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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第28話 空白の物語

店には入らなかった。


 それで正しかったのかもしれない。


 けれど、正しいことを選んでも、言葉が戻るわけではなかった。


 樹は、仕事部屋で白い画面を見つめていた。


 机の上には、開いたままのノートパソコン。


 横には、メモ用紙と付箋と、読み返されないまま積まれた資料の束。


 いつもなら、何かしらの言葉がそこにあった。


 短い一文。


 人物の名前。


 場面の切れ端。


 使うかどうかも分からない会話。


 けれど、今は何もない。


 ただ白い画面だけが、樹の前に広がっていた。


 昨日、Café Mélodieの前まで行った。


 窓の向こうに、理織の姿が見えた。


 目が合ったかどうかは分からない。


 それでも、理織がこちらに気づいたことは分かった。


 樹は頭を下げ、店には入らずに引き返した。


 優の場所へ、また勝手に入り込まないため。


 華の言葉を、忘れないため。


 あの子にとって、あの店はただのバイト先じゃないでしょう。


 あなたが行くなら、そのことだけは忘れないで。


 忘れていたわけではない。


 そう言うのは、もう逃げだと分かっていた。


 発表会の日も、忘れていたわけではなかった。


 それでも、行かなかった。


 忘れていなかったという事実は、来なかった席を埋めてはくれない。


 だから昨日、樹は店に入らなかった。


 その判断は、たぶん間違っていなかった。


 けれど、原稿は進まない。


 正しさは、言葉を連れてきてはくれなかった。


 樹はキーボードに指を置いた。


 画面の左上で、カーソルだけが点滅している。


 何かを書こうとする。


 帰る場所を失った人は――


 そこまで打って、指が止まった。


 昔なら書けた。


 帰る場所を失った人が、自分の中にある本当の帰り道を見つける物語。


 孤独な誰かに、そっと灯りを渡すような文章。


 そういう言葉を、樹は何度も書いてきた。


 けれど今は、その一文が嘘のように見えた。


 帰る場所を失っているのは、自分ではないのか。


 優の言葉を聞いて、華に叱られて、理織の店の前で立ち止まって。


 それでもなお、どこへ帰ればいいのか分からないのは、自分ではないのか。


 樹は打った文字を消した。


 画面がまた白くなる。


 その白さが、妙に重かった。


 何もないのではない。


 書けないほど、いろいろなものが沈んでいる。


 優の声。


 華の言葉。


 理織の目。


 Café Mélodieの窓に映った自分の姿。


 それらを物語にしてしまうことが、怖かった。


 美しい文章に整えてしまえば、少しは楽になるかもしれない。


 けれど、それをしてはいけない気がした。


 優の痛みは、優のものだ。


 華の怒りは、華のものだ。


 理織の優しさも、樹が勝手に救いとして書いていいものではない。


 樹は手元の付箋を一枚取った。


 ペンを走らせる。


 書けないのではない。

 書いてはいけないものの前で止まっている。


 書いた瞬間、少しだけ息が詰まった。


 それは原稿ではない。


 けれど、今の樹から出てきた唯一の言葉だった。


     ◇


 スマホが震えた。


 華からだった。


 原稿、止まってる?


