第23話 綴れない言葉
樹は、仕事部屋で原稿を見つめていた。
書けない。
ただ、それだけだった。
ペンを持つ。
紙に向かう。
けれど、最初の一文字が出てこない。
頭の中には、いくつもの言葉がある。
物語の断片もある。
登場人物の声もある。
それでも、指先まで降りてこなかった。
代わりに、優の声が残っている。
来ないことに慣れていく自分が嫌だった。
その言葉は、何度も樹の中で繰り返された。
短い言葉だった。
けれど、どんな長い文章よりも重かった。
樹はペン先を紙に近づける。
孤独な少年。
空席を見続ける子ども。
冷める感覚を覚えてしまった心。
書こうと思えば、書ける気がした。
その痛みに名前をつけることもできる。
静かな場面にすることもできる。
読者の胸に残る文章にすることもできる。
けれど、それをしてはいけない。
優の言葉は、優のものだった。
勝手に整えてはいけない。
美しくしてはいけない。
物語のための痛みに変えてはいけない。
樹はペンを置いた。
「……駄目だな」
声に出しても、部屋の中には何も返ってこなかった。
これまで樹は、言葉にできないものを書くことで生きてきた。
誰かの沈黙。
誰かの後悔。
誰かの帰れない場所。
そこに名前をつけ、文章にしてきた。
それが、作家としての自分だった。
けれど今は、名前をつけてはいけない痛みが目の前にある。
そして、それに触れた瞬間、自分の言葉まで止まってしまった。
机の端に置いたスマホが震えた。
華からだった。
樹は少し迷ってから、画面を開く。
短いメッセージ。
原稿、進んでる?
編集者としての言葉だった。
けれど、その奥にある気配を、樹はよく知っている。
華は、ただ進捗を聞いているだけではない。
樹が止まっていることに、もう気づいている。
樹はしばらく画面を見つめた。
そして返信を打った。
進んでいない。
すぐに既読がついた。
少しして、返事が来る。
優と話したのね。
樹は目を閉じた。
華には、隠せない。
昔からそうだった。
原稿が止まった理由も、言葉の奥で何から逃げているのかも、華は見抜く。
少しだけな。
そう返す。
しばらく間が空いた。
次に届いた言葉は、短かった。
書こうとしてるんじゃないでしょうね。
樹は苦く笑った。
責められているのに、少し救われた気もした。
華はいつも、樹が逃げようとする場所を先に塞ぐ。
書かない。
樹はそう打った。
少し迷って、もう一文を足す。
書けない。
送信すると、部屋の静けさが深くなった。
華からの返事は、すぐには来なかった。
やがて、画面が光る。
書けないなら、今は書かなくていい。
樹はその文字を見た。
続けて、もう一通。
でも、逃げるために書かないのと、守るために書かないのは違うわよ。
樹はスマホを持ったまま、動けなかった。
華の言葉は、いつも容赦がない。
けれど、ただ切り捨てるわけではない。
逃げるな。
でも、守ることまで捨てるな。
そう言われている気がした。
樹は返信を打とうとして、やめた。
今の自分には、返せる言葉がなかった。
◇
仕事部屋にいることが、苦しくなった。
白い紙。
止まったペン。
冷めたコーヒー。
どれも、自分が書けないことを静かに示しているようだった。
樹は上着を取った。
行き先を決めたわけではない。
ただ、部屋から出たかった。
外の空気を吸いたかった。
玄関を出て、歩き出す。
夕方の街には、人の声があった。
車の音。
店の明かり。
遠くの電車の音。
自分以外の時間が、普通に流れている。
樹はその中を歩いた。
気づけば、足はCafé Mélodieへ向かっていた。
なぜ、あの店なのか。
優がいるかもしれないからか。
自分の本が置かれているからか。
それとも、山瀬理織という読者がいるからか。
答えは出なかった。
ただ、あの店には、自分の言葉を大切にしてくれた人がいる。
そして、自分の言葉だけでは届かなかった息子の音がある。
それが、今の樹には少し怖くて、少しだけ足を向けさせた。
店の前で立ち止まる。
入口の黒板には、いつもの文字が並んでいた。
本日のおすすめ。
ふわとろオムライス。
季節のケーキ。
おすすめコーヒー。
特別な言葉は何もない。
けれど、樹にはその何でもない言葉が、妙に眩しく見えた。
作られた名文ではない。
誰かを救うための言葉でもない。
いつもそこにあるべき言葉たち。
樹は少し息を吐き、ドアを開けた。
ベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、理織が顔を上げた。
そして、樹に気づく。
「坂本先生……」
その声には、驚きがあった。
けれど、拒絶はなかった。
樹は少しだけ頭を下げる。
