第26話 心のままに
送れば、何かが始まる気がした。
送らなければ、何かをなくしてしまう気がした。
優は、スマホの画面を見つめていた。
夜の練習室。
誰もいない部屋に、蛍光灯の白い光だけが落ちている。
鍵盤の上には、まだ香の声が残っていた。
私じゃ、だめなの?
その言葉を思い出すたび、指先が止まる。
優はメッセージ欄に文字を打った。
昨日はごめん。
ちゃんと話したい。
打ったあと、しばらく見つめた。
でも、送信ボタンには触れられなかった。
ちゃんと話したい。
そう書いた。
けれど、何を話せばいいのか分からなかった。
香を大事に思っている。
それは嘘ではない。
傷つけたことも分かっている。
でも、香の言葉に何と返せばいいのかは、まだ分からない。
大事だよ。
そう言った。
その言葉が香を傷つけた。
なら、次は何を言えばいいのか。
優には分からなかった。
言葉を消す。
もう一度、打つ。
昨日はごめん。
そこで止まる。
ごめん、だけでは足りない。
でも、それ以外が出てこない。
優は目を閉じた。
送れば、香は返してくれるかもしれない。
何でもないみたいに。
大丈夫、と言うかもしれない。
でも、その大丈夫が本当ではないことを、もう知ってしまった。
大丈夫って言う時は、だいたい大丈夫じゃないけどね。
香はそう言って笑った。
笑って、帰った。
優はその背中を追えなかった。
今も、送れない。
画面の中の文字を、優はまた消した。
スマホを伏せる。
練習室には、音のない時間だけが残った。
◇
香も、スマホを見ていた。
ベッドに寝転がったまま、画面をつけたり消したりしている。
優からの連絡はない。
来ない方がいい。
そう思った。
来たら、きっと困る。
何を言われても、平気なふりをしなければならない。
だから、来ない方がいい。
そう思っているのに、香は何度も画面を見た。
「……ばかだな」
小さく呟く。
優が悪いわけではない。
分かっている。
優は、優なりにちゃんと考えてくれる。
だからこそ、何も言えない。
だからこそ、自分はあの沈黙で答えを知ってしまった。
香はメッセージ欄を開いた。
昨日のこと、気にしないで。
打って、すぐに消した。
そんなこと、言えない。
気にしないでなんて言ったら、優は本当に気にしないようにしてくれるかもしれない。
優は優しいから。
だからこそ、そんなことは言えなかった。
本当は、気にしてほしい。
でも、気にしてほしいと言えば、優を困らせる。
香はスマホを胸の上に伏せた。
それから、歌詞メモを開く。
昨日、駅前で打った言葉が残っている。
君の隣で歌っても
君の中には入れない
それでも隣にいたかった
香はその文字を見つめた。
重い言葉。
自分でもそう思う。
消したくても指が画面の上で止まる。
消えない言葉。
心のままに書いた言葉ほど、消すのが難しい。
香は苦笑した。
「ほんと、めんどくさい」
それが自分のことなのか、恋のことなのか、歌のことなのか。
分からなかった。
ただ、胸の奥だけは、まだ熱かった。
好きになるって面倒くさい……
◇
翌日の夕方、優はCafé Mélodieの前に立っていた。
看板には、いつもの文字がある。
Café Mélodie。
小さな黒板には、理織の丸い字で今日のおすすめが書かれていた。
本日のおすすめ
ふわとろオムライス
少しだけ、甘いプリン
いつもなら、その文字に少し気持ちが緩む。
でも今日は、ドアを開ける前に一度足が止まった。
昨日、香に言えなかった言葉。
送れなかったメッセージ。
それらが胸の中に残っている。
ここへ来ることが逃げなのか、仕事なのか、自分でも分からなかった。
それでも、シフトはある。
優はドアを開けた。
ベルが鳴る。
理織がカウンターの奥から顔を上げた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
理織は、いつものようにエプロンを渡した。
「今日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
優はエプロンを受け取る。
理織はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、見ている。
優には分かった。
理織はいつも、無理に踏み込んでこない。
でも、見ていないわけではない。
その距離が、今の優には少しありがたかった。
同時に、少し苦しかった。
香なら、たぶん言う。
大丈夫?って聞くと、大丈夫って言うでしょ。
だから聞かない。
そんなふうに。
理織は聞かない。
香も聞かない。
でも、二人の聞かなさは、少し違う。
優はその違いに気づいて、また胸が痛くなった。
◇
仕事は淡々と進んだ。
体は動く。
けれど、心は少し遅れている。
理織は何度か優を見た。
昨日より、何かが増えている。
そう思った。
