第31話 哀しみに包まれて
Café Mélodieのドアを開けた時、優はいつもの匂いに迎えられた。
深煎りのコーヒー。
焼き上がったばかりのパン。
少しだけ甘い、バターの匂い。
その匂いは、いつも優を少し落ち着かせてくれる。
けれど、その日はなぜか、胸の奥がざわついた。
「お疲れ様です」
優が声をかけると、カウンターの奥にいた理織が顔を上げた。
「お疲れ様」
いつもの声だった。
いつもの笑顔だった。
でも、優にはほんの少しだけ違って見えた。
疲れているような。
何かを考えているような。
そんな顔だった。
「店長」
「ん?」
「疲れてます?」
理織は一瞬、目を瞬かせた。
それから、少しだけ笑った。
「分かる?」
「分かります」
「そっか」
理織はカップを棚に戻した。
「定休日、少し用事があって」
「休めなかったんですか?」
「うん。まあ、少しね」
その答え方が、ほんの少し遅れた。
優は気づいた。
でも、それ以上は聞かなかった。
聞いてはいけない気がしたからではない。
聞いたら、何かが出てきてしまう気がしたからだ。
「今日もよろしくお願いします」
「よろしくね」
理織はエプロンを渡した。
優はそれを受け取る。
いつも通りの動き。
いつも通りの店。
けれど、理織の視線が時々、窓際の席へ向いていることに、優は気づいてしまった。
そこは、父がよく座るようになった席だった。
◇
昼の時間は忙しかった。
注文を取り、料理を運び、空いた皿を下げる。
常連客の笑い声。
カップの音。
厨房から聞こえるフライパンの音。
その全部が、いつも通りに流れていく。
優も、いつも通りに動いた。
そうしようと思った。
けれど、ふとした時に理織の横顔を見てしまう。
疲れている。
でも、ただ疲れているだけではない。
何かを言おうとしている。
言えないでいる。
そんな表情だった。
休憩時間になり、優は店の奥で水を飲んだ。
スマホを開く。
父からメッセージが届いていた。
優の指が止まる。
父からの連絡は、まだ慣れない。
開くまでに、少しだけ時間がかかる。
画面には、短い文章が並んでいた。
«この前、山瀬さんに資料整理を少し手伝ってもらった。
そのおかげで、原稿が少し進んだ。
いずれ、お前にもちゃんと話したい。»
優は、その文を何度も読んだ。
山瀬さん。
資料整理。
原稿が少し進んだ。
ひとつずつの言葉が、胸の奥に沈んでいく。
すぐには意味がつながらなかった。
いや、本当はつながっていた。
けれど、つながってほしくなかった。
父の資料。
山瀬理織。
原稿。
そして、アトリエ。
定休日に、理織が休めなかった理由。
窓際の席を見ていた理由。
すべてが、嫌なほど静かにつながった。
「……そっか」
優は小さく呟いた。
怒りは、すぐには来なかった。
ただ、身体のどこかから音が消えていくような感覚があった。
水の入ったグラスを見つめる。
手は震えていない。
息も乱れていない。
それなのに、胸の奥だけが冷えていく。
理織は悪くない。
父も、たぶん隠そうとしたわけじゃない。
だからこそ、どうすればいいのか分からなかった。
◇
閉店後のCafé Mélodieは、昼間とは違う顔をしていた。
テーブルには椅子が上げられている。
厨房の明かりは落ちている。
店内には、片づけ終えたあとの静けさが残っていた。
優はエプロンを畳んだ。
カウンターの上に置く。
理織はレジの確認をしていた。
その横顔を見ながら、優は言葉を探した。
聞かなければ、このまま帰ることもできる。
けれど、それをしたら、また自分の中で何かが止まる気がした。
香に言われたことを思い出す。
逃げるなよ。
分かってる。
ほんとに?
