。
優の言葉の通りに、扉の外で待っていた。
「来てくれてありがとう」
樹が言った。
優は首を横に振る。
「まだ、中には入りません」
「分かっている」
樹はすぐに答えた。
その言い方に、優は少しだけ救われた。
無理に開けようとしない。
中を見せようとしない。
ただ、外で待っている。
それだけのことが、今は大事だった。
優は扉を見た。
木目のある普通のドアだった。
特別なものには見えない。
それなのに、ずっと遠かった。
「ここなんですね」
「ああ」
「父さんのアトリエ」
「そうだ」
短いやり取りのあと、沈黙が落ちた。
廊下の窓から、夕方の光が斜めに入っている。
優は、その光の中で言葉を探した。
胸の中にあるものを、順番に並べようとする。
でも、うまく並ばない。
理織。
父。
アトリエ。
発表会。
空席。
全部が重なっている。
「店長が入ったことが」
優はようやく口を開いた。
「嫌だったんだと思います」
樹は何も言わなかった。
優は続ける。
「でも、それだけじゃないです」
扉を見る。
その向こうに、父の言葉がある。
父の過去がある。
自分が知らない時間がある。
「俺は、あの部屋に入りたかったのかもしれない」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
でも、昨日より少しだけ、その痛みの形が分かった。
「でも、勝手に入りたかったわけじゃない」
優は樹を見る。
「父さんに、入っていいって言ってほしかったんだと思う」
樹の表情が揺れた。
優は目を逸らさなかった。
「俺は、ずっと外にいました」
声は静かだった。
「父さんの部屋の外にも」
一度、息を吸う。
「父さんの言葉の外にも」
樹は、長く黙っていた。
その沈黙は、逃げている沈黙ではなかった。
受け止めるための沈黙だった。
やがて、樹はゆっくり口を開いた。
「お前が外にいたのは」
声がかすかに震えていた。
「お前が勝手にそうしたからではない」
優は動けなかった。
樹は続ける。
「私が、中へ呼ばなかった」
その言葉が、廊下に静かに落ちた。
優は、何も言えなかった。
ずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。
でも、今聞いたからといって、すぐに楽になるわけではなかった。
胸の奥が、痛いまま少しだけほどける。
そんな感覚だった。
「仕事場だからと、言ってきた」
樹は言った。
「原稿があるから。締切があるから。集中できないから」
自分で並べた言葉を、樹は苦しそうに見ているようだった。
「けれど本当は、父親としての私を、この部屋に入れたくなかったのかもしれない」
優は眉を寄せた。
「どういう意味ですか」
「この部屋にいれば、作家でいられた」
樹は扉を見る。
「父親としてできなかったことを、見ないで済んだ」
優は唇を噛んだ。
怒りが少しだけ湧いた。
でも、その怒りはすぐに哀しみに沈んだ。
「それを、言ってほしかった」
優は言った。
「もっと前に」
「すまない」
樹は短く謝った。
それ以上、言葉を重ねなかった。
優は、その短さに救われた。
長い謝罪を聞きたいわけではなかった。
言い訳を聞きたいわけでもない。
ただ、父が自分を外に置いたことを、父自身の言葉で認めてほしかった。
「今言われても」
優は扉を見る。
「すぐには入れないよ」
「分かっている」
「父さんの部屋だからじゃない」
「ああ」
「父さんが、俺を入れなかった場所だから」
樹は、深く頷いた。
「そうだな」
廊下に、二人の影が伸びている。
優の影と、樹の影。
扉の前で、少しだけ重なっている。
樹はポケットから鍵を出した。
優の身体が少し強張る。
樹はそれに気づき、鍵を手の中に収めたまま言った。
「今、開けることもできる」
優は扉を見た。
その向こうに、理織が見た部屋がある。
自分の知らない父が、そこにいるのかもしれない。
入りたい。
そう思う自分が、確かにいた。
でも、まだ入れない。
それも、確かだった。
「今日は、まだいい」
優は言った。
樹はすぐに頷いた。
「分かった」
「入れないんじゃなくて」
優は、少し考えながら続けた。
「今は、入りたくない」
その言葉を言えたことに、自分で少し驚いた。
昨日までは、外にいた。
外に置かれていた。
でも今は、扉の前に立っている。
そして、入らないことを自分で選んでいる。
それは小さな違いだった。
でも、優には大きかった。
樹は鍵をしまった。
「分かった」
そして、静かに言った。
「いつか、お前が入りたいと思ったら言ってくれ」
優は樹を見る。
「その時は、私が開ける」
優は答えられなかった。
喉の奥が詰まる。
それでも、なんとか頷いた。
「……うん」
扉は閉じたままだった。
けれど、その前に二人で立っている。
中と外。
父と息子。
作家の部屋と、家族の場所。
その境界線は、まだ消えない。
でも、そこに立つことはできた。
優は、少しだけ息を吐いた。
「父さん」
「何だ」
「俺、店長に自分の気持ちをうまく言えなかった……」
樹は黙って聞いている。
「父さんにも、うまく言えない」
「ああ」
「怒ってるのか、悲しいのか、自分でも分からない」
優は扉を見た。
「でも、悲しかった」
樹は目を伏せた。
「そうか」
「うん」
優は続けた。
「だから、今日はそれだけ言いに来ました」
「聞かせてくれて、ありがとう」
樹の声は静かだった。
優は少しだけ首を横に振った。
「ありがとうって言われることなのかは、分からない」
「それでも」
樹は言った。
「聞けてよかった」
優は、扉をもう一度見た。
まだ、入らない。
けれど、もう知らない場所ではなかった。
そこに父がいることを、今日、自分の目で見た。
外で待っていた父を見た。
それだけで、すべてが変わるわけではない。
でも、何も変わらなかったわけでもない。
「今日は帰ります」
「ああ」
「また、話せますか」
樹の表情が、わずかに揺れた。
「もちろん」
優は小さく頷いた。
階段へ向かう。
数歩進んでから、振り返った。
樹はまだ、扉の前に立っていた。
中に戻らず、優を見送っていた。
優は軽く頭を下げた。
樹も、静かに頭を下げる。
その距離は、まだ遠かった。
でも、届かない距離ではなかった。
◇
夜、自宅に戻った優は、部屋の電子ピアノの前に座った。
母はまだ帰っていない。
部屋は静かだった。
優は鍵盤に手を置く。
今日、父と話した言葉が、胸の中に残っている。
私が、中へ呼ばなかった。
その時は、私が開ける。
優は目を閉じた。
すぐに許せるわけではない。
あの部屋に入れるわけでもない。
父との境界線が消えたわけではない。
でも、昨日とは違っていた。
昨日は、ただ外にいた。
今日は、扉の前に立った。
優は、一つの音を鳴らした。
低く、静かな音。
けれど昨日の音より、少しだけ長く響いた。
優はその響きを、最後まで聞いた。
扉は、まだ閉じたままだった。
優は、その向こうへは入らなかった。
けれど、扉の前に立つことはできた。
父と息子の境界線は、まだ消えない。
それでも、その線の向こうから、父の声が届いた。
その夜、優の鳴らした一音は、昨日より少しだけ長く響いていた。




