第25話 刹那の感情
言わなきゃよかった。
香は、大学へ向かう道を歩きながら、昨日の自分の声を思い出していた。
でも……そこに私はいないみたい。
冗談のように言った。
少し戯けるように言った。
そうしなければ、言えなかった。
本気の顔で言えば、きっと優を困らせる。
だから笑って、軽くして、何でもない言葉みたいにした。
けれど、言葉は消えなかった。
眠りにつく時も。
目ざめる時も。
胸の奥に、ずっと残っていた。
言わなきゃよかった。
でも、言わなかったら、もっと苦しかった。
香は空を見上げた。
雲が薄く流れている。
今日は、歌えそうにないな……
◇
練習室の前で、優は壁にもたれて立っていた。
ただ、ぼんやりと床を見ている。
香は少し離れたところで足を止めた。
昨日より、顔が重い。
そう思った。
でも、それをそのまま言うほど、香は素直ではなかった。
「おはよ」
香が声をかけると、優は顔を上げた。
「おはよう」
「昨日、弾けた?」
優は少しだけ間を置いた。
「弾けなかった」
「そっか」
香は軽く笑った。
「じゃあ、まだ曲になる前だね」
優は少しだけ目を伏せる。
責められなかったことに、ほっとしたようにも見えた。
「曲になる前?」
「うん」
香は練習室のドアに手をかける。
「曲になる前って、だいたい面倒くさいんだよ。音になりたいのか、なりたくないのか、自分でも決めてないから」
「音にも意思があるみたいに言うな」
「あるよ。たぶん」
香はドアを開けた。
「少なくとも、優の音はよく逃げる」
「それは俺の問題だろ」
「なんだ、分かってるんだ!」
香はそう言って笑った。
優も少しだけ笑った。
その笑顔を見て、香の胸が小さく痛んだ。
自分の言葉で、優が少し楽になることがある。
それは嬉しい。
嬉しいはずだった。
けれど、その笑顔が自分に向かっているのかどうかは、分からなかった。
◇
練習室には、朝の光が入っていた。
優はピアノの前に座る。
香はギターケースを開けた。
いつも通りの距離。
いつも通りの準備。
でも、空気だけが少し違っていた。
「何からやる?」
優が聞いた。
「優が弾けるやつ」
「それが分からない」
「じゃあ、分からないやつから」
香はギターを抱えた。
弦に指を置く。
優も鍵盤に指を置いた。
最初の音は、静かに鳴った。
香はそれに合わせようとする。
けれど、すぐに分かった。
今日の優の音は、こちらを見ていない。
音は鳴っている。
でも、香の歌が入る場所がない。
内側に沈んでいる。
誰かへ向かう途中で、立ち止まっている。
香は途中で歌うのをやめた。
優も手を止める。
「どうした?」
「今日の優の音、こっち見てない」
「こっち?」
「うん」
香はギターの弦を軽く押さえた。
「隣にいる人の方、見てない」
優は黙った。
責めたかったわけではない。
でも、言葉は少し鋭くなった。
香はすぐに笑う。
「まあ、私も人のこと言えないけどね。歌ってる時、だいたい自分のことでいっぱいいっぱいだし」
優は少し困ったように笑った。
「香は、ちゃんと外に向いてるだろ」
「そう見せてるだけ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
香はギターを見下ろした。
「外に向けて歌わないと、自分の中だけで声が腐りそうになるから」
言ってから、少し言い過ぎたと思った。
優もそれに気づいたのか、黙っていた。
香は慌てて続ける。
「今の、ちょっと詩人っぽくない?」
「辛口な詩人だな」
「ひど」
香は笑った。
優も笑った。
その一瞬だけ、いつもの二人に戻った気がした。
でも、戻ったと思った瞬間、また少し遠くなる。
香はそれを感じていた。
◇
何度か合わせようとして、結局うまくいかなかった。
優の音は、途中で止まる。
香の声も、そこへ入れない。
少し休憩しようと言って、二人は黙った。
窓の外では、学生たちの声が遠くに聞こえている。
優は鍵盤を見ていた。
香はその横顔を見る。
何かを抱えている顔だった。
昨日と同じ。
いや、昨日より少し深い。
「昨日さ」
優が口を開いた。
香は顔を上げる。
「うん」
「店長に、変な顔してたと思う」
香は一瞬、息を止めた。
店長。
その言葉が出るだけで、優の声が少し変わる。
香には、もうそれが分かってしまう。
「何かあったの?」
香はできるだけ普通に聞いた。
優は少し迷ってから言った。
「父さんが、店に来たって聞いた」
香は黙った。
昨日、優の音に父と理織が混ざっていた理由が、ようやく分かった気がした。
「優がいない時に?」
