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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第30話 真実への扉

翌日、樹は少しだけ早い時間にCafé Mélodieへやって来た。


 昼の混雑が過ぎ、店内に静けさが戻り始めた頃だった。


 理織がカウンターでカップを拭いていると、入口のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 顔を上げる。


 坂本樹が立っていた。


 昨日より、鞄は小さかった。


 けれど、どこか困ったような顔をしている。


「こんにちは」


「こんにちは、坂本先生」


 理織は少しだけ笑った。


「今日は、発掘品は少なめですか?」


 樹は鞄を見下ろした。


「今日は、持ってくるのを諦めました」


「諦めたんですか」


「ええ。持ってこられる量ではなかったので」


 理織はカップを拭く手を止めた。


「……そんなに?」


「昨日のものが、かわいく見えるくらいには」


 樹は真面目な顔で言った。


 理織は思わず小さく笑う。


「それは、かなりですね」


「かなりです」


 樹はいつもの窓際の席へ向かった。


 理織は深煎りコーヒーを用意する。


 昨日、資料を少し整理しただけで、樹の白い画面に何かが戻ったのだろうか。


 理織には分からない。


 それでも、ノートパソコンを閉じる時の樹の横顔は、前の日とは違っていた。


 呼吸が戻ったように見えた。


 そのことを、理織は覚えている。


 コーヒーを運ぶと、樹はノートパソコンを開いていた。


 今日は、画面に一行だけ文字があった。


 理織は見ようとしたわけではない。


 けれど、白い画面ではないことだけは分かった。


「書けたんですか?」


 つい、そう聞いてしまった。


 樹は画面から目を離す。


「書けた、というほどではありません」


「一文字もないよりは?」


「大きな進歩です」


 樹はそう言って、カップに手を伸ばした。


 理織は少しだけ安心した。


 昨日、自分が出来たのは、コーヒーを置ける場所を作っただけ。


 それでも、樹の言葉がほんの少し動いたのなら。


 そう思いかけて、理織はすぐにその考えを止めた。


 自分のおかげだと思ってはいけない。


 そういう形で、誰かの創作に近づいてはいけない。


 理織はカウンターへ戻ろうとした。


 その時、樹が言った。


「本当は、アトリエの方がもっとひどいんです」


 理織は振り返る。


「昨日の資料より、ですか?」


「ええ」


 樹は苦く笑う。


「昨日のは、氷山の先端です」


「沈んでいる部分があるんですね」


「沈みすぎて、もう自分でも底が見えません」


 理織は少し黙った。


 冗談のように聞こえる。


 けれど、樹の目は笑いきれていなかった。


「アトリエでは、広げられるんですか?」


「広げる場所はあります」


「片づける場所は?」


「ありません」


「それは困りますね」


「困っています」


 樹はコーヒーを見つめた。


 しばらく、二人の間に静かな時間が落ちる。


 店の奥で時計の針が進む音がした。


 理織は、言うべきか迷った。


 昨日みたいに、店のテーブルなら自然だった。


 コーヒーを置く場所がないから。


 お客様の原稿を床に落とすわけにはいかないから。


 店長として。


 でも、アトリエは違う。


 そこは店ではない。


 樹の場所だ。


 作家としての場所。


 父としての後悔も、華との過去も、優との距離も、きっとそこにある。


 そこへ踏み込む理由を、店長として、では済ませられない。


「ここでは、全部は広げられませんね」


 理織は静かに言った。


「そうですね」


「だから、いつも途中で諦めるんですか?」


 樹は少し驚いたように顔を上げた。


 それから、ゆっくり頷く。


「ええ。たぶん」


「たぶん?」


「諦めている自覚もなく、止まっていることがあります」


 理織は樹の鞄を見た。


 今日は小さい。


 けれど、その小さな鞄の向こうに、昨日よりずっと大きな散らばりがあるのだと思った。


「資料の分類だけなら」


 言いかけて、理織は止まった。


 樹がこちらを見る。


 理織は、自分で続きを言うのが少し怖かった。


 けれど、言わなければ、また窓際の席を見るたびに思い出してしまう気がした。


「店が休みの日に、少しなら見られますよ」


 樹はすぐに首を横に振った。


「それは、さすがに」


「ですよね」


 理織は小さく笑った。


「店長として、では通りませんね」


「通りませんね」


 樹も静かに答えた。


 そのやり取りのあと、少しだけ沈黙が落ちた。


