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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第24話 織り重なる想い

優がCafé Mélodieに入ると、理織はカウンターの奥で本を閉じたところだった。


 坂本樹の新刊。


 その表紙が、優の目に入る。


 少し前なら、見ないふりをしていた。


 けれど今は、見ないふりをするには、その名前を知りすぎていた。


「お疲れ様です」


 優が言うと、理織は顔を上げた。


「お疲れ様」


 いつもの声だった。


 でも、少しだけ違う気がした。


 優には、それが何なのか分からなかった。


 柔らかい。


 けれど、どこか遠い。


 理織は本をカウンターの端に寄せた。


「また、読んでたんですか」


 優が聞いた。


「うん。少しだけ」


 理織はそう答えて、本の表紙に軽く指を置いた。


「前みたいには読めないけど、読めないわけでもなくて」


 その言葉は、前にも聞いた。


 けれど、今日の声には、また違う響きがあった。


 ただの読者の声ではない。


 本の中の言葉だけを見ている声ではない。


 優はそう感じた。


 けれど、その感覚をどう言えばいいのか分からなかった。


「そうですか」


 それだけ返す。


 理織は少しだけ優を見た。


 何かを言おうとして、やめたように見えた。


 そして、いつものようにエプロンを渡す。


「今日もよろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


 優はエプロンを受け取った。


 店の中には、夕方前の静けさがあった。


 テーブルの上に落ちる光。


 コーヒーの匂い。


 本棚に並ぶ背表紙。


 そのどれもが、いつも通りのはずだった。


 でも、どこかが少し違っていた。


     ◇


 仕事が始まると、優はいつものように動いた。


 水を出す。


 注文を取る。


 皿を運ぶ。


 カウンターを拭く。


 体は覚えている。


 けれど、心のどこかが少しだけ遅れていた。


 理織は、そんな優の様子に気づいていた。


 でも、すぐには何も言わなかった。


 昼の混雑が落ち着いた頃、店内に空席が増えた。


 理織がカップを棚に戻しながら、何気ない声で言った。


「昨日、坂本先生が来たよ」


 優の手が止まった。


 持っていたトレーが、ほんの少し傾く。


 すぐに戻した。


「……そうですか」


 声は、思ったより普通に出た。


 理織は優の変化に気づいたのか、少しだけ視線を向ける。


「うん」


 それから続けた。


「少し疲れてるみたいだった」


 優はトレーを持ち直した。


「父さんが、ですか」


「うん」


 理織は頷いた。


「書けないって言ってた」


 その言葉に、優の胸がざわついた。


 書けない。


 父が。


 あの父が。


 言葉の中に住んでいるような人が。


「そうですか」


 また、同じ返事になった。


 それ以外、出てこなかった。


 理織は隠しているわけではない。


 だから、普通に言ったのだ。


 昨日、坂本先生が来たよ。


 少し疲れてるみたいだった。


 書けないって言ってた。


 ただ、それだけ。


 でも、優にとっては“それだけ”ではなかった。


 父が、自分のいないCafé Mélodieに来た。


 理織と話した。


 自分の知らない時間が、この店にあった。


 それが胸の中で、静かに引っかかった。


 父への痛みなのか。


 理織への想いなのか。


 自分の場所に、また父が入ってきたことへの拒否感なのか。


 分からない。


 全部が混ざっていた。


「坂本くん?」


 理織が声をかける。


 優は顔を上げた。


「大丈夫?」


「大丈夫です」


 すぐに答えた。


 理織はその答えを聞いて、少しだけ目を細めた。


 大丈夫ではない。


 たぶん、そう思われている。


 でも、今ここで何かを言うことはできなかった。


 優はトレーを持って、客席へ向かった。


     ◇


 父さんが来たことが嫌だったわけじゃない。


 優は、注文を取りながらそう思った。


 父がCafé Mélodieに来ること自体を、責める理由はない。


 この店は優のものではない。


 理織の店であり、誰でも入れる場所だ。


 父だって客として来てもいい。


 頭では分かっている。


 でも、胸は追いつかなかった。


 Café Mélodieは、優にとって特別だった。


 理織と出会った場所。


 父の本を読み始めた場所。


 自分の音を聴いてもらった場所。


 香と一緒に演奏した場所。


 閉店後に、一音だけ鳴らした場所。


 そこに父が座った。


 自分がいない時間に。


 理織と向き合って。


 優は本棚の前を通る。


 坂本樹の本が並んでいる。


 父の名前は、この店に前からあった。


 けれど今は、本だけではない。


 父本人の気配まで、店に残っている気がした。