「すみません。邪魔なら、帰ります」
理織は一瞬目を丸くした。
それから、困ったように笑った。
「お客様に、邪魔なんて言いません」
その言い方が、店長らしかった。
樹は少しだけ肩の力を抜いた。
「コーヒーをお願いします」
「コーヒーですね、お席へどうぞ」
樹は窓際の席に座った。
以前、優が演奏した場所が見える席だった。
店内には数人の客がいた。
静かな話し声。
カップの音。
コーヒーの香り。
樹は本棚に目を向けた。
自分の本が並んでいる。
以前は、少し気恥ずかしく、少し誇らしかった。
でも今は、違う。
その本の中には、自分が綴った言葉がある。
誰かを救ったかもしれない言葉。
理織が大切にしてくれた言葉。
けれど、一番近くにいた息子には届かなかった言葉。
樹は目を伏せた。
◇
理織は、コーヒーを淹れながら樹を見ていた。
疲れている。
最初にそう思った。
顔色が悪いわけではない。
声が荒れているわけでもない。
でも、どこか空白がある。
言葉の人が、言葉を置いてきたような顔だった。
理織はカップを持って、樹の席へ向かった。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
樹はカップに手を伸ばした。
けれど、すぐには飲まない。
理織は少し迷った。
店長としてなら、そこで下がるべきだった。
でも、読者としての自分が、そこに留まってしまった。
「眠れていないんですか」
樹が顔を上げる。
「顔に出ていますか」
「出ています」
理織は正直に言った。
樹は少しだけ笑った。
笑ったというより、笑おうとしただけに見えた。
「書けないんです」
その言葉に、理織は息を止めた。
坂本樹が、書けない。
理織にとってそれは、想像したことのない言葉だった。
この人は、いつも言葉の向こう側にいる人だと思っていた。
自分が辿り着けない場所で、静かに文章を綴っている人だと思っていた。
けれど、今、目の前にいる樹は違う。
コーヒーを前にして、少し疲れた顔で、書けないと言った。
「書けないことも、あるんですね」
理織はそう言った。
失礼だったかもしれない。
けれど、取り繕った言葉は出てこなかった。
樹は頷いた。
「あります」
少し間を置く。
「今までも、何度もありました」
「そうなんですか」
「でも、今回は少し違う」
理織は樹の向かいに座ったわけではない。
席の横に立ったまま、静かに聞いていた。
樹はカップを見つめた。
「息子と、少し話しました」
理織の胸がわずかに動いた。
優。
その名前を出さなくても、すぐに分かった。
「はい」
「私は、聞くと言いました」
樹の声は低かった。
「でも、聞いた言葉を、すぐに文章にしようとしてしまった」
理織は黙った。
「実際には、書いていません」
樹は続けた。
「けれど、頭の中ではもう、場面にしようとしていた」
その告白は、静かだった。
でも、樹自身を傷つけているようにも聞こえた。
「最低ですね」
樹は小さく言った。
理織はすぐに否定しなかった。
簡単に否定してはいけない気がした。
樹はその沈黙を受け止めるように、ゆっくり息を吐いた。
「書いてはいけない言葉があるのだと、初めて思いました」
理織は少しだけ眉を寄せた。
「それは、書かない方がいい言葉なんですか」
樹は考えた。
そして答えた。
「少なくとも、私が勝手に書いていい言葉ではありません」
理織はその言葉を聞いて、優の顔を思い出した。
閉店後に、一音だけ鳴らした優。
重いけれど沈んでいなかった音。
その奥にあったものを、樹は今、必死に守ろうとしているのかもしれない。
不器用に。
遅すぎるほど遅く。
それでも。
◇
店内の客が一組帰った。
ベルが鳴る。
理織は会計を済ませ、見送った。
戻ってくると、樹はまだコーヒーを見つめていた。
理織は少し迷ったあと、カウンターの内側に戻らず、樹の近くに立った。
「坂本先生の言葉に救われた人は、たくさんいると思います」
樹は顔を上げた。
「私も、その一人です」
ただの憧れとしてではなく、目の前にいる人へ向けて言っていた。
「でも」
理織は続けた。
「救われたからって、先生が誰も傷つけない人だとは思っていません」
樹の目がわずかに揺れた。
理織は自分の声が少し震えそうになるのを感じた。
それでも、言った。
「言葉が綺麗な人ほど、近くの人を傷つけてしまうこともあるのかもしれません」
言ってから、強すぎたかもしれないと思った。
でも、樹は怒らなかった。
反論もしなかった。
ただ、静かに目を伏せた。
「その通りです」
樹の声は、とても小さかった。
理織の胸が痛んだ。
責めたいわけではなかった。
