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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第27話 風にきかせて

送れなかった言葉が、まだスマホの中に残っている気がした。


 優は、自室の机に座っていた。


Café Mélodieから帰ってきても、優の胸にはまだ一音の余韻が残っていた。


 痛いままでも、鳴るんだね。


 理織の声が、耳の奥で静かに響いている。


 痛いままでも、鳴る。


 なら、痛いままでも、言葉にしなければいけない。


 優はスマホを手に取った。


 香とのトーク画面を開く。


 昨日は送れなかった言葉。


 けれど、今日は送らなければならないと思った。


 昨日のこと、なかったことにはしたくない。

 でも、まだうまく言えない。

 ごめん。


 正しい文章ではない。


 香が欲しい答えでもない。


 それでも、今の優が逃げずに言える言葉はそれだけだった。


 優は目を閉じ、送信した。


 画面の中に、自分の言葉が表示される。


 それだけで、胸が少し苦しくなった。


 何かが始まったのかもしれない。


 何かを失わずに済んだのかもしれない。


 どちらなのかは、まだ分からなかった。


     ◇


 香は、ベッドの上で丸くなっていた。


 スマホは枕元に伏せてある。


 見ない。


 そう決めたはずだった。


 けれど、通知音が鳴った瞬間、体が先に反応した。


 香は少しだけ目を閉じる。


 優だ。


 そう分かった。


 見たい。


 でも、怖い。


 何も来ないのも苦しかった。


 でも、来たら来たで苦しい。


「めんどくさ……」


 香は小さく呟き、スマホを手に取った。


 画面をつける。


 優からのメッセージが表示されていた。


 昨日のこと、なかったことにはしたくない。

 でも、まだうまく言えない。

 ごめん。


 香は、その文字を何度も読んだ。


 嬉しいと思った。


 優が、逃げなかったこと。


 なかったことにしないと言ってくれたこと。


 それは、確かに嬉しかった。


 でも、同じくらい苦しかった。


 まだうまく言えない。


 その言葉の中に、答えがないことも分かったから。


 優は優しい。


 ちゃんと向き合おうとしている。


 でも、向き合おうとしていることと、自分を選ぶことは違う。


 そんなこと、分かりたくなかった。


 香は返信欄を開く。


 気にしないで。


 打って、消す。


 大丈夫。


 打って、消す。


 こっちこそごめん。


 打って、また消す。


 どれも少し嘘だった。


 気にしてほしい。


 大丈夫ではない。


 ごめんと思っているけれど、それだけでは終わらせたくない。


 香は、しばらく画面を見つめた。


 そして、短く打った。


 うん。

 私も、なかったことにはしたくない。


 送信する。


 それ以上は書けなかった。


 でも、それだけは本当だった。


 香はスマホを胸に置いた。


 目を閉じる。


 涙は出なかった。


 代わりに、胸の奥に残っていた痛みが、少しだけ形を変えた。


 終わっていない。


 まだ終わっていない。


 それが嬉しくて、怖かった。


     ◇


 翌朝、優はいつもより早く大学に着いた。


 練習室へ向かう廊下は、まだ人が少ない。


 窓から入る朝の光が、床に細く伸びている。


 香に会うかもしれない。


 そう思うだけで、足が重くなった。


 避けようと思えば、避けられる。


 今日は別の練習室を使えばいい。


 授業まで、図書室にいてもいい。


 でも、それをしたら、また逃げることになる。


 優は練習室の前まで歩いた。


 ドアの前で足を止める。


 まだ誰もいない。


 そう思った時、背後から声がした。


「おはよ」


 優は振り返った。



香が立っていた。


 いつもと同じ姿。


 でも、二人の間に流れる空気だけが違っていた。


「おはよう」


 優が返す。


 少し沈黙が落ちる。


 香はその沈黙を見て、わざとらしく眉を寄せた。


「何その顔。こっちが気まずくなるじゃん」


 優は小さく息を吐く。


「もう気まずいだろ」


「うん。まあまあ気まずい」


 香はそう言って笑った。


 その笑い方が、少しだけいつもと違う……。


 香は練習室のドアを見る。


「入る?」


「うん」


「逃げないんだ」


 香の声は軽かった。


 けれど、言葉は軽くなかった。


 優は少し間を置いて答えた。


「逃げたくはなかった」


 香は一瞬だけ目を伏せた。


「そっか」


 それだけ言って、ドアを開けた。


     ◇


 練習室に入ると、いつもと同じ朝の匂いがした。


 ピアノ。


 譜面台。


 窓際の光。


 何も変わっていない。


 なのに、優と香の間だけが、今までとは違っていた。


 香はギターケースを置く。


 優はピアノの前に立ったまま、すぐには座らなかった。


「香」


 優が呼んだ。