 理織はカウンターの方へ視線を向ける。


 そこには、いつもの仕事がある。


 カップ。


 豆。


 黒板。


 常連客の席。


 自分の場所。


 そして、窓際には樹がいる。


 作家としての言葉を失いかけている人がいる。


 理織は、ゆっくり口を開いた。


「じゃあ……読者として、少しだけ」


 樹の表情が止まった。


 言った理織自身も、胸の奥が静かに鳴るのを感じた。


 店長としてではなく。


 読者として。


 その言葉を使ってしまった。


 樹は、すぐには答えなかった。


 コーヒーの湯気が、二人の間で薄く揺れている。


「読者を」


 樹は低く言った。


「そんな場所に入れるべきではないと思います」


「そうかもしれません」


「優が知れば、傷つくかもしれません」


 理織は息を止める。


 優の顔が浮かんだ。


 静かに笑う顔。


 ピアノの前で言葉を探す顔。


 父のことになると、少しだけ硬くなる横顔。


「はい」


 理織は頷いた。


「分かっています」


「それでも?」


 樹の声は、責めてはいなかった。


 ただ、確かめていた。


 理織は少しだけ目を伏せる。


「それでも、というほど強い覚悟があるわけじゃありません」


 正直に言った。


「ただ、昨日の資料を見て思ったんです」


「何を」


「坂本先生の言葉は、なくなったわけじゃないんだって」


 樹は黙っていた。


「たくさんありました。多すぎて、どこに置けばいいのか分からなくなっていただけで」


 理織は窓際のテーブルを見る。


「だから、少し並べるだけなら、できるかもしれないと思いました」


「それは」


 樹は言いかけて、止まった。


 理織は笑う。


「偉そうですね」


「いいえ」


 樹は首を横に振った。


「救われそうで、怖いだけです」


 理織は言葉を失った。


 救われそうで、怖い。


 その言葉は、思ったより深く胸に落ちた。


 人を救う言葉を書いてきた人が、誰かに救われそうになることを怖がっている。


 そのことが、ひどく人間らしく見えた。


     ◇


 アトリエへ行くことになったのは、その三日後だった。


 店の定休日。


 昼過ぎ。


 理織は、樹から送られてきた住所を見ながら、古いマンションの前に立っていた。


 駅から少し離れた場所にある、静かな建物だった。


 大きな看板もない。


 華やかさもない。


 有名作家の仕事場というより、誰にも見つからないための部屋のように見えた。


 理織は入口の前で足を止める。


 本当に来てよかったのだろうか。


 何度もそう思った。


 優には、まだ言っていない。


 隠したいわけではない。


 でも、何と言えばいいのか分からなかった。


 坂本先生のアトリエに、資料整理に行きます。


 それだけのことのはずなのに、言葉にすると、何かが違って聞こえる。


 理織はスマホを握りしめた。


 言わなければいけない。


 いつかは。


 そう思う。


 けれど今は、まだ言葉が見つからなかった。


 インターホンを押す。


 少しして、樹の声がした。


「はい」


「山瀬です」


「今、開けます」


 エントランスの扉が開く音がした。


 理織は中へ入った。


 階段を上がる。


 三階。


 廊下の奥の部屋。


 扉の前で、樹が待っていた。


「すみません。わざわざ」


「いえ」


 理織は少しだけ笑った。


「発掘調査に来ました」


 樹は小さく笑う。


「装備が足りないかもしれません」


「そんなにですか」


「見てから判断してください」


 樹はそう言って、部屋の扉を開けた。


 理織は、その扉の向こうを見た。


     ◇


 アトリエの中は、思っていたより静かだった。


 そして、思っていたより散らかっていた。


 本棚が壁一面に並んでいる。


 棚に入りきらなかった本が、床に積まれている。


 机の上には、原稿用紙、ノートパソコン、資料、付箋、空のマグカップ。


 壁には、人物相関図のような紙が貼られていた。


 赤い付箋。


 青い付箋。


 走り書きのメモ。


 使われなかったらしい言葉の切れ端。


 小さなテーブルの上には、封筒がいくつも重なっている。


 窓際には、古い段ボール箱。


 部屋の奥では、デスクライトだけが点いていた。


 昼なのに、カーテンが半分閉まっているせいで、部屋の中は少し暗い。


 その中で、デスクライトの明かりだけが、机の上を照らしていた。


 理織は、しばらく言葉を失った。


「どうでしょう」


 樹が聞く。


 理織はゆっくり部屋を見渡した。


「昨日の資料が、かわいく見えます」


「でしょう」


「誇るところではないと思います」


「分かっています」


