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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第29話 優しさの先にあるもの

昨日の白い画面のことを、理織はまだ気にしていた。


 気にしないようにしても、窓際の席を見るたびに思い出してしまう。


 一文字も書かれていなかった画面。


 そこに向き合っていた坂本樹の横顔。


 そして、床に落ちた付箋に書かれていた言葉。


 書けないのではない。

 書いてはいけないものの前で止まっている。


 理織は、開店前のCafé Mélodieでテーブルを拭いていた。


 昨日、樹が座っていた席も、もう綺麗になっている。


 コーヒーカップの跡もない。


 資料もない。


 付箋もない。


 けれど、あの空白だけが、まだそこに残っているような気がした。


「……だめだな」


 理織は呟いた。


 考えすぎている。


 そう思って、布巾を畳む。


 今日は今日の仕事がある。


 店を開けて、コーヒーを淹れて、お客様を迎える。


 それが自分の仕事だ。


 坂本樹の原稿をどうにかすることではない。


 そう言い聞かせる。


 けれど、カウンターに戻る前に、理織はもう一度だけ窓際の席を見てしまった。


     ◇


 昼過ぎの店内は、落ち着いていた。


 ランチの客が帰り、カップを洗う音だけが静かに響いている。


 理織が新しい豆を補充していると、ドアのベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 顔を上げた瞬間、理織は目を丸くした。