「うん」
「店長さんと話したんだ」
「たぶん」
「たぶん?」
「詳しくは聞いてない。父さんが少し疲れてて、書けないって言ってたって」
優の声は静かだった。
でも、その静けさの奥に、まだ名前のないものが沈んでいた。
香は小さく息を吐いた。
「そっか」
「それだけなんだけどな」
「それだけじゃなかったんでしょ」
優は返事をしなかった。
香は苦笑する。
「分かりやすいなあ」
「何が」
「優ってさ、店長さんのことになると、ほんと分かりやすいよね」
優は少しだけ眉を寄せた。
「そうか?」
「うん」
香はギターの弦を指で弾いた。
小さな音が鳴る。
「音より分かりやすい時ある」
「それは困るな」
「困ればいいよ」
香は軽く言った。
軽く言ったつもりだった。
でも、胸の奥では別の言葉が膨らんでいた。
優は理織のことになると分かりやすい。
父のことになると、止まる。
その二つが絡むと、音まで動けなくなる。
香はそれを見ている。
ずっと隣で。
ずっと聴いている。
なのに、そこに自分はいない。
昨日の自分の言葉が、また胸の中で揺れた。
でも……そこに私はいないみたい。
香は笑おうとした。
いつものように、軽口で終わらせようとした。
でも、その一瞬だけ、間に合わなかった。
「私じゃ、だめなの?」
言ってから、自分が言ったのだと気づいた。
声は大きくなかった。
責めるようでもなかった。
ただ、ぽろっと言葉と涙が落ちた。
練習室の中に、その言葉だけが残った。
優は何も言えなかった。
香も、すぐに言葉を探した。
探して、笑った。
「……ごめん」
ギターの弦に触れていた指を離す。
「今の、なし」
優は香を見ていた。
何か言おうとしている。
でも、言葉にならない。
香はそれが分かってしまった。
分かりたくなかった。
優は優なりに、香を傷つけない言葉を探している。
でも、探している時点で、答えはもう出ているようなものだった。
「香」
優が呼んだ。
香は顔を上げる。
「香は、大事だよ」
その言葉は、優の本音だった。
だから、痛かった。
香は笑った。
「うん」
それから、少しだけ肩をすくめた。
「そういうのが一番ずるい」
優の顔が歪む。
「ごめん」
「謝らないでよ」
香はすぐに言った。
「優が悪いわけじゃないんだから」
言ってから、また苦しくなった。
悪いわけではない。
誰も悪くない。
だから、どこにもぶつけられない。
「違うんだよ」
香は小さく言った。
「私、優を困らせたいわけじゃない」
「うん」
「店長さんのことも、お父さんのことも、優にとって大事なのは分かってる」
「……うん」
「でもさ」
香は笑おうとした。
笑えなかった。
「分かってても、平気とは違うんだよ」
優は黙っていた。
その沈黙は優しさだった。
でも、香には少し残酷だった。
◇
練習室の時計の針が、静かに進んでいた。
香はギターをケースに戻した。
今日はもう無理だと思った。
歌えば、余計な言葉まで出てしまいそうだった。
「今日はやめよ」
香が言った。
「こういう日は、歌も音も逃げるし」
優は立ち上がりかけた。
「香」
「大丈夫」
香はすぐに言った。
そして、自分で苦笑した。
「ほんとに」
優は何も言わなかった。
香はギターケースを肩にかける。
ドアの前まで歩いて、振り返った。
「大丈夫って言う時は、だいたい大丈夫じゃないけどね」
いつものように言ったつもりだった。
でも、声が少しだけ揺れた。
優は追いかけてこなかった。
香は、それでよかったと思った。
追いかけられたら、きっと期待してしまう。
期待して、また傷つく。
だから、これでよかった。
そう思うことにした。
ドアを閉める直前、優の顔が見えた。
何かを言えないまま、そこに立っていた。
香は笑った。
ちゃんと笑えたかどうかは、分からなかった。
ドアが閉まる。
廊下に出た瞬間、練習室の中の静けさが背中から離れた。
香は少しだけ息を吐いた。
「ばかだな、私」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
◇
大学を出たあと、香はまっすぐ帰らなかった。
駅前まで歩いて、いつものストリートピアノの前を通る。
そこには、知らない誰かが座っていた。
小学生くらいの女の子が、片手だけで短い曲を弾いている。
音はたどたどしい。
でも、ちゃんと外に出ていた。
香は足を止めた。
優と初めて一緒に弾いた時のことを思い出す。
一緒に届けたんだよ。
自分でそう言った。
あの時は、本当にそう思っていた。
今も嘘ではない。
優の音を外に出せたことは、嬉しかった。
