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「彼女と僕と恋する言葉の物語」  作者: Ilysiasnorm


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第22話 旋律の一音

優は、Café Mélodieの前で足を止めた。


 店の入口には、いつもの黒板が出ている。


 本日のおすすめ。


 ふわとろオムライス。


 季節のケーキ。


 おすすめコーヒー。


 特別な言葉は何もない。


 演奏会の告知もない。


 それでも、優にはその黒板の奥に、いくつもの音が残っている気がした。


 香の歌。


 理織の拍手。


 父の声。


 少しだけなら。


 そう言って開いた時間は、本当に少しだけで終わった。


 けれど、その少しの中で、自分の中に何かが残った。


 軽くなったわけではない。


 楽になったわけでもない。


 むしろ、胸の奥には前より重いものがある。


 発表会の日。


 空いていた席。


 父の言葉。


 あの日の私は、父親より先に作家でいようとした。


 違う答えを選ぶべきだった…


 優は息を吐いた。


 まだ、答えは出ていない。


 許せたわけでもない。


 でも、何も知らなかった頃には戻れない。


 優はドアを開けた。


 ベルが鳴る。


 カウンターの向こうで、理織が顔を上げた。


「お疲れ様」


「お疲れ様です」


 いつもの挨拶。


 でも、理織は優を少し見つめた。


「少し、顔が変わったね」


 優は驚いた。


「そんなに分かりますか」


 理織は小さく笑った。


「分かるよ。一番前で聴いたから」


 その言葉に、優の胸が少し鳴った。


 一番前。


 あの日、理織が座っていた席。


 自分の音を聴いてくれた場所。


 優は目を伏せる。


「……すごいですね、店長は」


「そうかな」


「はい」


 理織はそれ以上、すぐには聞かなかった。


 ただ、いつものようにエプロンを差し出した。


「今日もよろしくお願いします」


 優はそれを受け取る。


「よろしくお願いします」


 店の中には、まだ何も始まっていない静けさがあった。


 けれど、それは前のような沈黙ではなかった。


     ◇


 仕事は、いつも通りだった。


 水を出す。


 注文を取る。


 オムライスを運ぶ。


 カウンターを拭く。


 理織がコーヒーを淹れる音を聞きながら、優は客席の間を歩いた。


 体は動いている。


 けれど、心の奥には父との会話が残っていた。


 発表会の日、俺はずっと客席を見てた。


 来ないって分かってからも、見てた。


 来ないことに慣れていく自分が嫌だった。


 自分で言った言葉なのに、何度も胸の中で響いた。


 言葉にしたことで、初めて形が見えた痛み。


 優はトレーを持ったまま、本棚の前を通った。


 坂本樹の新刊が並んでいる。


 前なら、見ないようにしていた。


 今も、まっすぐ見られるわけではない。


 でも、完全に目を逸らすこともできなかった。


 父の名前。


 父の言葉。


 そして、自分の音。


 それらはまだ、優の中でうまく並ばない。


 けれど、全部なかったことにはできなかった。


 理織はカウンターの中から、その横顔を見ていた。


 優が本棚を見たことに気づいた。


 けれど、仕事中に何かを言うことはしなかった。


 今日の優は、少し重い。


 でも、沈んでいるだけではない。


 何かを抱えたまま、立っている。


 理織には、そう見えた。


     ◇


 午後、大学の練習室で、優はピアノの前に座っていた。


 Café Mélodieのシフトまでの短い時間。


 鍵盤に指を置く。


 君への旋律。


 その曲を最初から弾く気には、まだなれなかった。


 けれど、何も弾かないままではいたくなかった。


 優は短いフレーズを弾いた。


 一音。


 それに続く、もう一音。


 さらに、迷うように三つ目の音。


 まだ曲ではない。


 旋律とも呼べない。


 でも、沈黙ではなかった。


 音が繋がりかけて、途切れる。


 優は手を止めた。


 練習室に、短い余韻が残る。


 ドアの外で足音が止まった。


 ノックはなかった。


 少しして、香の声がした。


「入っていい?」


「いいよ」


 ドアが開く。


 香はギターケースを持っていなかった。


 ただ、優の音を聴きに来たような顔をしていた。


「今の、何?」


「分からない」


「曲?」


「まだ違う」


「ふうん」


 香は練習室の中に入り、壁にもたれた。


「今日の音、少し重いね」


 優は鍵盤から手を離した。


「悪い意味?」


「ううん」


 香は首を横に振る。


「ちゃんと中身がある重さ」


 優は何も言えなかった。


 香は、優の音に出るものをいつも拾う。


 拾ってほしい時もある。


 拾われたくない時もある。


 今日は、その両方だった。


「お父さんと話した?」


 香が言った。


 優は顔を上げる。


「何で分かるんだ」


「分かるよ。音に出てる」


「そんなに出てるか」


「出てる」


 香は迷わず言った。


 そして少しだけ笑う。