 樹は少しだけ肩を落とした。


 理織は靴を脱ぎ、部屋に入る。


 一歩踏み込んだだけで、本と紙の匂いがした。


 コーヒーの匂いではない。


 店とは違う。


 ここは、樹の場所だった。


 言葉が生まれる場所。


 そして、言葉が止まっている場所。


 理織は、机の前で足を止めた。


 ノートパソコンは開かれていない。


 その横に、付箋が何枚も重なっている。


 ひとつには、短い文字があった。


 帰る場所。


 それだけ。


 理織は、その文字からすぐに目を離した。


 読んではいけないものを読んでしまった気がした。


「まず、どこから始めますか?」


 理織が聞く。


 樹は部屋を見渡した。


「それが分からないから、こうなっています」


「では、分かるところから始めましょう」


「分かるところ」


「本は本。原稿は原稿。資料は資料。捨てるものは、今日は決めない」


 樹は少し驚いたように理織を見た。


「捨てないんですか」


「今日は」


 理織ははっきり言った。


「捨てるかどうかを決めると、たぶん進みません」


 樹は、少し考えてから頷いた。


「その通りです」


「なので、今日は置き場所を決めるだけです」


「店長らしいですね」


「今日は読者として来たはずなんですけど」


「読者は、そんなに手際がいいものですか」


「本をたくさん買う人間は、置き場所に悩むんです」


 樹は、久しぶりに声を出して笑った。


 理織は、その笑い声に少しだけ胸が揺れた。


 けれど、すぐに視線を紙の山へ向けた。


 手を動かせば、余計なことを考えずに済む。


 そう思った。


     ◇


 二人は、まず床の本を分けた。


 資料として使う本。


 小説。


 辞書。


 雑誌。


 もう読まないけれど捨てられない本。


 最後の分類が出た時、樹は少し困った顔をした。


「また増えましたね」


「増えました」


「捨てられないものが多いんですね」


「ええ」


 樹は本を一冊手に取る。


「昔は、残しておくことも仕事だと思っていました」


「今は?」


「今は、残しておいたものに埋もれています」


 理織は返事に迷った。


 けれど、樹が少し笑っていたので、軽く返した。


「では、埋もれない高さにしましょう」


「それは助かります」


 本を棚に戻す。


 紙を分ける。


 封筒をまとめる。


 作業は地味だった。


 でも、少しずつ部屋の形が見えてきた。


 机の周りに、床が見える。


 段ボール箱の前に、通れる隙間ができる。


 デスクライトの光が、前より広く届くようになった。


 理織は額にかかった髪を耳にかけた。


「休憩しますか?」


 樹が聞いた。


「坂本先生の方が休憩したそうに見えます」


「顔に出ていますか」


「出ています」


「昨日も言われた気がします」


「たぶん、今日も出ています」


 樹は苦笑し、キッチンの方へ向かった。


「コーヒーでいいですか」


「はい」


 少しして、樹は二つのマグカップを持って戻ってきた。


 店のコーヒーとは違う。


 少し苦くて、少し薄い。


 理織はひと口飲んで、微笑んだ。


「家の味ですね」


「店の味には勝てません」


「勝たなくていいと思います」


「そうですか」


「はい。これはこれで、坂本先生の味です」


 言ってから、理織は少しだけ気まずくなった。


 坂本先生の味。


 何でもない言葉のはずなのに、少し近すぎた気がした。


 樹も同じことを感じたのか、カップに視線を落とした。


「変な言い方でしたね」


 理織が言う。


「いえ」


 樹は静かに答えた。


「少し、嬉しかったです」


 理織は返事をしなかった。


 窓の外を見る。


 昼の光が、カーテンの隙間から細く入っていた。


     ◇


 休憩のあと、理織は段ボール箱の前に座った。


「これは?」


「古いものです」


 樹の声が少し変わった。


 理織は手を止める。


「触らない方がいいですか?」


 樹はすぐには答えなかった。


 段ボール箱を見つめている。


「いえ」


 少しして、樹は言った。


「いつまでも閉じたままにしているから、こうなるのかもしれません」


 理織は蓋に手をかけた。


 ゆっくり開ける。


 中には、古い封筒や写真、紙袋が入っていた。


 資料というより、思い出に近いものだった。


 理織は、ひとつずつ外へ出していく。


 古いサイン会の写真。


 雑誌の切り抜き。


 出版社からの手紙。


 華の字が入ったメモ。


 そして、一枚の写真が出てきた。


 小さな男の子が、ピアノの前に座っている写真だった。


 少し緊張した顔。


 背筋を伸ばし、鍵盤の前でこちらを見ている。