 樹はしばらく画面を見つめた。


 嘘をついても、どうせ分かる。


 華は、樹の言葉の止まり方を知っている。


 樹は短く返した。


 止まっている。


 すぐに返信が来る。


 珍しく正直ね。


 樹は苦笑した。


 嘘をつく気力もない。


 少し間が空いた。


 それから、華の言葉が届いた。


 止まっているなら、止まっている場所を見なさい。

 逃げている場所じゃなくて。


 樹はその文を読んだまま、動けなかった。


 止まっている場所。


 それはどこなのか。


 優の前か。


 華の前か。


 理織の前か。


 白い画面の前か。


 あるいは、あの日の発表会の客席の前か。


 全部かもしれない。


 またスマホが震える。


 書けないことを、誰かのせいにしないこと。

 それだけは忘れないで。


 樹は目を閉じた。


 厳しい言葉だった。


 けれど、突き放しているわけではない。


 華はいつもそうだった。


 樹が逃げようとする場所を、正確に見つける。


 そして、そこから引きずり出そうとする。


 優しさとは違う。


 慰めでもない。


 けれど、樹の作家としての足元を知っているのは、やはり華だった。


 ありがとう。


 そう打とうとして、やめた。


 代わりに、短く返す。


 分かっている。


 送ったあとで、樹は思った。


 本当に分かっているのか。


 分かっているつもりで、いつも間違えてきたのではないか。


 スマホを机に置く。


 白い画面を見る。


 何も書けない。


 けれど、部屋に一人でいることもできなかった。


     ◇


 Café Mélodieへ向かう道で、樹は何度も足を止めた。


 行くべきではない。


 そう思った。


 けれど、行かないままでは、画面の前に戻っても同じだとも思った。


 昨日は入らなかった。


 それは正しかったのかもしれない。


 でも、正しさの中で、樹の言葉は動かなかった。


 スマホで、優のシフトを確認した。


 以前、理織から聞いた曜日と時間。


 今日、この時間に優はいない。


 それで許されるわけではない。


 優がいないなら何をしてもいい、ということではない。


 けれど、何も考えずに行くことだけは、もうできなかった。


 店の前に着く。


 黒板には、理織の文字があった。


 本日のおすすめ

 深煎りコーヒー

 りんごのタルト


 いつもの丸い字。


 その文字を見ただけで、少し息がしやすくなる。


 そのことに、樹は怖さを覚えた。


 誰かの文字に、こんなふうに頼っていいのか。


 いや、頼ろうとしているから危ういのか。


 樹はドアの前で、しばらく立ち止まった。


 昨日と同じ場所。


 昨日はここで引き返した。


 今日は、手を伸ばす。


 ドアを開ける。


 ベルが鳴った。


 店内に、コーヒーの匂いが満ちている。


 理織がカウンターの奥から顔を上げた。


「坂本先生……」


 少し驚いた声だった。


 けれど、拒む声ではなかった。


 樹は小さく頭を下げる。


「昨日は、失礼しました」


 理織は一瞬だけ考えたようにしてから、言った。


「入らずに帰られたことですか?」


「見られていましたか」


「見えてしまいました」


 理織の言い方は、責めるものではなかった。


 ただ、事実を置くような声だった。


 樹は少しだけ笑う。


「なら、昨日も失礼しました」


「二回分ですか?」


「はい」


「では、今日は一杯分長くいてください」


 理織はそう言って、水のグラスを用意した。


 その自然さに、樹は少しだけ救われる。


 救われてしまう自分に、また少し怯えた。


     ◇


 樹は窓際の席に座った。


 昨日、自分が外から見ていた席とは違う。


 けれど、窓の外はよく見えた。


 もし優が通りかかったら。


 そんなことを考えてしまい、樹はすぐに視線を戻した。


 理織が水を置く。


「今日は、深煎りでいいですか?」


「はい」


「お仕事ですか?」


「そのつもりです」


「そのつもり」


 理織は小さく繰り返した。


 樹は鞄からノートパソコンを出した。


 メモや付箋も一緒に出てくる。


 整理されていない紙が、机の上に少し広がった。


「仕事に見えませんか」


「いえ」


 理織は首を横に振る。


「パソコンの前で固まっている人には見えます」


 樹は返す言葉を失った。


 理織はすぐに慌てる。


「あ、すみません。失礼でした」


「いいえ」


 樹は白い画面を開いた。


「その通りです」


 理織はそれ以上言わず、カウンターへ戻った。


 樹は画面を見る。


 カーソルが点滅している。


 ここに来れば、何か変わるかもしれないと思った。


 けれど、白いものは白いままだった。


 深煎りコーヒーが運ばれてくる。


 カップから湯気が立つ。


 理織はそれを置きながら、少しだけ画面に視線を向けた。


 もちろん、覗き込むようなことはしない。


 それでも、何も書かれていないことは分かったのだろう。


