第21話 時の奏での中で
優は、大学近くの喫茶店へ向かっていた。
Café Mélodieとは違う場所。
父と会う場所に、あの店を選ぶ気にはなれなかった。
あの場所には、理織の声がある。
香の歌がある。
自分の音がある。
そこへ、また父との沈黙まで持ち込みたくはなかった。
スマホには、父とのやり取りが残っている。
少し、話せないか。
今度は、私が聞きたい。
それに対して、自分が返した言葉。
少しだけなら。
何度見ても、短い返事だった。
けれど、その短さの中に、自分の迷いが全部入っている気がした。
本当に行くべきなのか。
何を話せばいいのか。
そもそも、自分は父と話したいのか。
分からない。
でも、行かなければ、また何かが止まったままになる。
そんな気がした。
優は店の前で足を止めた。
ガラス越しに中を見る。
父は、もう来ていた。
窓際の席。
手元にはコーヒーカップ。
けれど、中身はほとんど減っていないように見えた。
樹はじっとカップを見ていた。
原稿用紙を見る時とは違う顔だった。
何かを書こうとしている顔ではない。
何かを待っている顔だった。
優は息を吸う。
店のドアを開けた。
小さなベルが鳴る。
樹が顔を上げた。
目が合う。
樹は立ち上がりかけた。
けれど、途中で止まった。
どう接していいのか分からない。
その迷いが、優にも分かった。
優は何も言わず、樹の向かいの席に座った。
「今日は、来てくれてありがとう」
樹が言った。
声は静かだった。
「少しだけならって言ったから」
優は答えた。
「ああ」
樹は頷く。
「少しだけでいい」
その言葉に、優は少しだけ目を伏せた。
もっと話したいと言われたら、席を立っていたかもしれない。
けれど、樹はそれ以上求めなかった。
それが逆に、優には落ち着かなかった。
◇
店員が水を置きに来る。
優はアイスコーヒーを頼んだ。
樹はすでに頼んでいたコーヒーを、ようやく少しだけ飲んだ。
沈黙が落ちる。
長い沈黙ではない。
けれど、父子の間では、それだけで十分に重かった。
樹が口を開きかける。
でも、すぐに閉じた。
優はそれを見た。
「何か言いたいなら、言えば」
樹は優を見た。
少し迷って、それから首を横に振る。
「いや」
樹は言った。
「今日は、聞くと言ったから」
優はすぐには返せなかった。
父が、言葉を飲み込んだ。
それだけのことが、優には少し不思議だった。
父はいつも言葉の中にいた。
言葉で誰かを救い、言葉で物語を作り、言葉で自分の世界を守っていた。
その父が、今は何も言わずに待っている。
優は水の入ったグラスを見た。
氷が小さく鳴る。
「父さんは、聞きたいって言ったけど」
「ああ」
「俺が何を言っても、最後は文章にするんじゃないかって思う」
樹の手が止まった。
優は続けた。
「人の沈黙とか、言えなかったこととか、そういうのを父さんは書くでしょ」
樹は黙っていた。
「俺が話したことも、いつかどこかで、綺麗な文章になるんじゃないかって思う」
言いながら、優は胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。
これは、ずっと思っていたことだった。
父の本を読んだ時から。
理織が父の言葉に救われたと話した時から。
自分の中の傷まで、父の世界に入ってしまう気がしていた。
樹はしばらく優を見ていた。
そして短く言った。
「しない」
優は顔を上げる。
「少なくとも、勝手にはしない」
樹の声は低かった。
長い説明はなかった。
約束する、とも言わなかった。
ただ、その言葉だけが置かれた。
優はすぐに信じたわけではない。
けれど、聞いた。
それだけは確かだった。
◇
アイスコーヒーが運ばれてきた。
優はストローを差した。
混ぜる。
氷が音を立てる。
その小さな音を聞いていると、昔のことが急に近くなった。
小さなホール。
舞台袖の匂い。
硬い椅子。
楽譜を握る手。
そして、客席の空いている一つの席。
「発表会の日」
優は言った。
樹の顔がわずかに動いた。
「俺は、ずっと客席を見てた」
樹は何も言わない。
「母さんはいた」
優はグラスの氷を見たまま続けた。
「でも、隣の席が空いてた」
あの日の空席は、不思議なくらいはっきり覚えている。
座席の色。
背もたれの形。
誰も座っていない場所だけが、舞台から妙に目立って見えた。
「始まる前も、弾いてる時も、終わってからも見てた」
優の声は、自分でも思ったより静かだった。
「来ないって分かってからも、見てた」
樹はカップに触れていた。
「もしかしたら、遅れて来るかもって思ってた」
その言葉を口にした瞬間、優の中で止まっていた時間が少しだけ動いた気がした。
あの日の数分は、優の中で何年も止まったままだった。
舞台に立っていた時間。
演奏が始まるまでの時間。
最後の音が鳴り終わったあとの時間。
拍手の中で、空席を見た時間。
全部が、まだそこにあった。
「すまなかった」
樹が言った。
短い謝罪だった。
けれど、優はすぐには受け取れなかった。
「謝ってほしいだけなら」
優は言った。
「もっと前に終わってたと思う」
樹は顔を上げた。
優は初めて、樹の目をまっすぐ見た。
「俺は、父さんがあの日のことをどう覚えてるのか知りたい」
樹の目が揺れた。
優は続けた。
「忘れてたのか」
喉の奥が詰まりそうになった。
でも、止めなかった。
「どうでもよかったのか」