 香はケースの金具を外しながら答える。


「ん?」


「すぐに…送れなくてごめん」


 香の手が少しだけ止まった。


 優は続ける。


「何を言えばいいか分からなかった」

「でも、分からないから黙るのは違うと思った」


 香は顔を上げなかった。


 ただ、ケースの中のギターを見ていた。


「うん」


「香を大事に思ってる」


 その言葉に、香の胸が小さく痛んだ。


 一度聞いた言葉。


 痛かった言葉。


 けれど、優は続けた。


「でも、その大事が、香の欲しい形と同じかは分からない」


 香はようやく顔を上げた。


 優は逃げずにこちらを見ていた。


 その顔は苦しそうだった。


 でも、嘘はなかった。


 香は小さく笑った。


「うん」


 それから、息を吐く。


「それ、かなり痛いけど、嘘つかれるよりはいい」


「ごめん」


「謝るの禁止」


 香はすぐに言った。


 優は言葉を止める。


 香はギターを取り出し、膝に乗せた。


「謝られると、こっちが悪いことしたみたいになるから」


「でも」


「でもじゃない」


 香は弦を軽く弾いた。


 短い音が鳴る。


「私も、ごめん」


 優が顔を上げた。


「困らせたいわけじゃなかった」


「うん」


「でも、困らせてもいいから言いたかったのかもしれない」


 香は自分で言って、少し笑った。


「最低だね」


「最低じゃない」


 優はすぐに言った。


 香は目を細める。


「そういうとこだよ」


「何が」


「すぐ否定してくれるとこ」


 香はギターの弦を見下ろした。


「優しいんだよね。優は」

「でも、その優しさが欲しい時と、いらない時がある」


 優は黙った。


 香は続ける。


「私じゃ、だめなのって言ったのは、困らせたかったからじゃない」

「でも、困らせるって分かってても、言っちゃった」


 練習室の空気が静かになる。


 香は少しだけ息を吸った。


「好きって言ったら、全部変わると思ってた」


 優の指が、わずかに動いた。


「でも、言わなくても、もう少しずつ変わってたんだね」


 その言葉は、香自身にも刺さった。


 好きと言わなければ、隣にいられると思っていた。


 でも、言わなくても、気持ちは少しずつ二人の距離を変えていた。


 優は、すぐには答えなかった。


 答えられなかった。


 けれど、今度は黙って逃げる沈黙ではなかった。


 香はそれを分かっていた。


「じゃあ」


 香は少し声を明るくした。


「重い話ここまで」


 優は瞬きをする。


「ここまで?」


「うん。朝からこれ以上やったら、授業前に魂抜ける」


「それは困るな」


「困るでしょ」


 香はギターを構えた。


「弾く?」


 優はピアノを見た。


「弾けるかな」


「弾けるかじゃなくて、弾くの」


 その言い方が、少しだけいつもの香だった。


 優は小さく頷き、ピアノの前に座った。


     ◇


 最初の音は、ぎこちなかった。


 優の指は少し迷っている。


 香の声も、いつもより低いところで揺れていた。


 前みたいには合わない。


 それは二人とも分かっていた。


 けれど、止まらなかった。


 香は短く息を吸い、歌い出す。


 まだ曲と呼ぶには早い。


 メロディも曖昧だった。


 でも、言葉だけははっきりしていた。


 君の隣で歌っても

 君の中には入れない


 優の指が止まりかけた。


 香はすぐに言った。


「止めないで」


 優は息を呑む。


 それでも、音を止めなかった。


 香は続ける。


 それでも隣にいたかった


 声が少し震えた。


 でも、逃げなかった。


 優の音も、その震えに寄り添うように細く続いていく。


 香は鍵盤を見ない。


 優の顔も見ない。


 ただ、前を見て歌った。


 心のままに歌えたら

 きっと君を困らせる


 そこで一度、声が止まった。


 練習室に、ピアノの余韻だけが残る。


 優は指を鍵盤に置いたまま、何も言えなかった。


 香は小さく笑う。


「重いでしょ」


 優はゆっくり答えた。


「痛い」


「うん」


 香は頷いた。


「痛い歌だから」


「俺に向けた歌?」


 優が聞いた。


 香は少し考えてから、首を横に振った。


「優から生まれた歌」


「俺から?」


「うん。でも」


 香はギターを抱え直した。


「これは私の歌だから」


 その言葉は、静かだった。


 けれど、強かった。


 優は香を見た。


 香は泣いていなかった。


 笑ってもいなかった。


 ただ、自分の歌を自分のものとして抱えていた。


「優だけのものにはしない」


 香は続けた。


「私が苦しかったことも、好きだったことも、隣にいたかったことも」

「全部、私のものだから」


 優は胸の奥が締めつけられた。


 香を傷つけた。


 それは消えない。


 でも、その傷を香は自分の歌にしようとしている。


 それが強さなのか、痛みなのか、優には分からなかった。


 きっと、両方だった。


     ◇


 もう一度、二人は合わせた。