でも、慰めたいだけでもなかった。
坂本樹の言葉に救われた自分がいる。
その一方で、優の心に影を落とした父親がいる。
その二つを、どちらか一つにしたくなかった。
「それでも」
理織は言った。
樹が顔を上げる。
「それでも私は、坂本先生の言葉が好きです」
樹は何も言わなかった。
「前と同じ意味では、もう読めないかもしれません」
理織は本棚を見る。
「でも、読めなくなったわけじゃありません」
樹はゆっくりと理織を見る。
「なぜですか」
その問いは、作家としてではなく、一人の人間としてのものに聞こえた。
理織は少し考えた。
「綺麗な言葉だけを書く人ではなくて」
言葉を選びながら、続ける。
「そういう弱さを持っている人だから、あの言葉が書けたのかもしれないと思うからです」
樹の表情が、わずかに崩れた。
それは、救われた顔ではなかった。
救われそうになって、それを怖がっている顔だった。
「私は」
樹は言いかけて、止まる。
言葉が続かない。
理織は待った。
急がせなかった。
樹はしばらくして、苦く笑った。
「作家なのに、言葉が出ません」
「今は、出なくてもいいんじゃないですか」
理織は言った。
「少なくとも、この店では」
樹は目を伏せた。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちていった。
華の言葉とは違う。
華は現実へ戻す。
逃げるなと、鋭く言う。
理織の言葉は、違った。
逃げ場を与えるわけではない。
けれど、言葉を失った自分を、そのまま座らせてくれる。
その違いが、樹には危ういほど優しかった。
◇
閉店時間が近づいていた。
最後の客が帰り、店内は静かになった。
理織は片づけを始めた。
樹は立ち上がる。
「長居しました」
「いえ」
理織は首を横に振る。
「コーヒー、一杯分のお時間です」
「ずいぶん長い一杯でした」
「そういう日もあります」
樹は少し笑った。
その笑みは、来た時よりもほんの少しだけ自然だった。
樹の視線が、店の隅へ向かう。
電子ピアノ。
優が弾いた場所。
理織はその視線に気づいた。
「優は、今日は?」
樹は自分で聞いてから、少し驚いたような顔をした。
理織は静かに答える。
「今日はシフトではありません」
「そうですか」
樹の声には、安心したような、寂しそうな響きがあった。
理織は少しだけ黙った。
「会いたかったんですか」
樹はすぐには答えなかった。
店の灯りが、静かに二人の間に落ちている。
「会いたかった、というより」
樹は言った。
「ここにいないと分かると、少し……」
言葉が止まる。
理織は続きを急がせなかった。
「寂しいですか」
樹は答えなかった。
けれど、その沈黙が答えのようだった。
理織は優のことを思った。
発表会の日、空席を見続けた子ども。
そして今、いない息子の気配を探す父。
遅すぎる。
きっと、そうなのだと思う。
それでも、遅すぎるから何も残らないとは限らない。
理織はそう思いかけて、すぐに胸の中で止めた。
それを決めるのは、自分ではない。
優だ。
◇
樹は会計を済ませた。
店を出る前に、少しだけ振り返る。
本棚。
電子ピアノ。
カウンター。
そして、理織。
「また、来てもいいですか」
理織は少し驚いた。
その言葉は、ただの客としての確認にも聞こえた。
でも、それだけではないようにも聞こえた。
理織は一拍置いてから答えた。
「いつでもお待ちしています」
樹は、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
ドアのベルが鳴る。
樹は夜の街へ出ていった。
理織はしばらく、その背中を見送っていた。
店の外に消えていくまで。
ベルの余韻が消えても、理織は動けなかった。
やがて、本棚へ目を向ける。
坂本樹の本が並んでいる。
そこにある言葉は、今でも理織の大切なものだった。
けれど、その言葉を書いた人は、もう本の中だけにはいない。
コーヒーの前で、書けないと言った人。
息子の言葉を勝手に綴れないと苦しんでいた人。
優のいない席に、寂しさを滲ませた人。
理織は本棚の前に立った。
一冊の背表紙に、そっと指を触れる。
あの人の言葉に、私は救われた。
その事実は変わらない。
でも、あの人自身も、どこかで救われたがっているのかもしれない。
そう思った瞬間、理織の中で、坂本樹という名前が少しだけ違う響きを持った。
それはまだ、恋ではなかった。
けれど、ただの憧れでもなくなっていた。
理織はそっと本棚から手を離した。
店の奥では、閉店後の静けさが広がっている。
言葉は、まだ綴れない。
けれど、その沈黙の中で、何かが少しずつ形を変え始めていた。