店の中の音が、遠くなった。
他の客の声。
カップの音。
店員の足音。
全部がぼんやりしていく。
樹はゆっくりと息を吸った。
「覚えている」
優は黙った。
「忘れていたわけじゃない」
樹の声は低かった。
「でも、行かなかった」
優の指が、グラスの側面を強く押した。
冷たさが指先に染みる。
「締切があった」
樹は言った。
「原稿が止まっていた」
優は黙って聞いていた。
理由は知っていた気がする。
でも、父の口から聞くのは初めてだった。
「言い訳にするつもりはない」
樹は続けた。
「あの日の私は、父親より先に作家でいようとした」
優は息を止めた。
樹は目を伏せた。
「あの時…違う答えを選ぶべきだった」
その言葉は、静かだった。
仕方なかった、ではなかった。
忙しかった、でもなかった。
間違えた。
その一言だけだった。
◇
優はしばらく何も言わなかった。
頭の中で、あの日の空席がまた浮かぶ。
間違えた。
そう言われても、空席は埋まらない。
謝られても、あの日の自分は舞台の上で客席を見続けている。
「そう言われても」
優は言った。
「あの日の席は埋まらない」
樹は頷いた。
「分かっている」
「多分、分かってない」
優の声が少しだけ硬くなった。
樹は黙った。
優は視線を落とす。
言いすぎたかもしれない。
でも、嘘ではなかった。
「父さんが来なかったことも嫌だった」
優は言った。
「でも、それより」
言葉が止まる。
言えば、自分が思っていたよりずっと傷ついていたことを認める気がした。
それでも、今日は少しだけ話すと決めた。
「来ないことに慣れていく自分が嫌だった」
樹の顔から、色が引いたように見えた。
「最初は、今日は来るかもって思ってた」
優は続ける。
「でも、そのうち、どうせ来ないって思うようになった」
声が震えそうになった。
優はグラスを見つめる。
「期待しない方が楽だったから」
樹は何も言わない。
「でも、期待しなくなった自分のことも嫌だった」
言葉にして初めて、その痛みがはっきり形を持った。
父が来なかったこと。
父を待たなくなったこと。
待たない方が楽だと思ってしまったこと。
その全部が、優の中で絡まっていた。
樹は、ただ聞いていた。
何かを言おうとはしなかった。
言葉で埋めようともしなかった。
その沈黙が、優には少しだけ苦しくて、少しだけありがたかった。
◇
店の時計の針が進んでいた。
本当に、少しだけの時間だった。
けれど、優には長く感じた。
これ以上話すと、自分の中の何かが崩れそうだった。
優はストローから手を離した。
「今日は、ここまででいいかな……」
樹はすぐに頷いた。
「分かった」
引き止められると思っていた。
もっと聞かせてほしいと言われると思っていた。
何か綺麗な言葉でまとめられると思っていた。
でも、樹はそれ以上言わなかった。
優は少しだけ戸惑った。
父が待つことを選んだ。
それが、まだうまく受け止められなかった。
優は鞄を手に取る。
「またちゃんと話せるか分からないよ……」
樹は頷いた。
「ああ」
優は席を立つ。
樹も立ち上がりかけた。
けれど、途中で止まった。
優を追いかけるような動きではなかった。
ただ、見送ろうとしているように見えた。
「それでも」
樹は言った。
「今日は聞かせてくれてありがとう」
優は何も返さなかった。
返せなかった。
でも、聞こえなかったふりもしなかった。
優はそのまま店を出た。
ドアのベルが鳴る。
外の空気が、少し冷たかった。
◇
樹は、しばらく席に残っていた。
向かいの席には、優が使ったグラスがある。
氷がゆっくり溶けていた。
優の言葉が、耳の奥に残っている。
発表会の日、俺はずっと客席を見てた。
来ないって分かってからも、見てた。
来ないことに慣れていく自分が嫌だった。
樹は目を閉じた。
それは、樹が書いたどんな言葉よりも重かった。
作品の中なら、その痛みに名前をつけられたかもしれない。
孤独。
諦め。
沈黙。
けれど、今は名前をつけてはいけない気がした。
優の言葉は、優のものだった。
樹が勝手に整えていいものではなかった。
樹は冷めたコーヒーを見た。
父として、何かを取り戻したわけではない。
息子に許されたわけでもない。
ただ、知らなかった時間に少し触れた。
それだけだった。
それだけで、胸の奥が痛かった。
◇
優は駅へ向かって歩いていた。
夕方の光が、建物の窓に反射している。
街の音がする。
車の音。
人の声。
信号の電子音。
その中に、さっきの会話が混ざっていた。
覚えている。
でも、行かなかった。
あの日の私は、父親より先に作家でいようとした。
違う答えを選ぶべきだった。
優は足を止めなかった。
許せたわけではない。
胸が軽くなったわけでもない。
むしろ、聞いたことで余計に重くなった部分もあった。
でも、何も知らないまま怒っていた時とは少し違った。
父の言葉に触れた。
父が選ばなかった時間に触れた。
そして、自分の言葉にも、少しだけ触れさせた。
それが正しかったのかは分からない。
でも、もう完全に閉じたままではいられない気がした。
少しだけなら。
そう言って開いた時間は、本当に少しだけで終わった。
けれど、その少しの中で、止まっていた父子の時間が、かすかに音を立てた気がした。
それはまだ、旋律と呼べるものではなかった。
ただ、長い沈黙の中で、ようやく鳴った一音だった。