父のことだけではない。
坂本樹が店に来たことを聞いた時の揺れとは、少し違う。
もっと近いところにある痛み。
もっと、今の優のそばにいる誰かの気配。
理織は、ふと香の顔を思い出した。
小さな演奏会の夜。
明るく笑って、ギターを抱えていた女の子。
優の音を外へ出す係です。
そう言っていた。
あの時の香の声は、明るかった。
でも、その明るさの中に少し痛みがあったことを、今なら分かる気がした。
夕方の混雑が引き、店内に静けさが戻る。
理織はカップを拭きながら、優に声をかけた。
「坂本くん」
「はい」
優が振り向く。
理織は少し迷ってから言った。
「香さんとは、最近どう?」
優の手が止まった。
その反応だけで、理織は聞きすぎたと思った。
「ごめん。答えにくかったらいいよ」
優はしばらく黙った。
それから、小さく言う。
「傷つけたかもしれません」
理織はカップを拭く手を止めた。
「香さんを?」
優は頷いた。
「たぶん」
「たぶん?」
「ちゃんとは、分からないです。でも……傷つけたと思います」
理織はすぐに理由を聞かなかった。
それが香のことなら、優が勝手に話していいことではないのかもしれない。
そう思ったからだ。
「そう思うなら」
理織は静かに言った。
「ちゃんと大事にしてるんだと思う」
優は少し苦しそうに笑った。
「大事にしてるのに、傷つけることってあるんですね」
「あると思う」
理織は答えた。
「大事だからこそ、うまく言えないこともあるから」
優は黙った。
その沈黙は、逃げではなかった。
何かを受け止めようとしている沈黙だった。
「香は、ずっと隣にいてくれたんです」
優が言った。
「俺の音が外に向くきっかけを作ってくれたのも、香で」
理織は黙って聞く。
「人に聴かせるのが怖かった時も、香が隣にいたから弾けたんだと思います」
「うん」
「なのに、俺はそれを当たり前みたいに思ってました」
優は視線を落とした。
「大事だって言ったんです」
その声は、少し掠れていた。
「でも、たぶん、それじゃ足りなかった」
理織は何も言えなかった。
足りない。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
誰かを大事に思っている。
それでも、その大事さが相手の望む形とは限らない。
それは、とても優しくて、とても残酷なことだった。
「足りなかったって分かるのは、苦しいね」
理織はそう言った。
優は小さく頷く。
「はい」
「でも、分からないままよりは、きっと苦しいだけじゃないと思う」
優は顔を上げた。
理織は少しだけ笑った。
「分かったなら、今度はちゃんと向き合えるから」
「向き合えるでしょうか」
「すぐには無理かもしれない」
理織は正直に言った。
「でも、逃げたままにはしない方がいいと思う」
その言葉は、優の胸に静かに残った。
香にも似たようなことを言われた。
逃げるのは悪くない。
でも、逃げっぱなしはだめ。
理織と香は、まったく違う。
でも時々、同じ場所を見ているようなことを言う。
そのことが、優には少し苦しかった。
◇
理織は、優の横顔を見ながら胸の奥が重くなるのを感じていた。
香が傷ついたのかもしれない。
その理由を、理織はすべて知っているわけではない。
けれど、少しは分かってしまう。
優の中に、自分がいる。
それが、香を傷つけたのかもしれない。
理織はカウンターに視線を落とす。
誰かに想われることは、優しいことばかりではない。
その想いが、別の誰かを傷つけることもある。
そんな当たり前のことを、今さら強く感じていた。
香は明るくて、強い子だと思っていた。
けれど、明るいから傷つかないわけではない。
強いから平気なわけでもない。
理織は、自分が香の痛みに関係しているかもしれないことが怖かった。
優の音が好きだと思った。
坂本樹の言葉に救われた。
樹本人の弱さを見て、気になってしまった。
それらは理織の中では別々の感情だった。
でも、誰かから見れば、別々ではないのかもしれない。
心のままに感じることが、いつも正しいとは限らない。
けれど、感じてしまったものを、なかったことにもできなかった。
◇
香は、大学の空き教室にいた。
窓際の席に座り、スマホの歌詞メモを開いている。
授業はもう終わっていた。
廊下からは、学生たちの声が聞こえる。
でも、香の周りだけ少し静かだった。
画面には、昨日の言葉が残っている。
君の隣で歌っても
君の中には入れない
それでも隣にいたかった
香はそれをじっと見た。
消そうとは、もう思わなかった。
消しても、どうせ残る。
だったら、残しておいた方がいい。
そう思った。
香は新しい行を作る。
少し迷ってから、文字を打った。
心のままに歌えたら
きっと君を困らせる
打ったあと、笑った。
「ほんと、めんどくさい歌」
誰もいない教室に、声が小さく落ちる。