理織に届いたことも、きっと嬉しかった。
でも、そのたびに、優の音は自分から少しずつ遠くなっていく気がした。
香はスマホを取り出した。
歌詞メモを開く。
画面には、前に書いた言葉が残っていた。
君の音が遠くへ行くなら
私は隣で歌うよ
香はその下に、新しい言葉を打った。
君の隣で歌っても
君の中には入れない
打ったあと、じっと見る。
「重いな」
小さく笑う。
そして、消そうとした。
でも、消せなかった。
代わりに、その下にもう一行だけ打つ。
それでも隣にいたかった
香は画面を閉じた。
歌詞になるかどうかは分からない。
今はまだ、歌にするには痛すぎた。
でも、消してしまうには、本当すぎた。
駅前のピアノから、最後の音が鳴る。
周りの人が小さく拍手した。
女の子が照れたように笑う。
香はその光景を見て、少しだけ目を細めた。
好きって言わなければ、まだ隣にいられると思っていた。
でも、言わなくても、もう苦しかった。
◇
Café Mélodieでは、理織が閉店前の準備をしていた。
今日は優のシフトはない。
それでも、理織は何度か入口を見てしまった。
来るはずがないと分かっている。
分かっていても、見てしまう。
昨日の優の顔が、まだ残っていた。
大丈夫ではない顔。
それなのに、大丈夫だと言った声。
理織はカウンターに置いた坂本樹の本を見た。
開くことはできた。
でも、昨日より先へは進まない。
書けないと言った樹の顔。
その話を聞いた優の顔。
二つが交互に浮かぶ。
どちらも、理織が簡単に触れていいものではない気がした。
それでも、気にしてしまう。
「……本当に、難しいな」
昨日と同じ言葉を、もう一度呟く。
答えはまだ出ない。
出してはいけない気もした。
今はまだ、誰の気持ちにも名前をつけられなかった。
◇
樹は、机の前で原稿を見ていた。
昨日より息苦しさは薄い。
けれど、書けるわけではなかった。
画面には、数行だけ文字が並んでいる。
どれも違う気がした。
優の言葉を書かない。
そう決めた。
でも、書かないと決めた途端、自分が何を書けばいいのか分からなくなった。
机の端に置いたスマホを見る。
華からの言葉が残っている。
あの子にとって、あの店はただのバイト先じゃないでしょう。
あなたが行くなら、そのことだけは忘れないで。
樹は目を閉じた。
忘れていたわけではない。
そう言いたかった。
けれど、忘れていなければ傷つけないわけではない。
そんなことは、もう嫌というほど知っている。
Café Mélodieに行った時、優はいなかった。
だからいいと思った。
けれど、いなかったからこそ、優の知らない時間が生まれた。
それが優にとって何になるのか、樹は考えていなかった。
樹は自分の手を見る。
何万人もの読者に届く言葉を書いてきた手。
けれど、たった一人の息子の大切な場所に、どう入ればいいのかさえ分からない手。
「……情けないな」
その声は、仕事部屋の中に小さく落ちた。
樹はキーボードに指を置く。
何かを書こうとする。
けれど、やはり言葉は出なかった。
◇
夜、優は練習室に一人残っていた。
香が帰ってから、どれくらい経ったのか分からなかった。
鍵盤に指を置く。
音は、まだ鳴らない。
昨日とは違う。
昨日は、自分の中の感情に形がつくことが怖かった。
今日は、香の声に触れることが怖かった。
私じゃ、だめなの?
その声が、鍵盤の上に残っている。
小さくて、静かで、責めるようではなかった。
だからこそ、消えなかった。
優は、香を大事だと思っている。
それは嘘ではない。
香がいなければ、きっと自分の音は今も閉じたままだった。
人に聴かせることも。
誰かへ向けて弾くことも。
理織に聴いてもらうことも。
父と話すことも。
今よりもっと怖かった。
香はずっと隣にいた。
それなのに、自分はその痛みに気づけていなかった。
近すぎたから。
当たり前のように、そこにいてくれたから。
優は鍵盤に触れたまま、目を閉じる。
理織の声とは違う。
父の言葉とも違う。
香の声は、ずっと隣にあった。
すぐ近くにあった。
その近さに、甘えていた。
「ごめん」
誰もいない練習室で、優は呟いた。
香に届くはずのない言葉だった。
それでも、言わずにはいられなかった。
指先に、少しだけ力が入る。
音が鳴る。
短い一音。
けれど、その音はすぐに消えた。
旋律にはならなかった。
鳴らせなかった一音の奥で、今度は香の声が震えていた。
刹那の感情。
ほんの一瞬だけこぼれた本音。
それは消えたふりをして、優の胸に深く残り続けていた。