 坂本樹が立っていた。


 昨日よりも大きな鞄を持っている。


 肩に掛けたその鞄は、少し重そうだった。


「こんにちは」


「こんにちは、坂本先生」


 理織は、いつもの声を意識して返した。


「今日は、荷物が多いですね」


 樹は鞄を見下ろし、困ったように笑った。


「整理しようと思ったんですが、余計に散らかりました」


「それは整理じゃなくて、発掘ですね」


「発掘したものの、何を掘り出したのか分かりません」


 樹が真面目な顔でそう言ったので、理織は思わず笑ってしまった。


 昨日より、空気が柔らかい。


 でも、その柔らかさが、かえって理織を落ち着かなくさせた。


「今日も深煎りでいいですか?」


「お願いします」


 樹は窓際の席へ向かった。


 昨日と同じ席。


 鞄を横に置き、ノートパソコンを出す。


 そこまでは、普通だった。


 けれど、そのあとが普通ではなかった。


 原稿の束。


 取材メモ。


 付箋のついたコピー用紙。


 出版社からの封筒。


 古いノート。


 赤字の入った原稿。


 それらが、次々とテーブルの上に広がっていく。


 理織はコーヒーを淹れながら、その様子を見ていた。


 白い画面には何もなかった。


 でも、その周りには、こんなにもたくさんの言葉がある。


 ありすぎて、どこに置けばいいのか分からなくなっているみたいだった。


 理織はカップを持って、樹の席へ向かった。


 そして、立ち止まる。


「坂本先生」


「はい」


「コーヒーの置き場がありません」


 樹はテーブルを見下ろした。


 紙でいっぱいだった。


「ああ……失礼しました」


 樹は慌てて資料を寄せようとした。


 その瞬間、端に乗っていた付箋が一枚、ひらりと床に落ちる。


 理織はそれを拾った。


「あ、これはこっちですか?」


 樹は付箋を見て、考える。


「いえ……たぶん違います」


「たぶん?」


「正直、自分でも分かっていません」


 理織が笑った。


「かなり発掘が進んでいますね」


「進みすぎて、遺跡が崩れています」


「それは大変です」


 理織はコーヒーカップを持ったまま、テーブルの上を見る。


 このままでは、本当にカップを置けない。


 それどころか、少し手が当たれば資料が床に落ちそうだった。


 理織は空いている小さなトレーを近くの棚から取ってきた。


「じゃあ、コーヒーが冷める前に、分けましょうか」


 樹はすぐに顔を上げた。


「いえ、そこまでしていただくわけには」


「お客様の原稿を床に落とすわけにはいきませんから」


 理織は、できるだけ軽く言った。


「店長としてです」


 樹は黙った。


 それから、静かに頷く。


「では……店長として、お願いします」


「はい。店長として、少しだけ」


 理織はそう言って、カップを一度カウンターへ戻した。


     ◇


 理織は、テーブルの端に小さなトレーを並べた。


「日付があるもの」


「原稿っぽいもの」


「取材メモ」


「付箋」


「赤字入り」


「よく分からないもの」


 そう言いながら、紙を分けていく。


 樹はその分類を聞いて、眉を上げた。


「最後の箱が一番大きくなりそうです」


「坂本先生の頭の中ですか?」


「否定できません」


「では、大きめのトレーにします」


 理織は別のトレーを持ってきた。


 樹は小さく笑った。


 昨日より、樹の表情は柔らかかった。


 理織はそれに気づいたが、気づかなかったふりをした。


 紙の内容を深く読まないようにする。


 日付を見る。


 端のメモを見る。


 種類だけを確かめる。


 それでも、完全に見ないことはできなかった。


 短い会話の断片。


 人物の名前。


 使われなかったらしい一文。


 樹の言葉になる前のものたちが、そこにあった。


「これは、原稿ですか?」


 理織は一枚の紙を見せた。


 樹はそれを見る。


「原稿になる予定だったものです」


「予定だったもの、ですね」


「未定になりました」


「では、未定の箱を作ります」


「やはり、それが一番大きくなりそうです」


 理織はまた笑った。


 樹も、少しだけ笑った。


 コーヒーを置くためだけに始めた作業のはずだった。


 けれど、散らばった紙が少しずつ分かれていくにつれて、テーブルの上の空気も少しずつ変わっていくようだった。


 混ざっていた言葉が、居場所を取り戻していく。


 理織には、そんなふうに見えた。


     ◇


 赤字の入った原稿が出てきた。


 理織は、何気なく手に取ってから、その赤い文字に目を止めた。


 強い字だった。


 綺麗というより、迷いのない字。


 余計。


 ここは逃げ。


 説明しすぎ。


 この人物の本音は?