 今度は、さっきより少しだけ音が近かった。


 それでも、前とは違う。


 香の歌には、もう隠せない本音が混ざっている。


 優の音には、遠慮と痛みが混ざっている。


 綺麗ではなかった。


 でも、止まらなかった。


 一曲にはならない。


 途中で崩れる。


 香が笑う。


 優も苦く笑う。


「ひどい出来」


 香が言った。


「そうだな」


「否定しないんだ」


「嘘はつかない方がいいんだろ」


「学習してる」


 香は少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、優の胸がまた痛む。


 でも、あの時の痛みとは少し違った。


 香がまだ、そこにいる。


 そのことがありがたくて、苦しかった。


「香」


「ん?」


「ありがとう」


 香は眉を上げた。


「何に?」


 優は少し迷った。


 でも、言った。


「まだ隣にいてくれて」


 香の表情が、一瞬だけ止まった。


 嬉しい。


 そう思ってしまった。


 痛い。


 同時に、そう思った。


 だから香は、すぐに笑った。


「いつまでいるかは、私が決める」


 優は小さく頷いた。


「うん」


「そこはちゃんと覚えといて」


「分かった」


「あと、簡単にありがとうとか言わない」


「それもだめなのか」


「だめな時もある」


 香はギターをケースに戻しながら言った。


「今日のありがとうは、ぎりぎり許す」


「ぎりぎりか」


「うん。かなりぎりぎり」


 優は少しだけ笑った。


 香も笑った。


 その笑いは、前より少し遠かった。


 けれど、完全に途切れたものではなかった。


     ◇


 Café Mélodieでは、理織がシフト表を見ていた。


 今日は優の名前がない。


 そのことに、少しだけほっとした。


 そして、ほっとした自分に、少しだけ戸惑った。


 優に会えば、きっと顔を見てしまう。


 何かを聞きたくなる。


 聞いてはいけないと思いながら、声をかけてしまう。


 だから、いないことにほっとした。


 でも、いない店は少し静かだった。


 理織はシフト表を閉じる。


 カウンターに置かれた坂本樹の本が目に入った。


 少しずつしか先へ進めない本。


 でも、閉じてしまうこともできない本。


 理織はその表紙にそっと触れた。


 その時、入口のベルは鳴らなかった。


 けれど、窓の外に人影が見えた。


 理織は顔を上げる。


 店の前に、男が立っていた。


 坂本樹だった。


 ほんの数秒。


 樹は店の中を見た。


 理織と目が合ったかどうかは分からない。


 理織が一歩、カウンターから出ようとした時、樹は小さく頭を下げた。


 そして、店には入らずに背を向けた。


 理織は立ち止まる。


 追いかけるべきか、一瞬迷った。


 けれど、足は動かなかった。


 窓の外から、樹の姿が消える。


「……来たのに」


 理織は小さく呟いた。


 入らなかった。


 その選択の意味を、理織は考える。


 優のためか。


 自分のためか。


 それとも、まだ言葉が出ないからか。


 分からなかった。


 でも、樹もまた、何かを持ちこたえているのだと思った。


 心のままに入ってくることを、今日はしなかった。


 そのことに、理織は少し安堵した。


 そして、少しだけ寂しいと思ってしまった。


 その寂しさに気づいて、理織は目を伏せた。


 誰のための寂しさなのか。


 まだ、名前をつけてはいけない気がした。


     ◇


 練習が終わり、優と香は並んで廊下を歩いた。


 前にも何度も歩いた道だった。


 でも、今日は少しだけ距離が空いている。


 肩が触れるほど近くはない。


 けれど、離れて歩くほど遠くもない。


 その距離を、二人とも意識していた。


 大学の外へ出ると、夕方の光が校舎の壁を染めていた。


 香は立ち止まり、空を見上げる。


「優」


「何?」


「私、まだ隣にいるけど」


 優は香を見る。


 香は空を見たまま言った。


「前と同じ隣じゃないからね」


 優はすぐに答えられなかった。


 でも、今度は沈黙で逃げたくなかった。


「……うん」


「そこ、ちゃんと分かってて」


「分かるようにする」


 香はちらりと優を見た。


「そこは、分かるって言い切れよ」


 優は少しだけ困った顔をする。


 そして、言った。


「分かる」


「よし」


 香は小さく笑った。


 その笑顔は、まだ少し痛かった。


 でも、少しだけ前を向いていた。


 二人はまた歩き出す。


まだ隣にいる。


 けれど、その距離は今までとは違っていた。


 近すぎて見えなかった痛みが、二人の間に小さく置かれている。


 それでも、香は歩き出した。


 優も、その隣を歩いた。


 夕方の風が、二人の間を静かに通り抜ける。


 言いきれなかった言葉を、そっと聞いていくみたいに。


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