 それが苦しい。


 父さんは、いつもそうだ。


 何も知らないまま、俺の場所に入ってくる。


 あの夜、自分が口にした言葉が胸の中でよみがえる。


 父は変わろうとしているのかもしれない。


 優の言葉を聞こうとしているのかもしれない。


 書かないように、守ろうとしているのかもしれない。


 それでも。


 それでも、苦しいものは苦しかった。


「坂本くん、水、三番テーブルお願い」


 理織の声で、優は我に返った。


「あ、はい」


 返事が少し遅れた。


 理織は何も言わなかった。


 けれど、その沈黙がかえって優には刺さった。


     ◇


 大学の練習室で、優はピアノの前に座っていた。


 指を置く。


 音を出す。


 すぐに、止まる。


 もう一度、弾く。


 また止まる。


 旋律にならない。


 音がどこへ向かえばいいのか、自分でも分からなかった。


 あの時鳴らした一音は、確かに沈黙ではなかった。


 重くても、沈んではいなかった。


 でも今日は違う。


 重さの中に、濁りがある。


 音が自分の中で絡まって、ほどけない。


 ドアの外に気配がした。


 ノックもなく、香の声がする。


「入っていい?」


「いいよ」


 ドアが開く。


 香はいつものように入ってきた。


「今の、何?」


「分からない」


「また分からないやつ?」


「そう」


 香は少し笑って、壁にもたれた。


 それから、優の手元を見る。


「今日の音、また難しくなってる」


「難しい?」


「うん」


 香は少し考えた。


「誰か一人に向かってない感じ」


 優は黙った。


 その言葉は、思ったより深いところに当たった。


「店長さんのこと?」


 香が言う。


 優は答えない。


 香は少しだけ間を置いた。


「それとも、お父さんのこと?」


 優の指が鍵盤から離れた。


 音が完全に止まる。


 香はその反応を見て、全部ではなくても、だいたい分かった。


 両方なのだ。


 理織のこと。


 父のこと。


 その二つが、優の中で別々ではなくなっている。


「……何で分かるんだよ」


 優が小さく言った。


「音に出てるから」


 香は笑った。


 でも、少しだけ声が硬かった。


 分かってしまうのは、良いことばかりでは無い。


 優の音が変わるたび、香はその理由に近づいてしまう。


 そして、近づくほど分かる。


 自分は、その中心にはいない。


 優の中には、理織がいる。


 父がいる。


 そこに香は、歌で寄り添うことはできる。


 けれど、入り込むことはできない。


「大変だね」


 香は軽く言った。


「優の中、満員じゃん」


 優は顔を上げた。


「何だよ、それ」


「店長さんと、お父さんと、音と」


「でも……そこに私はいないみたい」


 香は少し戯けるように言った。


 優は返せなかった。


 冗談のように聞こえたのに、どこか本当だった。


「でも、何があったかまでは分からない」


 優は鍵盤を見つめた。


 香は続けた。


「だから聞いてる。店長さんのこと? それとも、お父さんのこと?」


 優はすぐには答えられなかった。


 どちらか一つなら、答えられたかもしれない。


 けれど今は、どちらか一つではなかった。


 理織のこと。


 父のこと。


 Café Mélodieのこと。


 自分でもまだ名前をつけられない感情。


 それらが胸の中で絡まっていた。


 優は鍵盤を見つめた。


 香はその沈黙を見て、少しだけ目を伏せた。


「ごめん。言い過ぎた」


 優は首を横に振る。


「いや」


 しばらくして、言った。


「多分、言われたくなかっただけだと思う」


 香は優を見る。


 その言葉が、香には少し嬉しくて、少し痛かった。


 優が自分にだけは、こういう弱い本音を少しだけ見せる。


 でも、その本音の向かう先は、自分ではない。


「そっか」


 香はそれだけ言った。


 それ以上踏み込めば、自分の方が壊れそうだった。


「今日は弾かなくてもいいんじゃない」


 香が言う。


 優は鍵盤を見た。


「弾いた方がいい気がする」


「そういう時ほど、音って逃げるよ」


「香がそれ言うのか」


「言うよ。私、音に逃げるの得意だから」


 香は笑った。


 その笑顔は、いつもより少しだけ寂しかった。


     ◇


 閉店後のCafé Mélodieで、理織は本棚を整理していた。


 坂本樹の本を一冊手に取る。


 背表紙に指を添える。


 昨日の樹の声が、まだ耳に残っていた。


 書けないんです。


 少なくとも、私が勝手に書いていい言葉ではありません。


 あの時の樹は、理織が本の中で見てきた作家とは違っていた。


 遠くで言葉を綴る人ではなかった。


 自分の言葉を失い、コーヒーの前で立ち止まっている人だった。


 理織は、その姿を思い出してしまう。


 そして、自分が樹のことを気にしていることにも気づいていた。


 ただの作家としてではない。


 自分を救ってくれた言葉の主としてだけでもない。