 短い言葉が、遠慮なく紙に置かれている。


 理織は思わず聞いた。


「これ、華さんの字ですか?」


 樹はその原稿を見て、懐かしそうな顔をした。


「ええ。容赦がないでしょう」


「でも」


 理織は赤字を見つめた。


「ちゃんと見ている字ですね」


 樹は黙った。


 その沈黙は、不快そうなものではなかった。


 少し遠くを見ているような沈黙だった。


「そうですね」


 樹は静かに言った。


「華は、私の逃げ道を先に見つける人でした」


「逃げ道」


「ええ」


 樹は赤字の一つを指でなぞる。


「私が綺麗な文章で隠そうとした場所を、彼女はたいてい見抜きました」


 理織は、華の字を見る。


 赤い線。


 短い言葉。


 鋭い指摘。


 けれど、そこには雑さがなかった。


 きっと本気で読んでいる人の字だ。


「すごい方なんですね」


「すごい人です」


 樹は迷わず答えた。


 その言い方に、理織は胸の奥が揺れるのを感じた。


 過去の人ではない。


 終わった人でもない。


 華は今も、樹の中にいる。


 樹の文章を、誰より近くで見てきた人として。


 理織は、その原稿を「赤字入り」のトレーへそっと置いた。


「私は、こういうふうには読めません」


「読む必要はありません」


 樹は言った。


「あなたは編集者ではありませんから」


「そうですね」


 理織は微笑んだ。


「私は店長です」


「ええ」


 樹も小さく頷いた。


「そして、読者です」


 その言葉に、理織の手が止まった。


 読者。


 その響きが、思ったより近くに落ちた。


 理織は、すぐに次の資料へ手を伸ばした。


     ◇


 資料の間から、古い案内状が出てきた。


 少し黄ばんだ紙だった。


 他の資料とは違う手触りがした。


 理織は最初、それが何か分からなかった。


 けれど、上部の文字が目に入る。


 ピアノ発表会。


 会場名。


 日付。


 そして、出演者の欄にあった名前。


 坂本優。


 理織の指が止まった。


 読もうとしたわけではない。


 でも、見えてしまった。


 樹も気づいた。


 静かに手を伸ばし、その案内状を受け取る。


「それは、こっちで」


 理織はすぐに手を離した。


「すみません」


「いえ」


 樹は案内状を見つめる。


「私が混ぜたんです」


 短い沈黙が落ちた。


 理織は、何も聞かなかった。


 優の名前。


 ピアノ発表会。


 父が来なかった日。


 それだけで、十分すぎるほど分かることがあった。


 樹は案内状を折らずに、鞄の内側へしまった。


 しまいながら、小さく言う。


「捨てられないものほど、整理しにくいですね」


 理織は返す言葉を探した。


 けれど、何も言えなかった。


 そこにある痛みは、理織が触れていいものではない気がした。


 だから、代わりに別の紙を手に取った。


「これは、日付がありますね」


「それは取材メモです」


「では、日付ありの方に」


「お願いします」


 何事もなかったように、作業を続ける。


 けれど、案内状が置いていった沈黙は、しばらく二人の間に残っていた。


     ◇


 十分ほど経つ頃には、テーブルの上が整っていた。


 原稿は原稿。


 メモはメモ。


 付箋は付箋。


 よく分からないものは、よく分からないものとしてまとまっている。


 完全に片づいたわけではない。


 けれど、コーヒーを置くスペースはできた。


 理織は冷めかけていたカップを取り替え、新しいコーヒーを置いた。


「これで、少なくともコーヒーは飲めます」


 樹はカップを見る。


「大きな進歩です」


「原稿は?」


「それは……小さな進歩からお願いします」


「分かりました。今日はコーヒーからですね」


 理織はそう言って、カウンターへ戻った。


 樹はしばらく、整えられた資料を見ていた。


 そして、ノートパソコンを開く。


 画面は白いままだった。


 昨日と同じ白さ。


 けれど、昨日とは少し違って見えた。


 樹はキーボードに指を置く。


 何かを書こうとする。


 止まりそうになる。


 それでも、指は動いた。


 散らばった言葉は、誰かの手で居場所を取り戻した。


 書いた一文を、樹はじっと見つめた。


 使えるかどうかは分からない。


 原稿になるかも分からない。


 誰かに見せられる文でもない。


 けれど、白い画面に文字が生まれた。


 樹は、その一文を消さなかった。


 保存だけして、画面を閉じた。


     ◇


 夕方の光が、窓際の席に差し込んでいた。


 樹は資料を鞄へ戻した。


 今度は、来た時より整っている。


 少なくとも、鞄の口は閉まりそうだった。


 理織がそれを見て言う。


「今日は閉まりそうですね」


「はい。大きな成果です」


「原稿より先に、鞄が進みましたね」


「順番としては間違っている気もします」


「でも、進歩です」


 樹が微笑む。


「そう思いたいです」


 会計を済ませる。


 樹はドアの前で立ち止まった。


「助かりました」


「店長としてです」


 理織はすぐに言った。


 樹は少しだけ目を細める。


「はい」


 それから、静かに続けた。


「店長として、助けられました」


 その言葉の中に、ほんの少しだけ別の響きが混ざっている気がした。


 理織は、それに気づかないふりをした。


 樹はドアに手をかける。


「また、散らかったら来てもいいですか」


「コーヒーが置ける範囲なら」


「努力します」


「お願いします」


 樹は小さく頭を下げた。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


 ベルが鳴る。


 樹が店を出ていく。


 夕方の光の中へ、その背中が遠ざかっていった。


     ◇


 閉店後、理織は窓際の席を片づけていた。


 今日は、昨日より席が軽く見えた。


 昨日は白い画面だけが残っているように見えた。


 今日は、紙の匂いと、深煎りコーヒーの余韻が残っている。


 ただ資料を分けただけ。


 コーヒーを置く場所を作っただけ。


 それだけのことだった。


 それなのに、樹の表情が変わった気がした。


 あの白い画面に、言葉が戻ったのだろうか。


 理織には分からない。


 樹は画面を見せなかったし、理織も覗かなかった。


 けれど、ノートパソコンを閉じる時の樹の横顔は、昨日とは違っていた。


 ほんの少し、呼吸が戻ったように見えた。


 理織はテーブルを拭く。


 布巾が木目の上を滑る。


 優しさのつもりだった。


 店長として、手伝っただけだった。


 けれど、その先に、何か別のものが待っている気もした。


 それが何なのか、理織にはまだ分からなかった。


 分からないまま、胸の奥に小さく残っている。


 樹の白い画面に、いつか言葉が戻る瞬間を、もう少しだけ見ていたい。


 そう思ってしまった。


 その気持ちが優しさなのか。


 優しさの先にあるものなのか。


 まだ、名前はつけられなかった。

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