でも、さっきより少しだけ息がしやすかった。
言葉にしたからといって、痛みが消えるわけではない。
優への気持ちが変わるわけでもない。
でも、胸の奥でぐちゃぐちゃに絡まっていたものが、少しだけ形になった気がした。
歌にできるかどうかは、まだ分からない。
でも、歌にしなければ、自分の中だけで腐ってしまう。
昨日、自分で言った言葉を思い出す。
外に向けて歌わないと、自分の中だけで声が腐りそうになるから。
「……ほんとに詩人かよ、私」
香は小さく笑った。
今度は、少しだけ本当に笑えた。
◇
樹は、仕事部屋の中でコートを手に取っていた。
外へ出るつもりだった。
行き先は、分かっている。
Café Mélodie。
あの店なら、言葉が出なくても座っていられる気がした。
コーヒーの匂い。
本棚。
理織の声。
少なくとも、この店では。
その言葉を思い出すだけで、少し息がしやすくなる。
けれど、樹はコートを持ったまま動けなかった。
華の言葉が、頭の中で響く。
あの子にとって、あの店はただのバイト先じゃないでしょう。
あなたが行くなら、そのことだけは忘れないで。
樹は目を閉じた。
忘れていたわけではない。
そう言えば、また同じことになる。
忘れていなかったとしても、考えが足りなければ傷つける。
優の発表会の日もそうだった。
忘れていたわけではない。
でも、行かなかった。
その結果だけが、優の中に残った。
Café Mélodieに行きたい。
その気持ちは本当だった。
けれど、その場所は優にとっても大切な場所だった。
自分の心のままに動けば、また優の場所へ入り込んでしまうかもしれない。
樹はコートを椅子の背に戻した。
「心のままに、では済まない年齢だな」
自嘲するように呟く。
作家としてなら、心のままに書けばよかった。
けれど父親としては、それだけでは足りない。
むしろ、心のままに動くほど、誰かを傷つけることもある。
樹は机の前に戻った。
白い画面を見る。
まだ、何も書けない。
けれど今日は、書けないまま外へ逃げることだけはしなかった。
それが前進なのか、ただの足踏みなのか。
樹にはまだ分からなかった。
◇
Café Mélodieの閉店後。
店内には、片付けの音だけが残っていた。
最後の客が帰り、理織が看板を内側へ入れる。
優はテーブルを拭き終え、カウンターの前に立っていた。
帰ろうと思えば、帰れた。
でも、足が動かなかった。
理織はそれに気づいていた。
けれど、すぐには何も言わない。
カップを棚に戻し、照明を少し落とす。
店の奥にある電子ピアノが、静かにそこにあった。
理織が振り返る。
「今日は、弾かない?」
優はピアノを見た。
香の声がよみがえる。
私じゃ、だめなの?
その声を思い出した瞬間、胸が痛んだ。
ここで弾くことが、また何かを間違えるような気がした。
理織の前で音を鳴らすことが、香をさらに傷つけるような気がした。
でも、何も鳴らさずに逃げることも違う気がした。
優は小さく息を吸う。
「一音だけなら」
理織は頷いた。
「うん。一音でいいよ」
優はピアノの前に座った。
鍵盤に指を置く。
前に鳴らせなかった一音。
あの夜、香の声の奥で震えた一音。
今、指先の下にある音には、いろいろなものが混ざっている。
理織への想い。
香への罪悪感。
父への痛み。
言えなかった言葉。
送れなかったメッセージ。
綺麗な音にはならない。
そう分かっていた。
でも、優は逃げなかった。
指に力を込める。
音が鳴った。
短い一音。
店の中に、静かに広がる。
すぐに消えるはずの音だった。
けれど、その余韻は思ったより長く残った。
理織はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「今日の音、少し痛いね」
優は鍵盤を見たまま答えた。
「たぶん、痛いまま弾いたからだと思います」
理織はその言葉を否定しなかった。
ただ、ゆっくり頷く。
「痛いままでも、鳴るんだね」
優は、その言葉を胸の奥で受け止めた。
痛いままでも、鳴る。
それは救いのようで、罰のようでもあった。
香を傷つけたことが消えるわけではない。
父への痛みが軽くなるわけでもない。
理織への想いに答えが出るわけでもない。
それでも、音は鳴った。
正しい音ではなかった。
誰かを救える音でもなかった。
けれど、今の心から逃げずに鳴らした音だった。
優はもう一度、鍵盤に指を置いた。
今度は鳴らさない。
ただ、そこに触れていた。
香の声。
理織の声。
父の言葉。
全部が消えないまま、胸の中にある。
心のままに生きることは、きっと綺麗なことばかりではない。
誰かを傷つけることもある。
自分が傷つくこともある。
それでも、心をなかったことにはできない。
心のままに鳴らした一音は、痛みを抱えたまま、静かに店の中へ広がっていった。