「昨日までの音は、止まってた。今日の音は、重いけど動いてる」


 優は鍵盤を見た。


 重いけど、動いている。


 その言葉が、妙にしっくりきた。


「話せたの?」


「少しだけ」


「そっか」


「発表会の日のことを話した」


 香の表情が少し変わった。


 優が父のことを全部話すわけではないと分かっていても、その言葉だけで、そこに触れたのだと分かった。


「そっか」


 香はもう一度言った。


 それ以上、すぐには聞かなかった。


 優は少しして、鍵盤に触れる。


「聞いたら、楽になると思ってたのかもしれない」


「うん」


「でも、そうでもなかった」


「うん」


「余計に重くなった気もする」


 香は静かに聞いていた。


 それから言った。


「重くなったなら、音にしたら?」


 優は顔をしかめる。


「そんな簡単にできない」


「簡単じゃないから、音にするんじゃん」


 香らしい言い方だった。


 優は少しだけ笑った。


「無茶言うな」


「無茶じゃないよ。一曲にしろって言ってないし」


「じゃあ何だよ」


「一音でいい」


 優は香を見る。


「またそれか」


「だせるでしょ、一音なら?」


 香は笑った。


 けれど、その笑顔の奥には、少しだけ痛みがあった。


 優の音が変わるたび、香は嬉しかった。


 でも、その変化の先に、自分がいないことも分かっていた。


 理織へ向かう音。


 父との時間を抱えた音。


 そこに香は、隣で触れることはできても、中心には立てない。


 それでも、優が音を止めてしまう方が嫌だった。


 優は鍵盤に指を置いた。


 短い音を鳴らす。


 さっきより、少し深い音だった。


 香は黙って聴いた。


「それでいいんじゃない」


「これで?」


「うん」


 香は優を見る。


「今は、一音で」


 優は返事をしなかった。


 ただ、鳴らした音の余韻を、しばらく聞いていた。


     ◇


 樹は、仕事部屋で原稿を見つめていた。


 書けない。


 白い紙が、いつもより白く見える。


 ペンを持っても、文字が出てこない。


 優の言葉が、頭から離れなかった。


 来ないことに慣れていく自分が嫌だった。


 その言葉は、樹の中にずっと残っている。


 小説の中なら、書けると思った。


 孤独な少年。


 空席を見続ける子ども。


 冷める感覚を覚えてしまった心。


 それは、文章にすればきっと誰かに届く。


 読者の胸を打つ場面になる。


 けれど、樹は書かなかった。


 書けなかった。


 優の言葉は、優のものだった。


 勝手に整えてはいけない。


 美しくしてはいけない。


 読者のための痛みに変えてはいけない。


 樹はペンを置いた。


 優の言葉を書かないと決めた瞬間、自分が何を書けばいいのか分からなくなった。


 それは、初めての感覚だった。


 これまで樹は、誰かの沈黙を言葉にすることで物語を書いてきた。


 でも今は、その沈黙に触れたまま、言葉に変えられずにいる。


 スマホを見る。


 優に何か送りたい気持ちがあった。


 昨日はありがとう。


 また話せる時でいい。


 無理はしなくていい。


 そんな言葉がいくつも浮かぶ。


 けれど、樹は画面を閉じた。


 聞くと決めた。


 待つと決めた。


 ならば今、自分の言葉で優の時間を埋めてはいけない。


 樹は椅子にもたれ、天井を見上げた。


 言葉を書かないことが、こんなにも難しいとは思わなかった。


     ◇


 Café Mélodieの昼下がり。


 理織は、カウンターの端に置いた本を開いていた。


 坂本樹の新刊。


 あの日以来、なぜだか開くことができなかった本。


 昨日は一文だけ読んで閉じた。


 今日は、数ページ読み進めることができた。


 けれど、以前のようには読めなかった。


 以前は、その言葉の中に自分だけがいた。


 救われた自分。


 立ち止まった自分。


 帰る場所を探していた自分。


 でも今は、文字の向こうに樹本人がいる。


 そして、優がいる。


 坂本樹の言葉は、今でも理織に届く。


 それは変わらない。


 でも、その言葉を書いた人が、誰かを傷つけていないとは限らない。


 その当たり前のことを、理織は今さらのように知った。


 言葉は人を救う。


 でも、言葉を書く人が、いつも誰かを救えるわけではない。


 むしろ、近くにいる人ほど救えないことがあるのかもしれない。


 理織はページに指を置く。


 憧れの作家。


 優の父。


 言葉で自分を救った人。


 優の心に影をつくってしまった人。


 その全部が、同じ人の中にある。


 そのことが、まだうまく受け止められなかった。


「店長」


 優の声で、理織は顔を上げた。


「あ、ごめん。ぼんやりしてた」


「いえ」


 優は本に目を向けた。


 でも、前ほど息が詰まる感じはなかった。


 理織は本を閉じる。


「少しだけ、読めた」


「そうですか」


「うん。前みたいには読めないけど」


 優は黙った。


 理織は本の表紙に指を置く。


「でも、読めないわけでもなかった」


 その言葉は、優にもどこか重なった。


 父を許したわけではない。


 でも、完全に閉じたわけでもない。