「今日も、書けませんか?」


 その問いは、静かだった。


 樹は苦く笑う。


「今日は、書こうとしているふりが少し上手くなっただけです」


 理織は真面目な顔で考えた。


「それは、進歩なんですか?」


「後退ではないと信じたいですね」


「では、進歩かもしれませんね」


「優しいですね」


「優しいでしょうか」


 理織は少し首を傾げる。


「私には、よく分かりません。ただ、書けないと言っている人が、書こうとしてここにいるなら、何もしていないわけではない気がします」


 樹はカップに触れた。


 熱が指に伝わる。


「そう思いたいです」


 そう言って、樹は画面に向き直った。


 数分が過ぎる。


 コーヒーの湯気は少しずつ薄くなる。


 それでも、文字は生まれなかった。


     ◇


 理織はカウンターの奥で、樹の席を見ないようにしていた。


 見ないようにしている時点で、見ているのと同じだと思った。


 坂本樹。


 自分を救ってくれた言葉を書いた人。


 けれど今、窓際の席に座っているのは、本の中にいる作家ではなかった。


 白い画面の前で止まっている一人の人だった。


 理織は、コーヒーカップを拭く手を止める。


 作家の画面に、何も書かれていない。


 それはただの空白のはずだった。


 でも、理織には、その白さが痛いものに見えた。


 何も書かれていないのに、そこに言葉が詰まっている気がした。


 書けないのではなく、書かないように耐えている。


 そんなふうにも見えた。


 優のことを思う。


 そして、樹が昨日、店に入らず帰った背中を思い出す。


 みんな、何かを言わないことで、何かを守ろうとしている。


 けれど、言わないままでは届かないこともある。


 理織は、自分が何を気にしているのか分からなくなった。


 樹の原稿が止まっていること。


 優が傷つくかもしれないこと。


 自分が樹を気にしてしまうこと。


 その全部が、別々のようで、どこかで繋がっている気がした。


     ◇


 樹はペンを落とした。


 足元に転がったペンを拾うため、少し身をかがめる。


 その拍子に、机の端に置いていた付箋が一枚、床へ落ちた。


 理織がそれに気づき、先に拾った。


「あ……」


 拾っただけだった。


 読もうとしたわけではない。


 けれど、紙に書かれた短い文字が目に入った。


 書けないのではない。

 書いてはいけないものの前で止まっている。


 理織の指が、わずかに止まった。


 樹はそれを見ていた。


 短い沈黙。


 理織はすぐに顔を上げた。


「すみません。見るつもりはなくて」


 樹は付箋を受け取った。


「見られて困るものを、落とした私が悪いんです」


「でも」


「大丈夫です」


 そう言ってから、樹は苦く笑った。


「大丈夫ではありませんが」


 理織は何も言わなかった。


 その沈黙が、今の樹にはありがたかった。


 励まされるより。


 否定されるより。


 何も言わずにいてくれる方が、少しだけ息ができた。


 樹は付箋を見つめる。


 自分で書いた言葉なのに、他人の言葉のように見えた。


「私は今」


 樹はゆっくり口を開いた。


「書こうとしているのか、逃げようとしているのか、自分でも分かりません」


 理織は静かに聞いていた。


「分からないままでも、ここに来たんですね」


 樹は少しだけ目を伏せる。


「来てしまいました」


 その言葉は、思ったより正直だった。


 来た。


 ではなく。


 来てしまった。


 そこに、樹自身の弱さが滲んでいた。


 理織は付箋から視線を外し、樹を見た。


「昨日は、入らなかったのに」


「入らない方がいいと思いました」


「今日は?」


 樹はすぐには答えなかった。


 窓の外を見る。


 夕方の光が、道の端を薄く染めている。


「入らないままでは、書けないと思いました」


 理織は息を止めた。


 それは、胸の奥に触れる言葉だった。


 自分のいる店が、樹の言葉に関わり始めている。


 そのことが、少し怖かった。


「それは」


 理織は言いかけて、止まる。


 樹がこちらを見る。


 理織はゆっくり言った。


「この店に来れば、書けるという意味ですか」


「分かりません」


 樹は正直に答えた。


「ただ、この店では、書けない自分のまま座っていられる気がします」


 理織の胸が、小さく痛んだ。


 以前、彼女は言った。


 今は、出なくてもいいんじゃないですか。


 少なくとも、この店では。


 その言葉が、樹の中に残っていたのだと分かった。


 残ってしまっていたのだと、分かった。


 理織は目を伏せる。


 言葉は、届けばいいものだと思っていた。


 けれど、届いた言葉が誰かの逃げ場所になることもあるのかもしれない。


 それが救いなのか、甘えなのか。


 理織には、まだ分からなかった。


     ◇


 樹はメモを鞄に戻そうとした。


 けれど、鞄の中は乱れていた。


 原稿の束。


 古い資料。


 取材メモ。