分かるようにする。
優は、小さく息を吸った。
「店長」
理織の手が止まった。
「はい」
優は、まっすぐ理織を見た。
「父さんのアトリエに行ったんですか?」
理織の表情が止まった。
その一瞬で、答えは分かった。
理織は視線を逸らさなかった。
「……うん」
短い返事だった。
優は頷いた。
「資料整理ですか?」
「うん」
理織は静かに言った。
「カフェでは広げきれなかったから」
「そうですか」
自分の声が思ったより落ち着いていて、優は少し驚いた。
理織はカウンターの内側から出てきた。
「黙っておきたかったわけじゃない」
「分かってます」
「でも、言うのが遅くなった」
「分かってます」
優は同じ言葉を繰り返した。
分かっている。
理織が隠そうとしたわけではないこと。
父が悪意で送ってきたわけではないこと。
自分を傷つけようとした人なんて、誰もいないこと。
分かっている。
分かっているから、苦しかった。
「ごめんね」
理織が言った。
優は首を横に振った。
「謝られることじゃないです」
「でも、傷つけたよね」
優は答えられなかった。
店の中が静かだった。
その静けさの中で、優の胸の奥にあったものが、少しずつ形になっていく。
「傷ついた、というより」
優は言った。
理織は黙って聞いている。
「俺は、あの部屋の外にいたのに」
その言葉を口にした瞬間、優自身が一番傷ついた。
理織の目が揺れる。
優は、もう止められなかった。
「父さんの仕事部屋って、俺にはずっと遠い場所でした」
言葉は静かだった。
でも、胸の奥は震えていた。
「入っていい場所じゃないと思ってました」
「優くん……」
「父さんがいない時も、あの部屋には父さんの言葉だけがある気がして」
優は笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「俺は、ずっと外にいたんです」
理織は何も言わなかった。
言い訳をしなかった。
それが、優には余計に苦しかった。
「そんなつもりじゃなかったって、言ってくれてもいいんですよ」
優は言った。
理織は静かに首を横に振る。
「言いたいけど」
理織の声は小さかった。
「それを言ったら、私が楽になるだけだと思う」
優は黙った。
理織は続けた。
「ごめん」
その声は、まっすぐだった。
「それを、私はちゃんと考えられてなかった」
「考えてなかったわけじゃないと思います」
優は言った。
「店長は、たぶん考えてくれてました」
「でも、足りなかった」
理織の言葉に、優は息を止めた。
足りなかった。
その言葉が、胸に刺さる。
自分も、香に言った。
大事だって言った。
でも、たぶん、それじゃ足りなかった。
大事にしていても、足りないことがある。
考えていても、届かないことがある。
自分がしたことと、今されていることが、少しだけ重なってしまった。
だから、優は理織を責めきれなかった。
「怒りたいのに」
優は小さく言った。
「怒れないんです」
理織は何も言わない。
「店長が悪いって思えないから」
優の声が、少しだけ震えた。
「父さんだけが悪いとも、もう思えないから」
視線を落とす。
自分の手を見る。
ピアノを弾く手。
でも、今は何も鳴らせそうにない手。
「だから、どこに置けばいいのか分からない」
理織は、少しだけ目を伏せた。
「置き場所のない気持ちって、苦しいね」
「はい」
優は頷いた。
「苦しいです」
言った瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけこぼれた気がした。
泣くわけではなかった。
叫ぶわけでもなかった。
ただ、静かに痛かった。
「今日は、帰ります」
優はエプロンを置いたまま、鞄を持った。
「優くん」
理織が呼ぶ。
優は振り返らなかった。
「すみません」
その言葉だけを残して、店を出た。
ドアのベルが鳴る。
冷たい夜の空気が頬に触れた。
店の中に残った明かりが、背中に滲んでいく。
◇
駅前の広場まで歩いてから、優は立ち止まった。
ストリートピアノが見えた。
誰も座っていない。
黒い蓋の上に、街灯の光が薄く落ちている。
ここで、理織に出会った。
ここで、香と弾いた。
ここから、自分の音は少しずつ外へ向かい始めた。
その場所の前で、優はスマホを取り出した。
香とのトーク画面を開く。
しばらく迷ってから、短く打った。
«父さんのアトリエに、店長が行ってた。»
送信する。
既読はすぐについた。
返信もすぐだった。
«どこにいる?»
優は広場を見た。
«駅前。»
香から、またすぐ返ってくる。
«動かないで。»
優はスマホを閉じた。
ベンチに座る。
夜の風が、少し冷たかった。
人の流れが、駅の入口へ吸い込まれていく。
優はその流れをぼんやり見ていた。
誰も、自分の胸の中にあるものを知らない。
当たり前だった。
でも、その当たり前が今日は少し寂しかった。
◇
急ぎ走って来たのか、香は少し息を切らしている。
優を見つけると、何も言わずに隣へ座った。
「早いね」
「走った」
「ごめん」
「謝るの禁止って言ったでしょ」
「……うん」
香は優の顔を見た。
それから、ストリートピアノへ視線を向ける。
「きつかったね」
優は答えなかった。
香は続ける。
「店長さんが悪いって思いたいわけじゃないんでしょ」
「うん」
「お父さんだけを責めたいわけでもない」
「うん」
「でも、痛い」
優はゆっくり頷いた。
「うん」
香は小さく息を吐いた。
「たぶんさ」
その声は、いつもより静かだった。
「入れたことが痛いんだよ」
優は香を見る。
香はまっすぐ前を見ていた。
「優が入れなかった場所に、店長さんが入ったことが」