 幼い優だと、理織にはすぐに分かった。


 写真の隅には、細い字で日付が書かれている。


 樹の手が、写真の前で止まった。


 理織は何も言わなかった。


 写真を樹に渡す。


 樹はそれを受け取り、しばらく見つめていた。


「その写真を撮ったのは、華です」


 樹が言った。


「そうなんですね」


「私は、そこにいませんでした」


 理織の胸が痛んだ。


 知っていた。


 優の口から、その日のことは聞いていた。


 けれど、写真を見ると、言葉で聞くよりも近かった。


 幼い優が、そこにいる。


 父が来るかもしれないと、きっと思っていた日の優が。


 樹は写真を段ボールの上に置いた。


「捨てられないんです」


 理織は黙っている。


「でも、ちゃんと飾ることもできない」


 樹の声は、淡々としていた。


 だからこそ、痛かった。


「見るたびに、あの日の席を思い出します」


 理織は、何を言えばいいのか分からなかった。


 大丈夫です。


 そんな言葉は違う。


 仕方なかったんです。


 それも違う。


 優くんは分かってくれます。


 もっと違う。


 理織は、ただ静かに言った。


「今日は、写真の箱に入れましょう」


 樹が理織を見る。


「写真の箱」


「はい」


 理織は空いている小さな箱を引き寄せた。


「捨てるか、飾るかは、今日決めなくていいと思います」


 樹は少しだけ目を伏せた。


「今日決めなくていいことばかりですね」


「はい」


 理織は頷いた。


「決められないものを、無理に決めようとするから、散らかるのかもしれません」


 樹は何も言わなかった。


 けれど、写真をそっと箱の中へ置いた。


 その手つきが、思ったより優しかった。


     ◇


 夕方が近づく頃、部屋は少しだけ変わっていた。


 劇的に片づいたわけではない。


 本の山はまだある。


 資料もまだ多い。


 机の上も完全には綺麗になっていない。


 けれど、床に通り道ができた。


 資料の束に名前がついた。


 写真は写真の箱に入った。


 華の赤字原稿は、ひとつのファイルにまとまった。


 ノートパソコンの前には、少しだけ余白ができた。


 樹はその机を見ていた。


「ずいぶん、部屋らしくなりました」


「元から部屋です」


「そうでしたね」


 樹は小さく笑う。


 理織はカバンを持った。


「今日はここまでにしましょう」


「ありがとうございました」


「発掘調査、一回目終了です」


「まだ続く前提ですか」


 樹が聞く。


 理織は少しだけ迷った。


 続く。


 そう言っていいのか。


 また来ると言えば、それはもう一度この部屋に入るということだ。


 樹の言葉と過去が散らばる場所に。


 優が入れなかったかもしれない場所に。


 理織はすぐには答えなかった。


 その沈黙に、樹も気づいた。


「無理にとは言いません」


「分かっています」


 理織は小さく息を吸う。


「でも、途中で終わると、余計に気になります」


「それは困りましたね」


「はい」


 理織は少し笑った。


「困りました」


 樹も笑った。


 けれど、その笑いの奥には、まだ言葉にならないものがあった。


 理織は玄関へ向かう。


 扉の前で、ふと振り返った。


 デスクライトが、机の上を照らしている。


 写真の箱。


 華の赤字原稿。


 白い画面の前にできた小さな余白。


 そのすべてが、静かな灯りの中にあった。


 理織は思う。


 この扉の向こうにあったのは、憧れていた作家の部屋ではなかった。


 言葉で誰かを救ってきた人が、言葉に追い詰められている場所だった。


 そして、そこには優の痛みも、華の時間も、樹の後悔も残っていた。


 知らなかったものを、知ってしまった。


 見なかったことにはできないものを、見てしまった。


「山瀬さん」


 樹が呼んだ。


 理織は振り返る。


「今日は、本当に助かりました」


「読者としてです」


 理織は言った。


「店長として」ではなく。


 樹はその言葉を受け止めるように、静かに頷いた。


「はい」


 少し間を置いて、樹は言った。


「読者として、助けられました」


 理織は小さく頭を下げた。


「では、また」


「はい」


 扉が開く。


 理織は部屋を出た。


 廊下に出ると、空気が少し冷たかった。


 背後で、扉が静かに閉まる。


 その音が、胸の奥に残った。


 真実への扉。


 開けてしまえば、もう開ける前には戻れない。


 理織は、そう思った。


 それでも。


 あの部屋の灯りを、もう少しだけ見ていたいと思ってしまった。

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