 目の前で弱さを見せた一人の人として。


 そのことに気づくたび、胸の奥が少しざわついた。


 理織は本を棚に戻す。


 すると、今度は優の顔が浮かんだ。


 今日、「昨日、坂本先生が来たよ」と言った時の優。


 一瞬だけ止まった手。


 普通に返そうとしていた声。


 大丈夫です、と言った顔。


 大丈夫じゃない…顔してたな…


 理織はカウンターに戻り、椅子に座った。


 私は、何を見ているんだろう。


 坂本樹の言葉なのか。


 坂本樹自身なのか。


 それとも、優くんの音なのか。


 答えは出ない。


 どれか一つだけなら、きっと楽だった。


 でも、もう一つにはできなかった。


 樹の言葉に救われた自分がいる。


 優の音に心を動かされた自分がいる。


 書けないと打ち明けた樹を心配している自分がいる。


 そして、今日の優を傷つけたかもしれないと感じている自分がいる。


 それらは別々の気持ちのはずだった。


 けれど、いつの間にか一本の糸のように絡まり始めていた。


「……難しいな」


 理織は小さく呟いた。


 誰に向けた言葉でもなかった。


 ただ、閉店後の店に落ちて、静かに消えた。


     ◇


 樹は、仕事部屋に戻っていた。


 原稿は、まだ進んでいない。


 けれど、真っ白な紙の前にいる時の息苦しさは、昨日より少しだけ薄かった。


 Café Mélodieで飲んだコーヒー。


 理織の言葉。


 少なくとも、この店では。


 その言葉が残っている。


 言葉が出なくてもいい場所。


 作家でなくても、座っていていい場所。


 そんなものを、自分は今まで持っていただろうか。


 机の端で、スマホが震えた。


 華からだった。


 樹は画面を見る。


 原稿の催促ではなかった。


 昨日、外に出たでしょ。


 樹は苦笑した。


 どうして分かる。


 すぐに返事が来る。


 文面が少し戻ってたから。


 樹はしばらく画面を見つめた。


 華は、やはり鋭い。


 言葉が止まっている時も、少し戻った時も、彼女には分かる。


華からのメッセージが続く。


 あの店に行ったの?


 樹の指が止まった。


 何も打てない。


 その沈黙だけで、答えになったのかもしれない。


 続けてメッセージが来る。


 優の店に?


 樹は短く返した。


 優は、いなかった。


 すぐに既読がつく。


 少し間が空いた。


 そういう問題じゃないわ。


 樹は目を閉じた。


 分かっている。


 分かっているつもりだった。


 でも、本当に分かっていたのかは怪しかった。


 華からのメッセージが続く。


 あの子にとって、あの店はただのバイト先じゃないでしょう。


 樹は画面を見つめた。


 次の一文が届く。


 あなたが行くなら、そのことだけは忘れないで。


 樹はスマホを握ったまま、動けなくなった。


 華の言葉は、まっすぐだった。


 樹がCafé Mélodieに行った理由を、華はまだ詳しく知らない。


 理織と何を話したのかも知らない。


 それでも、優にとってあの店が大切な場所になっていることは分かっている。


 樹は返信を打とうとした。


 分かっている。


 そう打って、指が止まった。


 本当に、分かっているのか。


 樹はその問いに答えられなかった。

     ◇


 夜、優は自室の電子ピアノの前に座っていた。


 部屋の灯りはつけている。


 窓の外には、暗い街がある。


 鍵盤に指を置く。


 けれど、音は鳴らなかった。


 あの夜には、一音だけ鳴らせた。


 重いけれど、沈んではいない音。


 理織がそう言ってくれた。


 香も、重いけど動いていると言ってくれた。


 でも今は、指先の下にある音が動かない。


 頭に浮かぶのは、理織の声だった。


 昨日、坂本先生が来たよ。


 少し疲れてるみたいだった。


 書けないって言ってた。


 優は唇を噛んだ。


 嫌だった。


 けれど、何が嫌なのか分からなかった。


 父が店に来たことなのか。


 理織が父のことを気にかけているように見えたことなのか。


 自分の知らない時間が、Café Mélodieにあったことなのか。


 どれか一つなら、まだ向き合えたかもしれない。


 でも、今は全部が混ざっていた。


 それらが胸の中で絡まっている。


 優は鍵盤に置いた指に、少しだけ力を込める。


 鳴らそうと思えば、鳴らせる。


 でも、鳴らした瞬間、今の感情に形がついてしまう気がした。


 それが怖かった。


 優は指を置いたまま、動かなかった。


 鳴らせない一音が、指先の下にあった。


 理織への想い。


 父への痛み。


 香の声。


 そして、自分でもまだ名前をつけられない感情。


 それらは別々の糸ではなく、いつの間にか優の中で絡まり始めていた。


 織り重なる想いは、まだ旋律にはならない。


 ただ、鳴らない音として、優の胸に残り続けていた。

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