その言葉は、優の中にあったものを正確に触れた。
優は何も言えなかった。
香は少しだけ眉を寄せる。
「それ、かなりきついよ」
「……うん」
「怒っていいと思うよ」
「怒れない」
「じゃあ、悲しんでいいよ」
優は小さく笑った。
笑えたのかどうか、自分でも分からなかった。
「それは、してる」
「うん。見れば分かる」
香はそう言って、優の隣で膝に肘を置いた。
「泣きたいなら泣けば」
「泣けない」
優は少しだけため息をついた。
香は、理織の悪口を言わなかった。
樹を責めることもしなかった。
ただ、優が痛いということだけを、そこに置いてくれた。
そのことが、ありがたかった。
「俺さ」
優はぽつりと言った。
「本当に、あの部屋に入りたかったのかな」
香は答えなかった。
優も答えを求めていなかった。
「入れてほしかったのかもしれない」
言葉にすると、胸が痛んだ。
「父さんに」
香は、ただ隣にいた。
「俺が入ったらだめな場所だと思ってた」
「うん」
「でも、本当は」
優はストリートピアノを見た。
「父さんに、入っていいって言ってほしかったのかもしれない」
香はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「それ、言えるといいね」
「父さんに?」
「うん」
「言えるかな」
「知らない」
香は即答した。
優は少しだけ目を丸くする。
香は肩をすくめた。
「言えるって簡単に言ったら、嘘っぽいじゃん」
「確かに」
「でも、言わないと、また音が止まるよ」
優は黙った。
「分かってる」
「ほんとに?」
「……分かるようにする」
「そこ、まだ弱い」
香の声は少しだけ優しかった。
優は小さく頷いた。
「うん」
◇
その頃、樹はアトリエにいた。
理織が整理した机の前に座っている。
机の上には、前より少しだけ余白がある。
華の赤字原稿はファイルにまとまっている。
写真の箱は、デスクの端に置かれている。
ノートパソコンの画面には、数行の文章があった。
けれど、樹の目はそこではなく、スマホの画面へ向いていた。
優へ送ったメッセージ。
«この前、山瀬さんに資料整理を少し手伝ってもらった。
そのおかげで、原稿が少し進んだ。
いずれ、お前にもちゃんと話したい。»
送るべきだと思った。
隠してはいけないと思った。
でも、送ったあとで気づいた。
これは、ただ報告すればいい話だったのだろうか。
優が知る前に、直接会って話すべきだったのではないか。
そもそも、理織をアトリエに入れるべきではなかったのではないか。
樹は両手で顔を覆った。
「また、遅いのか」
声は部屋の中に落ちた。
誰も答えない。
デスクライトの光だけが、白い画面を照らしている。
樹はキーボードに指を置いた。
書かなければと思った。
でも、何を書くべきなのか分からなかった。
それでも、指が動く。
扉を開けたのは、私ではない。
けれど、扉の前に立たせたのは、私だった。
樹はその一文を見つめた。
胸が苦しくなる。
これは、原稿ではない。
物語でもない。
ただの言い訳に見えた。
あるいは、懺悔だった。
樹はしばらくその一文を見ていた。
そして、消した。
白い画面が戻る。
けれど、一度書いた言葉は、もう完全には消えなかった。
樹の中に残ったまま、沈んでいった。
◇
Café Mélodieでは、理織が一人で店内に残っていた。
優が出ていったあとのドアを、しばらく見ていた。
謝りたかった。
もっと話したかった。
でも、追いかけることはできなかった。
今の優に、自分の言葉を押しつけてはいけないと思った。
理織は窓際の席を見る。
そこは、樹が座る席になりつつあった。
でも、元々は優が音を鳴らした店でもある。
理織は初めて、そのことを強く意識した。
この店は、自分の店だと思っていた。
でも、それだけではなかった。
優にとっても、ここは大切な場所になっていたのかもしれない。
音を聴いてもらった場所。
言葉を探した場所。
父と向き合う前に、立ち止まれた場所。
その場所に、樹が来た。
そして今度は、自分が樹のアトリエへ行った。
そのことが優を傷つけた。
理織はカウンターに手を置いた。
「……足りなかった」
小さく呟く。
考えていたつもりだった。
優のことも。
樹のことも。
華のことも。
けれど、足りなかった。
優くんの音を、私は聴いていた。
でも、優くんの痛みを、まだちゃんとは聴けていなかった。
理織は目を閉じた。
優の言葉が残っている。
俺は、あの部屋の外にいたのに。
その声は、店の静けさの中で何度も響いた。
◇
駅前の広場で、優はストリートピアノの前に立っていた。
香は少し離れた場所にいる。
何も言わない。
ただ、待っている。
優は椅子に座った。
鍵盤に手を置く。
冷たかった。
指先が、鍵盤の上で止まる。
理織の顔が浮かぶ。
父のアトリエ。
写真の箱。
自分が知らない父の部屋。
香の声。
怒れないなら、悲しんでいいよ。
優は、そっと一つの鍵盤を押した。
低い音が鳴った。
夜の広場に、その音が静かに広がる。
それは旋律ではなかった。
誰かへ向かう音でもなかった。
ただ、胸の奥に沈んでいた哀しみが、少しだけ外へ出た音だった。
優は目を伏せる。
「俺は」
小さく呟いた。
「あの部屋に入りたかったのかな」
香は答えなかった。
風が通り抜ける。
駅の明かりが、鍵盤の上に薄く落ちる。
哀しみは、怒りより静かだった。
誰かを責めれば楽になるほど、単純ではなかった。
理織の優しさも、樹の後悔も、香の声も、優の胸の中でほどけないまま重なっていく。
その夜、優の鳴らした一音は、どこへも向かわず、ただ哀しみに包まれて消えていった。