 そんな感覚に似ていた。


     ◇


 閉店後、Café Mélodieには優と理織だけが残っていた。


 カウンターの照明だけが、店の中を柔らかく照らしている。


 優は椅子を戻し、最後のテーブルを拭いた。


 理織はレジを閉めたあと、少し迷うように優を見た。


「お父さんと、話した?」


 優の手が止まる。


 でも、隠そうとは思わなかった。


「少しだけ」


 理織は頷いた。


「そっか」


 それ以上、すぐには聞かなかった。


 その沈黙が、優にはありがたかった。


 優は布巾を畳む。


「発表会の日のことを話しました」


 理織は静かに優を見た。


「父さんは、覚えてました」


「うん」


「忘れてたわけじゃないって」


 優は視線を落とす。


「でも、来なかったって」


 理織はすぐには言葉を返せなかった。


 軽く慰めることはできないと思った。


 それは、軽くなる話ではない。


「それは……軽くならないね」


 理織の声は低かった。


 優は小さく頷いた。


「はい」


 それだけで、少し救われた気がした。


 大丈夫、と言われなかった。


 よかったね、とも言われなかった。


 軽くならないね。


 そのまま受け止めてもらえた。


「聞いたら、楽になると思ってたのかもしれません」


 優は言った。


「でも、そうでもなかったです」


「うん」


「父さんが覚えてたって聞いて、少し安心した気もします」


 優は自分の声を聞きながら、驚いた。


 安心した。


 そう思っていたのかもしれない。


「でも、忘れてなかったのに来なかったって聞いたら、余計に苦しくもなりました」


 理織は頷いた。


「どっちも本当なんだと思う」


 優は理織を見る。


「安心したのも、苦しくなったのも」


 理織は静かに言った。


「どっちか一つにしなくてもいいと思う」


 優はしばらく黙った。


 その言葉が、胸の中でゆっくり広がっていく。


「話せたって、言っていいんですかね」


 優は小さく言った。


 理織は少しだけ笑った。


「言っていいと思う」


「そうですか」


「少しでも、自分の言葉で話したなら」


 あの日の閉店後の夜を思い出す。


 自分の言葉で、想いを差し出した夜。


 今度は父に、自分の言葉を少しだけ渡した。


 それが正しかったのかは、まだ分からない。


 でも、話したことまでなかったことにはしたくなかった。


     ◇


 理織は、店の隅にあるピアノを見た。


「今日は、弾く?」


 優は少し戸惑った。


「弾けるか分かりません」


「一曲じゃなくてもいいよ」


 その言葉に、優は香の声を思い出した。


 一音でいい。


 今は、一音で。


 優は少しだけ笑った。


「一音だけなら」


 理織も笑った。


「うん。一音だけでも」


 優はピアノの前に座った。


 鍵盤の上に手を置く。


 Café Mélodieの閉店後。


 理織がいる。


 本棚には父の本がある。


 香の言葉も残っている。


 父と話した時間も、まだ胸の中にある。


 全部が一つの音の中に入るとは思えなかった。


 でも、何も鳴らさないままではいたくなかった。


 優は、ゆっくりと一音だけ鳴らした。


 短い音。


 でも、すぐには消えなかった。


 店の中に、静かに広がる。


 オムライスの匂い。


 本棚。


 一番前の席。


 理織の呼吸。


 その全部に触れるように、音が残った。


 理織は黙って聴いていた。


 音が消えたあと、少しして言った。


「前より、少し深い音がした」


 優は鍵盤を見た。


「重くなっただけかもしれません」


「重い音と、沈んだ音は違うと思う」


 優は顔を上げた。


 理織は優を見ていた。


「今の音は、沈んでなかった」


 その言葉が、優の中にそっと入ってきた。


 重い。


 でも、沈んでいない。


 父との時間。


 理織に伝えた想い。


 香が隣で聴いてくれた音。


 その全部が、まだ形にならないまま、自分の中で揺れている。


 でも、それは沈黙ではなかった。


「ありがとうございます」


 優は小さく言った。


 理織は首を横に振る。


「聴かせてくれてありがとう」


 その言葉に、優は少しだけ目を伏せた。


 また、聴かせて。


 いつかでいいよ。


 その約束が、ほんの少しだけ近くなった気がした。


     ◇


 帰り道、優は夜の空を見上げた。


 街の音がする。


 車の音。


 人の声。


 遠くの電車の音。


 その中に、さっきの一音がまだ残っていた。


 あの一音は、まだ旋律ではなかった。


 けれど、沈黙でもなかった。


 父と話した時間。


 理織に聞いてもらえた言葉。


 香が支えてくれた音。


 その全部が、まだ形にならないまま、一つの音の奥で静かに揺れていた。


 旋律になるには、まだ遠い。


 名前をつけるには、まだ早い。


 それでも優は、その一音を消したくないと思った。


 長い沈黙のあとに鳴った、たった一つの音。


 それは、いつか誰かに届く旋律の始まりかもしれなかった。

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