 付箋。


 出版社からの連絡書類。


 それらが、ひとつの塊のようになっている。


 理織はそれを見て、つい言った。


「資料、少し混ざっていませんか?」


 樹は鞄の中を見る。


 そして、小さく笑った。


「少し、で済めばいいのですが」


「ずいぶん混ざっていますか」


「今は、どこに何があるのか、自分でも分かりません」


 樹は一枚の紙を取り出そうとして、別のメモを引っ張り出してしまう。


 理織は黙って見ていた。


 樹はその視線に気づき、少しだけ恥ずかしそうに言った。


「昔は、華が整理してくれていました」


 「華……?」


「あっ……優の母親です。」


「出版社で編集の仕事をしていて、私の担当なんです」


 その言葉に、理織の胸がわずかに揺れた。


 坂本華。


 優の母。


 樹の元妻。


 そして、樹の言葉を誰より近くで見てきた編集者。


「華さんが」


「ええ」


 樹はメモを揃えようとするが、うまくいかない。


「彼女は、私がどこで逃げているのか、原稿を見る前から分かる人でした」


 理織は少しだけ笑った。


「すごい方なんですね」


「すごい人です」


 樹は迷いなく言った。


 その言い方に、理織は何かを感じた。


 過去形ではなかった。


 今も、樹の中で華は大きな人なのだと思った。


「そういう時」


 理織は言った。


「誰かの手があった方がいいのかもしれませんね」


 言ったあと、自分で少し踏み込みすぎたと思った。


 樹も、すぐには答えなかった。


 鞄の中の資料を見つめている。


 やがて、静かに言った。


「その誰かを、間違えてはいけない」


 理織は言葉を失った。


 樹は顔を上げる。


「私は、何度も間違えてきました」


「坂本先生……」


「優のことも、華のことも」


 樹は自分の手元を見る。


「そして今も、間違えそうになっているのかもしれません」


 理織は何も言えなかった。


 間違えそうになっている。


 その言葉が、理織の胸に残る。


 それは自分のことなのか。


 この店のことなのか。


 それとも、まだ名前のつかない何かのことなのか。


 聞いてはいけない気がした。


 聞けば、何かが形になってしまう気がした。


「すみません」


 樹が言った。


「余計なことを言いました」


「余計かどうかは、私には分かりません」


 理織は静かに返した。


「でも、聞かなかったことにはできないと思います」


 樹は少し驚いたように理織を見た。


 理織は自分の言葉に、少し遅れて気づく。


 聞かなかったことにはできない。


 それは、優にも、香にも、樹にも、そして自分にも言えることだった。


     ◇


 結局、樹の原稿は一文字も進まなかった。


 コーヒーは冷めた。


 白い画面は白いままだった。


 それでも、樹は来た時より少しだけ疲れた顔をしていた。


 書いた疲れではない。


 書けないまま、空白の前に座り続けた疲れだった。


 樹はノートパソコンを閉じた。


 資料を鞄に戻す。


 相変わらず、整ってはいない。


 理織は手伝おうとして、手を止めた。


 今、そこに触れるべきではない気がした。


「長居しました」


 樹が言った。


「一杯分です」


「ずいぶん長い一杯でした」


「そういう日もあります」


 理織は以前と同じように言った。


 樹は少しだけ笑った。


 会計を済ませる。


 ドアの前で、樹は一度振り返った。


「今日は、ありがとうございました」


「私は何もしていません」


「何もしないでいてくれました」


 理織は返す言葉を失った。


 樹は小さく頭を下げる。


「それが、ありがたかった」


 そう言って、樹は店を出た。


 ベルの音が、静かに消える。


     ◇


 理織は、樹が座っていた席を見た。


 テーブルには、コーヒーカップの跡が残っている。


 ノートパソコンはもうない。


 資料もない。


 付箋も、樹が持って帰った。


 けれど、あの白い画面だけが、まだそこにあるような気がした。


 何も書かれていない画面。


 何も始まっていない原稿。


 けれど、何もないわけではなかった。


 書かれていないから、空っぽなのではない。


 書けないほど、誰にも渡せないものが沈んでいる。


 理織は、テーブルを拭く。


 カップの跡が消える。


 それでも、胸の中に残ったものは消えなかった。


 書けないのではない。

 書いてはいけないものの前で止まっている。


 あの付箋の言葉が、何度もよみがえる。


 樹の空白に、触れてしまった。


 そう思った。


 触れるつもりはなかった。


 けれど、見えてしまった。


 聞いてしまった。


 もう、知らなかった場所には戻れない。


 白い画面には、まだ一文字もなかった。


 けれど、その空白の中にだけ、樹がまだ誰にも渡せない物語が沈んでいた。


 理織は、その空白に触れてしまった気がした。

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